婚約破棄をしただけで、どうしてこうなった?
『婚約破棄、承りましたわ』の王子視点です。
以前の作品を読んだことがない方はそちらからご覧下さい。
王立ヴェルジェ学園の卒業夜会で、ジークヴァルトは自分が主役になるはずだった。
第二王子が、公爵令嬢との退屈な婚約を終わらせ、心から愛する令嬢を選ぶ。そう宣言すれば、広間は驚き、やがて自分の勇気を称えるのだと信じていた。
隣にいるミルフィは、いつものように甘い香りをまとい、腕へそっと指を絡めている。彼女は花を贈れば笑い、話をすれば目を輝かせた。
セレスティアとは、何もかもが違った。
セレスティアは、茶会の席で国境の税について尋ねた。贈り物を渡せば、品の由来と管理台帳を確かめた。自分が狩りの話をすれば、怪我をなさらぬようにとだけ言った。
それを愛想のなさだと思った。王子である自分を、少しも特別に扱わない女だと思った。
今夜、皆の前で選ばれなかったと知れば、ようやくあの無表情も崩れる。そうしてからミルフィの手を取れば、自分が正しい側だと誰もが分かる。
ジークヴァルトは、そのために卒業夜会を選んだ。
「セレスティア・ヴァレンハイト。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」
弦楽が止まった。
銀の髪の婚約者は、ゆっくり顔を上げる。いつも通り、ほとんど表情を動かさない顔だ。
「……承知いたしましたわ」
ジークヴァルトは一瞬、言葉を失った。
泣くか、怒るか、せめて責めるかと思っていた。七歳から十一年、王妃教育を受けてきたのだ。王子妃の座を奪われて、何もないはずがない。
「そうだ、承知――は?」
「承知いたしました、と申し上げましたの」
それだけだった。
胸の奥で、用意していた言葉が空回りする。彼女を冷たい女だと呼び、ミルフィの温かさを皆に示すつもりだった。
だから、もう一度大きく告げた。
「私はミルフィを新たな婚約者とする。いずれ、この娘を我が妃に迎える」
男爵令嬢を妃と呼んだ瞬間、広間の大人たちが息を呑んだ。
その視線を、ジークヴァルトは古い身分のしきたりへの怯えだと思った。
「殿下は、いつもその顔だ。何を贈っても、何を話しても、少しも喜ばない」
責めれば、セレスティアは少しまばたきをした。
「聞いておりますわ」
その返事が、さらに腹立たしかった。
紅玉の首飾りを選んだときも、春の建国祭へ誘ったときも、自分は彼女の気持ちを問わなかった。ただ、どんな顔をするかを試して、期待と違えば勝手に失望した。
ミルフィは分かりやすく笑った。だから、自分を愛しているのだと思った。
「破棄については、確かに承りました。ただ、清算だけはさせていただきたいのです」
セレスティアが腰の手帳を外した。
飾りのない革表紙だった。まるで執事や会計官が使うような、地味な手帳。
「清算?」
彼女は返事を待たず、一つ目を読み上げた。王家主催の茶会三十二回のうち、自分が出席したのは二回。二回目にはミルフィを連れ、セレスティアの隣には座らなかったこと。
二つ目は、セレスティアへ贈るはずだった紅玉の首飾りを、ミルフィが胸元につけていること。
三つ目は、殿下名義の水路改修の裁可書を、すべて彼女が作成していたことだった。
「面倒だから代わりに書けと、仰いましたので」
広間のどこかで、小さな笑いが起きた。
ジークヴァルトは顔が熱くなるのを感じた。書類など、王子が一枚ずつ読むものではない。セレスティアは婚約者として役に立ったのだから、それでよかったはずだ。
水路改修は、雨期に王都の地下水路が溢れないよう、各区の職人へ賃金を払って進める工事だった。セレスティアは一度、東区の石工が不足していると話していた。
自分は、次の舞踏の相手を考えながら頷いただけだ。
王子の署名は、仕事を終わらせるための飾りではない。誰に金を払い、誰の暮らしを後回しにするのかを決めるものだった。そんな当然のことを、手帳を突きつけられるまで知らなかった。
「四つ。同じく殿下名義の、南部飢饉に対する救援配分の意見書。あれもわたくしが書きました。殿下は中身をご覧になっていないはずですわ。だって、あの意見書には、殿下ご自身の狩猟場の予算を削る案が入っておりますもの」
その書面には、確かに印を押した。
中身を読んだ記憶はない。ミルフィとの約束があり、早く終わらせたかったのだ。
そんな昔のことを、いつまで。
そんな気持ちと共に拳を握りしめ、彼女をさらに睨みつける。
そうすると、セレスティアの指が一度だけ止まった。
けれど彼女は、次の頁を開いた。
「五つ。二年前の秋、わたくしがポワレ嬢を階段から突き落としたという噂について。噂が出た翌日、殿下は、事実の確認をなさらず、わたくしへ謝罪を命じられました」
ミルフィが足を挫いて泣いていた。
だから信じた。それだけのことだ。
だが、セレスティアが呼んだエレノアは、当日の生徒七人の証言と講義の記録を読み上げた。セレスティアは南棟にいて、ミルフィは自分で階段に座り込んだという。
さらに、その証言を自分の従者へ渡した二日後、暖炉で焼かれたと聞かされた。
「……知らん」
そう答えた声は、ひどく小さかった。
確かに私が命じた。
セレスティアと仲の良い令嬢が、私たちを貶めるために作った偽造書だと思い、処分を命じた。
中を確認することもせずに。
「六つ」
「昨年より、わたくしは殿下より、婚約者の証である王家の紋章を身につけることを禁じられました。
理由は『ミルフィが萎縮するから』。以来、わたくしは公の場で、身元を示すものを何ひとつ持たずに立っております」
セレスティアに愛想を尽かしていた私は、ミルフィと仲良くなっていき、彼女を妃にすると心に決めてからは紋章を取り上げていた。
また、セレスティアが何も付けていないことで笑い物になれば、という浅ましい思いも少しはあった。
「三月の建国祭。殿下は、わたくしを迎えの馬車から降ろさせ、代わりにポワレ嬢を乗せてお発ちになりました。わたくしは王宮の門前で、二時間、雨の中で立っておりました。誰も、迎えを寄越されなかった」
「あ、あれはぁ、ジーク様が『あの女は勝手に帰るだろう』って……」
「ミルフィ、黙れ」
「え? あ、ごめんなさぁい」
ついミルフィを叱りつけてしまった。
しゅんとしているミルフィを、普段であれば愛おしいと思うのだが、今はそんなこと全く思いもしない。
ただただ余計なことを言わないように叱るばかりだ。
「わたくしからも一つよろしいでしょうか」
ガルディア伯爵家のユリウスが声をあげ、その手の帳簿を開く。
咄嗟に否定の声をあげる。
貴様など呼んでいない。
こいつは金勘定にめざとい。
あのことをここでぶちまけられてはたまらん。
しかし、そんな私の声を無視し、彼は話し始める。
「学園には『王立奨学基金』がございます。名の通り、王家より下賜される金子で、平民出身および下級貴族の子弟の学費を賄うためのもの。原資は国庫、すなわち民の税でございます」
王立奨学基金は、平民や下級貴族の子どもが学園で学ぶための金だ。王家から下賜されるから、自分の裁量で多少動かしてもよいと、ジークヴァルトは思い込んでいた。
「昨年度、三千二百グルドが特別交際費として支出されています。宝飾店、仕立屋、そして北区の別邸の賃料でございます」
ミルフィが、何気なく言った。
「あのお家、ジーク様が二人の秘密の場所だよって」
広間から、音が消えた。
そして私を膝から崩れ落ちた。
終わった。
1番バレてはいけないことが、全員にバレてしまった。
三千二百グルドは、南部の村が一年を越す金だと、奨学金で通うトマが震える声で言った。去年の冬、救援が二月遅れ、母親を失ったことも。
ジークヴァルトは、初めて帳簿の数字ではなく、目の前の少年の顔を見た。
「知らないなら、返してください」
その言葉だけが、まっすぐ胸に刺さった。
王子なのだから、返すとは何を意味するのか分からなかった。金か、地位か、名誉か。どれも自分のものだと思っていたからだ。
更にかつての我が従者、レオンハルトが、かつて自分が命じた口止めのことを話し始めた。
そこでは己の過去の行い、そしてミルフィの過去の行いが語られた。
彼女の夜の抜け出しも、複数の令息との逢瀬も、すべて記録に残っていた。
ミルフィは、いつの間にか二歩離れていた。
「セレスティア。貴様は、いつからだ」
近衛が扉を開け、兄のアルベルトと宰相が入った。
もう言い逃れのためではなく、ただ知りたくて尋ねた。
「三年前でございます」
「なぜ、その場で言わなかった」
「言えば、殿下は握りつぶされたでしょう。ですから、握りつぶせない場所まで、待ちました」
そのとき初めて、ジークヴァルトは手帳の重さを知った。
セレスティアは何も感じない女ではなかった。言っても笑われるから、泣く代わりに書いていたのだ。
自分は十一年、隣にいた彼女を見ていなかった。
近衛に挟まれ、広間から連れ出される。
振り返った先で、セレスティアは手帳を胸に抱えていた。
謝る言葉は、とうに遅れていた。
弦楽の四重奏は、二度と再開されなかった。




