感謝VS了
感謝をすれば、幸せになれるかもしれない。しかし、感謝をし続けることが無駄だ、と思ってやめるかもしれない。無駄であれば、幸せになれないだろう。それは、本人の意思で決めたことだ。それも自由である。
どんなことを言われても、感謝する人がいる。それは正しいのだろうか、幸せにはなれても、正しいとは限らないだろう。つまりは、役に立たない人間は、感謝しても、無駄だということだ。もしかすると、感謝している時点で、誰かの役に立っていたかもしれないが。
有難うという言葉は、有ることが難しいという意味でもあるが、生きている時点で『有る』ことが難しいのは、やはり、自明のことなのかもしれない。
でも――やっぱり、感謝は、したい人がすればいいことではあるとは思う。それを強制するのは、ちょっと歪な思惑があるように思う。
幸せになるには、未来に希望がなければならないのだが、希望も絶望もない無気力なぼくからしたら、そんな場所に行けるなんて、想像もできない。行けたら、まさに予想外だろう。
正しさを追い求めると、正しさを失うように、感謝をしようとすればするほど、感謝そのものが形骸化してしまう。ただの、言葉としての感謝でしかなくなる。
感謝とはなにか? という、疑問は隅に置いておいて、どうしたら幸せになれるのかというと、未来のイメージに加速をつけて進んでいる感じを持てるように、日々、なにかをやることだろう。ふと、発見がでてきたりすると、それなりに嬉しいものだ。創作的な思考というか、自分だけの思考で、なにかをやってみる。それが大事なのだと思う。
と、長々と話しをしたが、ぼくは、現在――感謝と戦っている。感謝しても、なんだかその行為が無駄のように感じる。きっと、死ぬ間際まで、感謝は、できないだろう。だって、有り難くないから。生きていることが、こんなにシンドイものだとは、という気持ちが思ったより長く続いているからだろう。
絶望があるから希望があるように、感謝があるから、有り難くないことがあるように、なにもかもが簡単にひっくり返る。そんな現実を現在進行形で、生きていこう。その先に――どんな絶望が待っていようとも。
誰かを悪くしたいし、正当化もしたい世界で、ぼくはなんとなしに――ここにいる。脳内で何度も同じ言葉が連呼する。何度も嫌になったが、嫌があるから好きがあるように、この世界は相対的な振れ幅でしか測れない。測れないというか、信じられない、が精確だろう。正確だし――精確だろう。




