これからのアニメ、これからのマンガ
ここまで日本人の娯楽作品を作る精神をその文化と精神に焦点を当てて見てきた。
対人恐怖症、そして民族文化性人格障害。
そして娯楽作品を作る者の社会的地位。
いずれも他の国では見られない日本ならではの独自のものである。
他の国がこの日本の真似をしても決して同じようにはできないだろう。
ビジネスで考えるなら利益の出ないところからはさっさと撤退するものである。
過酷で劣悪な環境にあるほどにそのジャンルが発展するというのは、我々から見ると異常なことに見える。
それは異常であるからこそ極端であり、
劣悪の中だからこそ美学を求める。
対人恐怖症を患うからこそ、
人と人の信頼や友情、愛といった繋がりを切実に求めて、美化してデフォルメして、
ときには大げさに礼賛し、ときには酷く侮蔑する。
人と人の出会いやぶつかり合いをドラマチックに演出し、喜怒哀楽さまざまな感情を浮かばせる。
誰かの感情を揺さぶってこその芸術。
誰かの楽しみになってこその娯楽。
誰かの心を震わせてこそ記憶に残る物語。
アニメ、マンガはデジタルコンテンツとして違法コピーから利益が得にくくなった。
代わりに演劇、ミュージカル、ライブといったジャンルが見直されるようになっている。
今後は日本のアニメ、マンガは演劇やライブの宣伝の一環。
玩具やキャラクターグッズを販売するための宣伝素材という風に形を変えて行くことだろう。
だが、日本人が対人恐怖症を患っている限り、民族文化性人格障害を患っている限り。
日本からは多くのアニメ、マンガがこれからも発信され続けるだろう。
その状況が収入が低く、満足に生活することができなくても、社会的に低い地位で同じ国の人間に侮蔑され続けても。
逆にその状況が酷ければ酷いほど、過酷であれば過酷であるほどに、己を犬畜生では無いひとりの人間だと認めさせたい欲求は高まるのだから。
それこそが日本人が娯楽作品を創るためのモチベーション。
怨念めいた情熱の根源なのだから。