8、記憶の迷路
強い霊に憑りつかれたまま、目を覚ますことのない婚約者、清水沙耶。
沙耶は最も好きなジョン・エヴァレット・ミレーの影響を受けており、彼女が眠る病室には今も一番好きだった『オフィーリア』の複製画が彼女の描いた絵画と共に飾られている。
この病室だけが世界から取り残されたように動き出すことがない。
今にも沙耶との懐かしい日々が蘇りそうな俺は、病院のすぐそばにある砂浜海岸を訪れ、波の音を聞いて心を落ち着かせた。
”ずっと一緒にいてくれるなら、迷うことなんてないでしょ?”
気分を良くして三つ編みにしていた沙耶の瑞々しい温もりに溢れた声が頭の中を駆け巡った。
高校を卒業した彼女は就職をすることなく、俺との交際を続け、画家を志す道を選んだ。
沙耶の生み出す美しい絵画は評価され、俺も絶賛した。彼女にしか描けない世界がある。沙耶が表現する世界は、明らかにズレているのに心に訴えかける何かがあった。
だが、沙耶は同時に守護霊がずっと取り憑いているほどの強い霊感の持ち主だった。そのせいで多くの異形のゴースト達と遭遇することが彼女の絵画にも影響を及ぼしていることは疑いようがなかった。
沙耶と一緒にいる中で、俺は彼女の孤独も知ることになった。
家族と離れ、一人でいることを選んだ沙耶、彼女の他者と異なる精神世界を受け入れられる人は決して多くはなかった。
俺はそんな彼女と寄り添うことに決めた。
”先生って呼ぶのももう違うよね。蓮君、一緒にいてくれてありがとう”
”もう少し大人になって帰ってくるよ、ずっと一緒に暮らしていけるように”
沙耶は絵を描きながら、自分と向き合う道を選んだ。
自然と霊を呼び寄せてしまうことを受け入れ、人知れずゴーストを狩る人の下で自分と向き合い始めたのだ。
だが……スピリチュアルな精神世界は沙耶に決して優しくはなかった。
危険と隣り合わせのゴースト退治の中で、沙耶はゴーストに憑りつかれたまま目を覚まさなくなった。
今はもう……沙耶と抱き合った時間も、手を繋いで歩いた日々も、永遠を約束した言葉も遠くなってしまった。
「先生、こんなところにいたのか……」
波の音が聞こえる海のそば、石ころの少ない砂の地面に落ち着いた様子へと戻ったアンナマリーが俺の隣に座り声を掛けた。俺はそんなアンナマリーに通じるかは分からないが、記憶を掘り起こされた中で湧いて出た言葉を言い放った。
「彼女は天才だった、彼女が生きて絵を描き続けることに意味があった」
頭の中に夕暮れの美術室でキャンパスへと向かう、学生服姿の沙耶の姿が蘇る。彼女が象徴主義的なタッチの絵画を描く、その自然な姿は今も記憶に残り続けている。
「今も好きなんでしょ?」
「あぁ、愛しているよ」
アンナマリーが答えを分かり切ったままに聞く。俺もどこか感傷的になっているのか、素直に返答していた。
「じゃあ……先生はさ、奈月をどこまで連れて行くつもりなんだ?
ずっと、このまま縛り付けたまま、苦しめ続けるのか?」
体育座りでこちらに顔を向け、真剣な表情を浮かべるアンナマリー。
奈月が俺に求愛する純粋な姿を何度も見てきたアンナマリーにとって俺の姿は歪なものに映っているだろう。
俺に依存する奈月を心配する彼女らしい問いだった。
「沙耶を諦めるわけにはいかない」
「そっか……うちは奈月がどうしたいか次第かな。
奈月がこれからも先生のそばを離れようとしないなら、黙って協力するよ」
普段は強情なアンナマリーの素顔がこの時見えた気がした。
波の音を聞きながら静かな時が流れる。
俺たちは帰るのが遅くなる前に奈月を迎えに行き、病院を出た。
この一件をきっかけに、沙耶を目覚めさせるため、より強い除霊が必要であると知った二人はゴースト退治をしながら修行を続けるのだった。