38 エピローグ
クロを捜索している間に夕暮れとなり、翔琉は橋の欄干にもたれかかり大きく溜息をつくと、道を行き交う人々に羨望の眼差しを向けた。
会社に勤め、家では家庭を守り、休日は家族サービスをしているサラリーマンに家事や子供の養育、夫のことまでも支える主婦。仕事に勉学や部活、遊ぶことにも一生懸命な若人。慎ましくも生き生きと老後を楽しむ高齢者。
懸命に生きている人達が、こんなにも立派で尊敬できる人達だったとは思いもしなかった。
それはごく当たり前のようで難しく、翔琉にとっては異世界と同じくらいとても縁遠い生活だった。
それがいまはとても身近に感じられ、嫌っていた世界が尊い。
こんな風に感じるようになったのはようやく視線を上げて人の顔を見るようになったからだろう。
でも、一方で深い喪失感に囚われることがある。
日々、社会へと適応していくことで、本来の自分が消えていっているような、どうしようもないくらいの淋しさがこみ上げてくる。
「……生きるって大変だな」
もう一度、あの悪魔に会いたい。
それは望んではいけないことなのかもしれないが、あの悪魔と共に居たときが、異世界を強くたぐり寄せられる時間だった。
それから黄昏れるように川を眺めていると、足になにかがすり寄ってきた。
にゃー
真っ黒な黒猫が甘えるように鳴いて、頭や首をごしごしと気持ちよさそうにこすりつけてきた。
翔琉はどっと疲れが溢れ出てきたように肩を落とした。
「クロ……どこいっていたんだよ……探したんだぞ」
もう会えないんじゃないかと最悪なことまで覚悟していた。
そんなこちらの心配などどこ吹く風。
頭や顎を撫でていくと喉を鳴らし、ゴロンと転がってお腹を出して、もっと撫でてくれと催促してくる。
「ごめんな、ほったらかしにして」
いままで構ってこなかったぶん、これでもかと撫でてやると、じゃれるように手を甘噛みしたり、ゴロゴロと転がったりした。
そろそろ抱いて帰ろうとすると、クロはなにかに気がついたようにすっと起き上がり、欄干の隙間から川面を見下ろした。
「どうした?」
翔琉も覗いてみると、橋の下から大きな魚影が川を泳いでいった。
「なんだ、あの魚……」
体長が二メートル以上はあるだろう。その奇怪な魚は白く透明な鱗で覆われていた。
その魚に見覚えはなかったが、過去の記憶が呼び起こされる。
「あれって……もしかしてキョウちゃんが言ってた――」
子供の頃に鏡子が釣り上げようとしていた怪魚のことを思い出したが、そんなはずはないと頭の中で否定する。
「いや、まさかね……」
あれは染色体異常を起こした魚、ナマズや雷魚だろう。あるいはだれかが放流した外来魚だ。謎に満ちた深海魚であるリュウグウノツカイとかが奇跡的に川へと流れ着いたなんてことだって考えられるかもしれない。
とりあえず常識に照らし合わせてしまえば、どんな不可解な謎にも解明した気にはなれる。
そんなことを思いつつも、その謎の巨大生物を食い入るように観察していると、左隣から声を掛けられた。
『ほう、あれはテフナドラゴンじゃな。まさかこの世界にも生息しておったとは』
「なんだい、テフナドラ――えっ……!?」
ごく自然に会話して、ごく自然に返答しそうになって気づく。
この馴染みのある声の主は――
『なにを驚いた顔をしておる?』
横を向くとそこには、影の姿をした悪魔がクロの影と同化して現れていた。
「ダクシャン……どうしてキミが……」
翔流は頭を抱える。
異世界と距離を置いたときから、妄想をして人形と会話をすることもなくなっていた。
それなのにいま眼前には、影の姿をした悪魔が現れている。
それも体をゆらゆらと揺らしながら、どこか楽しそうだ。
「まさかまたボクの頭がおかしく……」
てっきり心の病は完治したと思い込んでいた。
きっと悪魔との再会を望んだりしたから病気が再発したのだろう。
「しっかりしろ……正常になったんだ。いいか、消えるんだ……! 消えろ! 消えてくれ!」
悪魔を睥睨しながら翔流はポカポカと自分の頭を叩き、頬を平手打ちする。
痛い、でも消えない。
痛い、夢じゃない。
痛い、幻覚じゃない。
痛い、なぜ消えない!
すると通行人が、自傷行為を公然とする異常者に対して奇異の目を向けた。
「なにしてるのあの人……」
「みない方がいいわよ……」
綺麗な女性の方々が逃げるように駆け足になっていく。
――ああ、怖い。
さっきまでなんとも感じなくなっていた人の視線が怖い。
まるで汚物でもみるかのような視線が清らかな心を抉っていく。
『なにを言ってるのかわからんが、ワシシは魔力を使い果たしてお主の中で眠っておっただけじゃぞ? それで目覚めてからはクロへと移り変り、ちっと散策に出かけておったのじゃ』
「やめてくれ! ……そんな作り話は聞きたくない」
『嘘はついておらん。お主が川に落ちた後、ワシシが取り憑いて救ってやったのではないか。それにお主が言っておったのだろ。この世界を冒険してみるのもよいと』
「言ったけど……」
花凜から聞いてなんとなくだが想像していたことだ。
ダークシャドーが体を乗っ取り、どうにか生還した。だがそれはもうひとつの人格が働いたことに過ぎない。
その悪魔が再び現れたということは、心が弱ってきたからに違いない。
「ああ、そうか……過去のボクが未来へと歩むボクを拒もうとしてるわけか。無駄だよ……ボクは区切りをつけて歩み始めている。惑わされるものか!」
『異世界に興味が失せたというのか?』
「それは……」
誤魔化すことなんてできない。
忘れるなんてできない。
だからこんなにも苦しい。
「落ち着け……変な魚も悪魔も全部がまやかしだ……現実から目を背けるな。歩み出したんだ、ボクは。これから真人間になって就職し、そこで彼女をつくり、結婚して……それで……それで……」
それは他人が描いた理想像だ。
そんな未来が欲しかったんじゃない。
子供の頃に抱いた夢はもっと壮大なものだった。
『現実から目を背けておるのは、はたしてどっちなのだろうかのぉ』
現実と夢との板挟みにあい、翔流が髪をかきむしったときだった。
なにかに呼応するかのように、テフナドラゴンが水面から跳ね、キラキラと大きな水飛沫を上げて着水した。
そしてその幻想的な一瞬の出来事に、小学生くらいの男の子達が驚愕した。
「うおっ! なんだよ、あのでかい魚!」
少年が声を上げ、欄干へと身を乗り出して川を一望する。
「いまの魚、真っ白でしたよ! きっと未確認生物です!」
利発そうな眼鏡を掛けた少年がスマホを取り出して撮影しようと試みた。
「えっ? なになに? どんな魚? ねえ、どこ?」
恰幅の良い少年は一部始終を目撃することができなくて、必死になってテフナドラゴンの姿を探した。
「いいから捕獲しようぜ! おれは急いで家から網を持ってくるから、ふたりは魚を追ってくれ!」
「わかりました! 動画を撮る担当は任せてください! 再生数が稼げるはずです!」
「頼んだ!」
「ねえ、どんな魚だったの? ねえ、待ってよ!」
小学生達が騒然とし、大人達も未知の生物に興味をひかれ、「なんだいまの?」と、川を観察していた。
「幻覚じゃ……ないのか……?」
『翔流よ、そろそろ目を覚ましてはどうだ?』
この悪魔がなにを言いたいのか、なにを期待しているのかもわかる。
思い悩む翔流は頭を下げ、そして不敵に嗤いはじめると、覚束無い足取りで歩き始めた。
「フフッ……ヘヘッ……」
道行く人々が不気味な男に、まるでモーゼの十戒のように道を空けて避けていく。
ただ本人からすれば笑っているだけだが、道行く人々からすれば気の触れた危険人物のようにみえるのだろう。
――わたしが翔琉のことを勇者にしてあげる。
ふと、子供の頃に鏡子と交わした約束が頭をよぎり、翔流は足を止めて足下を見つめる。
オフィス街の喧騒に耳を澄ませ、この世界を改めて見回した。
硬いアスファルトの上を車や人が忙しなく行き交い、高いビルの窓からは、仕事に勤しむ会社員の姿が覗える。
空には鳥が舞い、さらにその上空には航空機の飛行機雲が線を描いていく。
翔流は頭の中を空にして静かに瞼を閉じた。
目の前から景色が消え、街のあらゆる喧騒が遠のいていく。
すると頭の中で新たな景色が広がっていった。
石造りの街並みに建ち並ぶ簡易な露店群。
鍛冶屋が剣を鍛える音が響き渡り、威勢の良い声が至る所から飛び交う。
質素な服装をした人や剣を携えた冒険者、杖を持った魔女、それに人とは異なる姿をした亜人達が食料などを求めて店を見て回っている。
荘厳な城が街を見下ろし、重厚な鎧を着た騎士達が治安を守るため目を光らせ、交易品を積んだ荷馬車や乗合馬車が砂塵を巻き上げていく。
澄み渡る青い大空には、とても大きな鳥が人を乗せて泳ぐように羽ばたいていった。
そして翔流はある一団へと意識を止める。
先頭を長い黒髪を揺らしながら歩く、剣を携えた女性。
力強い光を宿した双眸に子供のような無邪気な笑み。
長く美しい黒髪に、上衣の上からでも分かる隆起した胸にしなやかな曲線美を描く長い四肢。
懐かしい面影がある女性は、なにかに気づいたかのように振り返ろうとしたところで、翔流の視界は暗転し、目の前の景色が現世の見慣れた街並みへと引き戻されていった。
『翔流よ、どこに行くのじゃ……?』
翔流は口元をほころばせて、ダークシャドーに向き直る。
「そんなの、決まってるだろ――」
ずっと前から決まっていた。
きっと、以前のように異世界ばかりを夢見て生きていくことはできないだろう。
それでも現実と折り合いを付けながら、夢を見続けていくことになると思う。
もしかしたらまた、距離を置くこともあるかもしれない。
それでもまたこれからも思いを馳せることをやめることはないのだろう。
だって、自分の人生は異世界と共に歩んできたのだから。
この先もきっと、異世界に恋をして生きていくのだろう。
「――探しに行こう、異世界を」
ここまでお読みくださり、まことにありがとうございます。
ここで話は一旦閉幕とさせていただきます。




