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36 夢からの一歩

 緊張から満足に睡眠がとれなかった翔流は、スーツ姿で家をはやめに出て面接先の会社へと向かっていった。

 だが、目的地が近づくにつれ胃腸がきりきりと痛み出し、何度も公衆トイレへと駆け込むこととなった。

 緊張からの吐き気や震えなどと格闘しながら、どうにか足を進めていくと、予定時刻ギリギリになってなんとか会社へとたどり着いた。


 世羅から紹介された会社は、健康食品や美容機器、健康器具などを手広く扱う、そこそこ大きな販売会社だ。

 営業の経験どころか社会性すらも欠けてはいるが、身を粉にする覚悟で挑めばなんとかなる。いまはダメでも、いずれ戦力になれるよう奮励努力するつもりでいた。 

 そのやる気を見てもらおうと意気込んでいたのだが、会社に着くころには尻込みしていた。


 面接に当たってくれた男は、ブランド物の高そうなスーツをびっしりと着こなした四十代前半の強面で、当初は柔和な笑みを浮かべて親身に対応してくれていたが、話を交わしていくうちに渋面をつくることがあった。


「なるほど……」


 厳つい面接官は意味深に溜息を吐いてこめかみを掻いた。


「世羅お嬢様からのお話ですから、こちらも便宜を図りたいと思います」


「ほ、本当にいいんですか?」


「弊社もネット販売事業をさらに拡大しているところで、これを期に働き方の改革を促進していこうとしていたところなんです」 


 翔琉の表情筋が緩む。

 内定はほぼ確実だったとはいえ、 面接での所作や質疑応答は調べてきたとはいえ不十分だったぶん、職場の人に認めてもらえたというのは安心する。

 学歴も職歴もない、引き籠もりだったニートの面接を真面目に受けてくれたのは世羅の力添えあってのものだ。

 翔琉がまずは小さな一歩を踏み出せるよう、最適な職場環境を整えてくれていただけではなく、仕事に慣れたら転属や転職のことまですでに考えてくれているようで、世羅にたいしてはもう頭が上がらない。

 まさに世羅という女神に出会い、現世でチート能力を手にしたようなものだった。

 けれど、このチート能力に甘えてばかりはいられない。力を授けてくれた人にたいして報いなければならないだろう。

 それにコネ入社だと顰蹙を買うのもなるべく避けねばならない。


「あとひとつ気になったんですが、この卒業後の空白期間はなにを?」


「うっ、それは……」


 言葉に窮してしまう。

 長年、引き籠もっていたことは隠すべきなのか、正直に話すべきなのか逡巡した。

 多大なる迷惑を掛けたりしないよう、まだたくさんの不安要素が残されていることを吐露しておかなければいけないような気がした。


「なにかなさってたんですか?」


「その……やってはいたんですが」


 口が裂けても言えるようなことではない。

 こんなこと口にしたら人間性を疑われる。


「アルバイトかなにかを?」


「えっと……夢を追いかけていたっていうか……」


 ずっと夢を見続けていた。

 子供の頃交わした約束を守るために、異世界のことばかりを考えていた。

 同級生が就職して、結婚して、子供が産まれて、幸せな家庭を築いていく中、異世界へと思いを馳せた。

 そして周囲に多大な気苦労をかけてきた。


「どんな夢です?」


「……たいしたことじゃないんです……本当にくだらないことで――」


 過去を否定する自分の言葉が嫌になる。

 人生の多くを費やしてきたことだった。

 他人からすれば幼稚でくだらない、とても小さな事を一つ一つ積み重ねていった。

 だれにも理解されなくても、どんなに淋しくて苦しくても、その先に明るい未来が待っていると信じて精進してきたことだった。


 返す言葉が見つからず翔琉が俯いていると、面接官の男は相好を崩して、親しみのある笑みを向けた。


「ごめんごめん、無理に言わなくてもいいよ。私もね、音楽をやっているからわかるんだ」


「音楽ですか?」


「家庭を持って一度は諦めたんだけどね。時間がある日や休日は昔の仲間と集まってバンドをしてるんだ。だからわかるよ、夢は簡単に諦めきれるものじゃないよね」


「はい……」


 翔琉の夢は他人に聞かせられるようなことではない幼稚なことなのだから、理解できることではいだろう。

 それでも面接官の気遣いになんだか救われたような気がした。


 

 面接からしばらくして。

 研修期間に入ると、自称勇者だった男の自尊心は大きく傷ついた。

 周りに迷惑を掛けてばかりで、なに一つ満足に仕事が出来ないでいた。

 リモートワークで顔を合わせる同僚にはいつも謝ってばかりで、心苦しい毎日が続いている。

 それでも周囲が優しく支えてくれたから、少しずつだが仕事を覚え、やりがいを感じるようになっていた。

 仕事終わりや休日には花凛や世羅たちが訪れ、和気あいあいと談笑をしたり、愚痴を吐いたり、どこかへと出かけたり。

 長く遠ざかっていたごく当たり前の幸せを、噛み締めるように享受した。


 ただふとした瞬間、処理しきれない感情がこみあげてくることがあった。

 長く蓄積されてきた想いが、いまもまだしこりのように残り続け、仕事に没頭することで誤魔化していた。


 そしてそんな忙しくも平穏な日々が続いたある日のこと。


 クロが家を出たまま帰ってこなかった。



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