29 自壊
田んぼと畑の景色がどこまでも続く真っ暗な田舎道。
街を分断するように流れる大きな川。そこに架かる橋の上で、久しぶりにすれ違う自動車のヘッドライトが、橋の上で傘を差した一人の男を映し出し、水飛沫を上げて通り過ぎていく。
井沼翔流は橋の中腹で欄干にもたれかかり、増水した川を眺めていた。
ここははじまりでもあり、少年期の終わりでもあった川だ。
子供の頃、夏休みに入ると鏡子と遊びに来ていた祖父母の家がある伊野郷村に数年ぶりに足を運んでいだ。
『いつまで、そうしておるつもりなんじゃ?』
ダークシャドーは翔流の視界をふさぐように眼前に現れた。
「……覚悟を決めていたんだ」
『ここで自決するつもりなのか?』
「ああ。ここがボクの知る中で、もっとも異世界に近い場所だから」
鏡子が消え、異世界を垣間見た場所。
何度か異世界へと渡ろうとして頻繁に訪れていた時期もあったが、それらすべては徒労に終わり、足は遠のいていった。
『具体的な話をしてはおらんかったが、お主はあちらの世界で転生して、そしてワシシを召喚してくれるわけなのだな?』
「成功したらね。その代わり、その対価として異世界でボクをサポートしてくれるってことで頼む」
『それは任せておくがよい。悪魔は契約を反故にするようなことはせん。それで、どれぐらいワシシはこっちで待っておればよいのだ?』
「転移か転生にもよるけど、最短で一年、最長でも二十年くらいは覚悟して欲しい」
『に、二十年じゃと……』
「転生した場合は必ずしも人に生まれ変わっているとは限らないから断言はできないんだ。そこから知識を集めるとなると、それなりの時間は要することになると思う」
必要な知識と道具を揃え、もしかしたら召喚士も仲間にしないといけない。さらに生まれる環境にもよるだろうし、どれくらいの期間が必要か予測が立てられなかった。
『冗談ではないぞ! そんなに時間を要するのでは話しはべつじゃ! そもそもその間、ワシシはひとりでこのよくわからん世界で待たされていないといかんというのか!』
「だったら、見聞を深める旅にでも出てみるのもいいんじゃないかな。なにかしらの発見や出会いがあるかもしれない」
『発見か……』
引き籠もりの翔琉と居ては、見つけ出せない出会いや発見だ。
「キミにとってこの世界は異世界なんだ。運命の悪戯によって召喚されたとするのなら、なにかしらの役目を担ってきているのかもしれない」
『……そんなことは考えもせぬかったが、確かに独自に動いてみる価値はありそうじゃな』
この悪魔はもしかしたら異世界へと導くためではなく、なにか別の役目を担っているのかもしれない。
「この世界は広い。外国に理想郷があるかもしれないし、なにか還る手立てがあるかもしれない。キミは自由だ。思う存分この世界を満喫するといい」
『ふむ。決めたぞ、ワシシは旅に出る!』
なにか悪さをしでかすのではないかと、ダークシャドーを放置していくことは心残りではあるが、この悪魔ならきっと人の迷惑を掛けるようなことはしないような気がした。
「じゃあ、ボクはそろそろ行くよ」
『翔琉よ、達者でやるのだぞ』
「キミもね」
傘をたたんで地面に置くと、橋の欄干に手を掛けてまたぎ、縁へと着地する。
「いまから行くよ、キョウちゃん……」
それから川を見下ろして呼吸を整えた。
水面まで二十メートルくらいあるだろうか。飛び込んでも無事かもしれないが、川の深さと流れでカナヅチの翔流ならば溺死するだろう。それに夜になって人と車の往来もなく、救いの手を伸ばす者もいない。落下したらそれまでだ。
『まだ飛び込まんのか?』
「ちょ、ちょっと待ってくれ……まだ心構えが……」
ダークシャドーが急かすが、翔流はなかなか飛び込めずにいた。
嫌な想像ばかりが頭の中に浮かんでは消えていく。
着水に失敗して怪我を負い、無残な姿で生き残ってしまったらどうしようか。
痛いだろうか。苦しいだろうか。
さらに転生できなかったらどうしようなどと、躊躇いが生じてしまう。
『まさか、ここまで来て臆したのではあるまいな?』
「し、仕方がないだろ……! ボクだって本当は死にたくはないんだから……」
『情けないのぉ』
だれからも必要とれていない男の元に残ったのは悪魔だけだ。
短い期間ではあったが一緒に生活してきたのに、哀しみの一つも見せることはない。悪魔なのだから軽薄なのは当然なのだろうが、少しは引き留めて欲しかった。
「愚かなことをしてるのはわかってる……こんなことをして成功する保証なんてないってことも」
『ずいぶんと確信に満ちておるように聞こえたが』
「ああ、極めて低い……むしろ絶対に成功しないと思っていい……」
『なんじゃと!?』
まるで天啓でも得たかのように、この場所に立つまでは、異世界転生ができると妄信していた。女神が翔流の存在を惜しみ、新たな機会を与えてくれると信じて。
「だいたい自殺をして転生ができるかも怪しいのに、そんなに都合良く前世の記憶を持ち合わせているはずがないんだ……それも異世界で転生するだなんて……」
未知なる力に魅了され、それが現実のものとして存在していると思い込もうとしていた。毎日毎日、細胞の一つ一つにまで言い聞かせ、自己催眠をしていた。
そしてその催眠が恐怖によって解けようとしている。
『お主は根拠もないことに命を賭けようとしておったのか?』
「……そもそも根本から間違ってるんだ……。異世界に召喚されたのはキョウちゃんで、ボクは必要とされなかったからこの世界に残されたのに、いまもまだそれが受け入れられなくてこんなことを……」
『翔流よ、どうしてしまったのだ……お主は勇者なのであろう? しっかりせぬか』
翔流は首を振って否定した。
「……ただのはったりだよ。魔法だって使えないし、剣を振るうこともできない無能だ。もし勇者が居たとするなら、それはキョウちゃんだ……ボクじゃない……ボクはモブだ……それもウザイ系の……」
『そうなのか?』
「……ボクがしていることは全部が偽物だ。デタラメなんだよ」
もし異世界に行けたとしても、翔流が生き抜いていく確率は極めて低かっただろう。
そんなことは心のどこかではわかっていたが、深く考えないようにしていた。
『まあ、そこまで卑下せんでもよいではないか。一応はワシシを召喚したわけだし、全くの無能というわけではなかろう』
「召喚……? 本当にキミが存在してたらの話しだけどね……」
『……なにを言い出しておるのじゃ?』
翔琉は困惑する黒い悪魔を憐れむように見つめた。




