第1章 九割の陰惨と一割の異端 ~伽耶の記憶~
何者でも無い僕の作品を見つけてくださってありがとうございます。
若干の残酷描写がございますのでご注意くださいまし。
ー3001年ー 東京都 新宿区某所
私、斑鳩伽耶の世界はちっぽけだ。
朝起きてご飯を食べて、歯を磨く。
スカートを履いたり身支度をして、心の準備を三度したら無言で家を出る。
家での会話は「おはよう」や「ただいま」などの挨拶くらい。
他には家族と何もしゃべらない。
私もそれでいいし、家族もそれでいい。
それから中学校に向かい勉強に没頭し励み、美味しくない加工肉の給食を食べて、学校が終われば遊ばず部活もせず家に帰る。
友達がいないから帰宅する。
帰る途中、寄り道で森や野原を探検する。
ちょっとした冒険。
大自然を孤独に歩いていると森のざわめき、川のせせらぎを聞きながら良く思う事がある。
この自然の中にずっと紛れ込んでいると少し不安になるけどたまに人工物があると「昔、ここには誰かがいたんだ」って物思いにふけってしまうのだ。
その物思いにふけっている時間が存外好きだったりする。
そして今はちょうど夏まっさかりで、とても過ごしやすい気温だし私は夏が一番好きな季節だ。
でも夏って昔は凄い暑かったらしい。
今の時代、夏の平均気温は20度だけど昔は30度以上もあったんだって。
もしそんな気温で生活していたら、ずっと裸で氷をかじっていないと私は生活できないかもしれない。
寒い時は着込めば済むけど、暑い時はこれ以上脱ぎようがないから大変だよね。
そんな事を考えながら毎日学校の帰り道から少し外れた野原を探索している。
少し進んだところの道の奥にある古い石柱が見える野原で枝を拾う。
いつも拾った枝にはエダノカリバーと命名している。
エダノカリバーで草をバサバサとはたき歩いていると、草にオニヤンマがとまっていた。
トンボ自体最近は中々見かけないのに、オニヤンマがいるなんて私はラッキーだ。
昔、福島のいわき市にあるおばあちゃんちでなら見た事があるけど、新宿で見かけるとは思いもしなかった。
オニヤンマに向けて指をさし、ゆっくりゆっくりと近づく。
驚かせないように円を描くように指をまわしオニヤンマが私の指に夢中になる。
そこで私はいかづちの如き素早さでオニヤンマを手づかみする。
オニヤンマは呆気にとられる間も無く私に捕まってしまうのであった。
必死の形相で「離せ!離せ!」って言うの。
きも可愛いからこのまま持ち帰りたくなる。
でもそこはさすが私。
優しく触れて観察したらまた自然に還す。
オニヤンマに触れる時は、あの強靭で凶悪な口で噛まれる事があるから注意しないといけない。
そう、私みたいなオニヤンマの達人にはもう関係ない話だけどね。
なんてったって、もう5回以上噛まれてきたんだから、さすがに達人。
でもオニヤンマも昔は違う形だったらしい。
複眼っていう目を持っていたみたい。
おかしいよね。
今のオニヤンマは私そっくりの顔してる。
目も鼻も口も私と一緒。
私⋯⋯もしかしてオニヤンマなのかな?
◇◇◇
残念な事に、楽しい時間も終わってしまったから渋々家に帰ろう。
そうしよう。
家に帰るといつもの家族がいつものように家にいる。
お父さん、お母さん、お姉ちゃんに弟。
私は世間も家族も怖いから「ただいま」だけ言ってすぐ自分の部屋に閉じこもる。
わかってる、私が家族の前にいる時だけ家族はみんな無言になるんだ。
私にとって世界に色は無い。
孤独の色。
何もかもが怖い。
生まれた時から感じている感情。
恐怖では無いの。
そういう怖いでは無い。
不気味ーー
これが私の怖いという感情に一番当てはまっているのものだと思う。
だからこの不気味な世界で私は孤独だ。
孤独だから、不気味だから、いつも私の目に映る世界は温度が無い。
でも帰ってきて自分の部屋にいる時は違う。
この時だけは私の世界はカラフルだ。
不気味さや怖さが無い、私だけの安全な世界。
私の部屋はちっぽけだけど色鮮やかだ。
そんな自分の部屋にいて思う事がある。
子供の頃からおかしいと思っていた。
でも世間は私をおかしいと嘲笑う。
差別もされたし気持ち悪がられたし散々嫌がらせも受けた。
でも毎日家に帰ってくる度に自室の扉を少しだけ開けて恐る恐る居間の様子を伺う。
お父さんと弟は桶に入った水に笹船を浮かべて、超音波で波紋を作り押し合って勝負している。
お母さんは庭に咲いている綺麗な色の花を貪り食べている。
お姉ちゃんは口呵と呼ばれる「目の代わりに2つある発声器官」を丁寧にすすいでいる。
私は超音波なんて出せないし、あんな囁き声の聞こえる花は気持ち悪いから食べない。
興味本位であの花を食べた事はあるけどひどい味だった。
そもそも私には目の代わりに発声器官なんて付いていないし⋯⋯、それにみんな首の両脇から腕が生えている。
私だけが首から腕なんて生えていない。
毎日家族を観察しているけど違和感しかない。
私の容姿がおかしいとされ、私だけが異常であるかのように扱われてきた。
だからそうなんだと思い込んできた。
でも、本当におかしいのは私以外では無いのかとずっと胸の奥で問い続けている。
根拠は無いけどそう感じる。
それに時折家族の声が聞こえてくる。
「なんであんな子が生まれたのかしら」
「肌が柔らかすぎて潰れそうだし⋯⋯」
「目玉がある上に首には聴膜肢の無い
ソナリスのなり損ないだなんて⋯⋯
ご近所様になんて説明すれば⋯⋯」
「空の目玉様が気味悪いとか言ってたよ」
「花はまずいって吐き出すし、本当にうちの子かしら」
「あ、そういえばお母さん聞いて、
この間、隆くんに口呵の事褒められちゃった
綺麗な口呵してるね、って!」
「あんたは伽耶と違って本当に素敵ね!自慢の娘だわ!」
「んふふふー」
おそらく家族のこの声が普通で当たり前で世間の声なんだと思う。
子供ながらにそう感じた⋯⋯。
今更嫉妬も絶望もしない、孤独には慣れた。
だけれど私の違和感は募り、日々の不安は大きくなるばかりだった。
◇◇◇
それから数日後、いつも通り学校へ通う。
今日は終業式で明日から夏休みが始まる。
私にとって安息の1ヶ月の始まりだ。
世間にとって異端の私が奇異の視線から逃れられる平穏の大連休だ。
そんな待ち遠しかった日々を前にして担任の先生が連休前の注意事項を伝える。
「いつも言っているけどソナリスのみんなは連休中に口呵⋯⋯
発声器官を使いすぎないこと!
あと発声器官はデリケートです!
発声器官を使わない時は聴膜肢でしっかり覆って
保湿を心がけるようにしましょう
それでも乾燥に悩んでいる方は口呵用保湿クリームを塗りましょう」
「はーい」
「でも先生、口呵の無いソナリスのなり損ないがいるよ」
「代わりに退化した目があるよね」
「目があるとか古代人じゃん、ある意味すげー!」
「目玉のある顔ってぶさいく!きゃははは!」
「あとなんで聴膜肢持ってないんだ?」
「原始人だからじゃん?」
「あいつ⋯⋯花を食べられないらしいぜ」
「え!うそっ!やばぁ!人生損してるじゃん!」
次々と飛び交う私への心無い言葉。
群れが個へ攻撃をする事ほど愚かな事は無い、なんて幼稚な思考なのだろう。
私も十分子供だけど、こんな幼稚な戯言を放つ子供が同級生とは情けない限りだ。
それにこんな事、言われ慣れている。
何を言われても黙っているつもりだった。
だけど先生の言葉は⋯⋯大人に見下される事だけは我慢ならなかった。
「ほらほらほら、みんな伽耶ちゃんに冷たい事言わないの
伽耶ちゃんも一生懸命生きてるんだから⋯⋯
ねえ伽耶ちゃん、辛い事があったら一応先生を頼ってもいいのよ
だって今の伽耶ちゃんの姿は伽耶ちゃんが悪いんじゃないんだもの
ソナリスになれなかったのは運が無かったの
こんなに惨めな姿になっちゃって⋯⋯」
ニヤけ面で私の顔を撫でる。
憐れんでいるつもりか?
「皮膚はとても柔らかくてすぐに壊れちゃいそう⋯⋯
発声器官も聴膜肢も無いし生活しにくそうよね⋯⋯
ねえ、伽耶ちゃん⋯⋯学校暫く休んだら?
学校に来ないでも卒業できるように先生手伝っちゃうから!」
この女教師は苛立つ笑みを浮かべながら私に寄り添うような発言をしている。
似合わない真っ赤な口紅を強調しながらの発言は特に腹立たしい。
唇をとんがらせて話すな!
私は偽りの善意が心底嫌いだ。
だからこそムキになってしまった。
「う⋯さぃ⋯」
「え?伽耶ちゃん、なーに?」
「うるさい!
周りの景色を音でしか見れないあんたたちが私に絡むな!
空が暗い色と明るい色なのを知ってるの?
辺り一面に広がる花が綺麗な色をしているのは分かっているの?
あんたたちが音でしか周りを見れないから
あんたたちが作った物には全て色が無いのは分かっているの?
あんたたちのせいで景色に温度が無いの!
それに一生懸命生きてるってなんだよ!
景色もまともに見る事ができないあんたたちが
私の人生観を気安く語るな!」
そう、ソナリスは目が無いから色というものを知らない。
色が必要無いのだ。
だからソナリスが作った人工物だけ全て暖かみの無い色をしている。
この社会には色という常識が無いから、私も色の名前を知らない。
時折、木や花を見かけ綺麗な色をしていても
「これは何色って言うんだろう」といつも疑問に思っている。
知りたいのに知れない状況が無性に苛ついた。
私の怒号が教室に響き渡り極端な静寂に包まれる。
数秒間の静寂が何時間にも感じたが、
それを打ち破ったのは女教師だった。
「ち⋯⋯違うのよ、伽耶ちゃん
決して見下した訳では無くて
先生大変そうだなって思って⋯⋯つい⋯⋯」
私は先生の引きつった笑顔に向けて再度「うるさい!」と言い放ち、
勢いよくその場で立ちあがった。
立って何かしようと思ったわけでは無いけど立った。
そして私はふと呟いた。
「つい、ってなんだよ⋯⋯」
するとクラスのどこからか声が聞こえてくる。
「うるさいのはお前じゃね?」
この声の後、不穏な空気が教室全体に伝染していく。
「先生の好意をめちゃくちゃにしやがって⋯⋯」
「そもそもなんで目の付いた人間が偉そうに発言してるんだよ」
「あいつの親、親睦会で居心地悪そうにしてたらしいけど、そりゃそうだわな」
「あたしだったら無理、まじ死ねる」
クラスの生徒たちから容赦の無い言葉が放たれるも、一時の沈黙が訪れる。
そして、ゆっくりと気持ちの悪い言葉が投げかけられる。
「あいつの目玉、無くなったらうちらの仲間入りじゃね?」
教室が狂喜の声で包まれる。
「きたーーーー!それだ!」
「そうだよ!ぶさいくちゃん!目ん玉無くしちゃいなよ!」
「いいぞ!初めて目玉を無くしましたシリーズ!これは流行る!」
「目玉無くなっても超音波使えないんだからかわいそうだろ!
ぎゃはははは!」
「おーい!誰か腕2本持ってこいよ!首の横につけてやろうぜ!」
私は突然、腹の底から笑いがこみ上げてきて笑わずにはいられなかった。
「ははは⋯⋯はははは⋯⋯あーっはははははははは!」
「うぉ、なんだこいつ」
「急に笑い始めたし」
「こっわ」
私はこの異常な空間に耐えられなかった。
いや、もう既に生まれた時からこの世界に耐えられていなかった。
その耐えられなかった気持ちが最悪な嫌悪感となって顔と声に出てしまった。
「あのさぁ⋯⋯美男美女揃いだと顔も心も綺麗なんですね
毎日鏡を見て自分達がどれだけ美しい姿と心なのか
チェックしてから登校するんでしょ?
あ、これ皮肉ね?皮肉、分かる?
そうか!
自分の姿を確認する手段が無いから
外見も内面も醜い事に気付けないのか!
目が無いんだもん、自分の顔も!心も!
どれだけ醜いか!確認なんて!できないか!
心の醜さは顔に出る!
それに気付けないなんて!滑稽だよね!
厚顔無恥で夜郎自大な馬鹿者もここまでくれば逆に立派だよ!
少しは心の醜さに気づけよ!恥さらし共!」
⋯⋯やってしまった!
馬鹿者はどっちだ!
どんな事も我慢して耐え忍んできたのに中学最後の夏休みを前にして迂闊!
クラスの生徒達は私の事を元々良く思っていない。
存在を認めていないのだ。
そんな無価値な私から挑発されれば、どうなるか予想できたはずだ。
私のバカ。
「ふざけんなてめぇ!」
「こいつ何言ってるか分からないけどなんかムカつく!」
「もういいよ!こいつやっちゃおうよ!」
「くるか!くるぞ!初めて目玉無くしたシリーズ!」
「みんな!こいつを囲んで放つぞ!」
目が存在しないソナリスは強力な超音波を放つ事ができる。
その超音波の反射で視覚の代わりに周囲を知覚している。
この放たれる超音波は非常に強力で、理論上は私のような柔らかい人体を破壊することも可能だ。
音響学の授業で音波の危険性や理論の説明を聞いている時に習った。
私自身がその超音波の脅威に晒される時が来るとは思いもしなかったけど⋯⋯
もしもソナリスの放つ超音波を受けてしまったらどうなるのか?と考えた事はある。
でもまさか本当に自分に向けられるなんて⋯⋯
「こいつの目玉を潰すぞぉぉおお!」
「楽しそうだから先生も放っちゃおっ!」
「いぇぇぇええい!先生やるぅぅう!」
「いくぞぉぉおおお!みんな構えろー!」
「人間を使った実験きたーーーーー!」
先生と生徒達は、聴膜肢で覆っていた口呵を一斉に露わにした。
そして私めがけて目に見えない攻撃の波を放つ。
キィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイ!!!
「ああああぁあああぁあああああ!」
私を包み込むように四方八方から激しい音波を感じる。
体中の細胞が波打つような感覚と共に、
最初に訪れたのは耳鳴りとめまいだった。
人体への悪影響は瞬く間に表れた。
まず聴覚が水中にいるかのように籠った。
徐々に頭痛が激しくなり吐き気のあと視界が曇って見えづらくなった。
目を何度こすっても視界が晴れない。
それもそのはずだ。
私の穴という穴から血が溢れ出していたのだ。
「すげー!めっちゃ血が溢れてんじゃん!」
「おいぶさいく!目玉潰れた?どうどう!?」
「あの顔!やべー!生きてるのか!?」
「ねぇ、あの子の血、すっごい良い香りしない?」
「なんだ、なんだこの匂い、たまんねー⋯⋯」
「お⋯⋯おいしそう⋯⋯」
「ちょっと!やばいって!なにこの香り!」
クラスの生徒達が何か言っている⋯⋯。
でも何を言っているのか全然聞こえない⋯⋯。
まずい、この状況はまずい、私、今、まともに考える事も難しい状態だ⋯⋯。
それに私、ずっと血が溢れてる、止まらない。
肉も骨も脳も血も魂ですら振動に支配されて何もできないし動けない⋯⋯。
このままでは、私の血肉も骨も区別なく掻き混ぜられて、一つの肉塊へと成り果ててしまう⋯⋯。
そんな感覚すらあった。
地べたに這いずるような体勢で蠢いていた私には絶望的な未来しか想像できなかった。
――このままでは本当に死んでしまう。
でも、こんな危機的状況で――いや、危機的状況だからこそ、
私の体は一度だけチャンスをくれた。
バン!!!! ガシャァン!!
私の体は大きく跳ね上がり、教室の扉を突き破って廊下へと吹き飛んだ。
それは私の体が限界で見せた奇跡だった。
死を前にして極限まで研ぎ澄まされた反射。
足の筋肉が限界を超えて力を解き放ち、
私はバッタのような跳躍で教室の外へ弾き飛ばされたのだ。
「あいつ!この状況でも逃げるのかよ!すげー根性じゃん!」
「やべーーー!楽しいー!」
「みんな!追え追え!」
「捕まえろ!絶対逃がすな!」
「やばいー!いい香りすぎぃ!」
「よだれが止まらねー!」
意識が途切れそうになるのを必死に耐えながら這いずり、私は廊下の窓へ手を伸ばした。
「あ!伽耶ちゃん!ここは3階よ!窓から離れて!危ないわ!
先生、すぐそっち行くから、ね!」
この状況で私を心配するフリ?
「はっ、今更心配しているつもり?
あんただって私を殺そうとしてたじゃん」
「違うのよぉ!伽耶ちゃん!
好きな子には意地悪しちゃうじゃない!」
「その理屈!全っ然!分からないから!
好きな子には優しくしろよ!」
先生が摺り足で近づいてきている事に気づいた私は迷いなく廊下の窓から飛び降りた。
窓から落ち行く中、3階の窓からは私を逃がすまいと
生徒たちの手が何十本も飛び出してきた。
「伽耶ぢゃぁぁああああん!
ぢょっどまっでぇぇえ!味見ざぜでぇぇええ!」
でももう遅い。
私は宙空を落ちている。
そして地面は予想よりも数倍早い速度で私に突撃してきた。
でも植え込みがあったおかげで致命的な衝撃は避けられたけど、枝が腕に刺さったり植え込み横にあった石に足があたったり、体中が痛いけどまだ生きている。
こういう事があると面倒だから、今までソナリスとの関わりはなるべく避けてきたのに大失敗だ。
「伽耶ぢゃん!伽耶ぢゃん!ふっ!ふっ!ふっ!ふっ!」
「あいつ!どこ行った!」
「みんな!見つけたら独り占めするなよ!」
「伽耶ぢゃぁぁぁああああん!」
何度か私を呼ぶ激しい声が木霊したけど、建物の隙間や森の中を身を潜めながら移動した。
足を引きずりながら逃げるように学校を後にしたのだった。
私はいつも1人だったから交流の無い私の帰り道を誰も知らない。
それが幸いし、誰も追ってこなかった。
◇◇◇
帰り道、頭の中は怒りと緊張でいっぱいだった。
激しい鼓動音が頭に響いて騒がしい。
体は案外ボロボロだけど痛みはそこまで無い。
おそらく脳内麻薬⋯⋯なんだっけ?イルカみたいな名前だったよね。
ドルフィン⋯⋯ドルフィン⋯⋯そうそう、エンドルフィン!
エンドルフィンが大量に分泌されているのだろう。
今は痛みを感じない。
だけど、この興奮が冷めればきっと地獄が待っている。
転んだ時とかその場は大丈夫だけど、次の日に関節が痛かったりするし、きっと明日になったら体中痛いんだろうな。
でも今は傷も痛みの事もどうでもいい。
少しずつ冷静になってくると見えてくるものがある。
先生から家に連絡があったらどうしよう。
私には使えないけど、ナシアネット⋯⋯あの音波の通信網で私の家族には既に連絡があるかもしれない。
それに夏休みが終わったら登校すべきなのか。
周りからの嫌がらせが激しくなったらどうしよう⋯⋯
そもそも嫌がらせで終わるのか。
いやいやいや、もう登校なんて無理でしょ、何考えてるんだ私。
そんな心配事が増えてしまった。
だから、帰り道の小さな冒険で現実逃避とストレス発散をするのだ。
私の人生、ポジティブで無いとやっていけない!
頑張れ私!
私はいつもの帰り道でいつものように伝説の武器エダノカリバーで野原の草をバサバサはたき歩いていた。
体を動かす度に骨に少し痛み?違和感が走る。
でも今は心を落ち着かせる事が最優先だ。
少しくらいの体の不調はどうにでもなる。
傷がなんだ、出血がなんだ、これ位耐えて見せる。
でも厄介なのは心の不調だ。
こんな感情で家に帰りたくない。
私は殺されかけたんだ。
心の整理をしてから自分の聖域である自室に戻りたい。
だから体がボロボロでも小さな冒険をするのだ。
この辺りには私以外に余り人がいない。
だから血だらけだとしても気にしなくていい。
「げほっげほっ」
私は何度か吐血しながらいつもの探検ルートのひとつ、石柱の野原に辿り着く。
この野原の奥には謎の石柱が建っている。
しかし、目の前の草木が生い茂りとても辿り着けるものでは無かった。
でも今日の私は一味違う。
そう、どうにでもなれ精神が爆上がり中だ!
特に今日のエダノカリバーは頑丈そうで「今日こそあの石柱の謎を解くのだ」と、私の魂に語りかけてくる⋯⋯ような気がする。
この武器と今のヤケクソ精神状態ならいける気がする⋯⋯と思い、私は大波のような草木をかき分け奥へ奥へと進んで行く。
伝説の武器エダノカリバーが草木を薙ぎ倒す。
凄いぞ!エダノカリバー!
属性は火、水、風、土、雷、光、闇の7属性を宿した最強の剣だ!
まあ、私の妄想では最強なんだけど草1つとして切れないのが現実。
嗚呼、悲しきかな。
◇◇◇
不思議なもので野原の手前から石柱を見た時は、大体20メートルほどの距離で大した距離には見えなかった。
ところがいざ目指してみると、とても遠く感じる。
草木が頑丈で重みがあり勇み足も鈍くなる。
前進しながらも何度か吐血や咳を繰り返して、少しずつひどくなっていった。
足元には見たことの無い生物が影だけを残して素早く横切り、ネバネバした謎の糸のようなものが草に張り巡らされている事もあった。
足元はぬかるみ、歩みは重く鈍り、私の探求を拒んでいるかのようだった。
それでも諦めず時間をかけて少しずつ歩を進め、日が落ち始めた頃、草の海をやっと抜けた。
そして目の前には念願の石柱がある。私はついに辿り着いたのだ。
例え石柱に何も無かったとしてもこの石柱に辿り着いたという結果が
明日の私を強くする、そう思って来たけど結果は予想もしないものだった。
石柱に何か掘られているが古いものなのか文字が薄れて見える。
ツタも密集していたので、文字を読む為に軽く掃除を始めた。
暫くすると、石柱に書かれた文字が少しずつ見えてきた。
目がかすむ、私は何度か目をこすって目を細めて石柱を凝視した。
「AGARTHA」と書かれている。
「ア⋯⋯アガーサ⋯⋯?」
読み方もままならぬその英語を眺めていると、誰かに呼ばれた気がした。
目を凝らして見ると石柱のすぐ奥に開き戸のついた屋敷が佇んでいる。
こんな目の前に屋敷があったのに今まで気付かなかった事に驚く。
「うわっ!何、この屋敷!え?あったっけ?
いやいや!石柱の後ろって崖だったよね!?あれ!?」
困惑しながらも屋敷の観察を始めた。
開き戸は固く閉ざされ断固として開く様子が無いので
建物に入れる場所が無いか暫く周辺を探索した。
⋯⋯20分くらい経っただろうか、屋根の上にダクトのような穴を見つけた。
あの穴から中に入れないか考える。
近くに雨どいと思われるものがあったので雨どいを何度かひっぱり、強度に問題なさそうな事を確認したらゆるりゆるりと登り、屋根の穴に辿り着いた。
穴の目の前でふと気づいたけど、さっきまでボロボロだった体は不思議と癒え、体中に付着していた血もいつのまにか消えていた。
心なしか元気になったので探検を続けるも、穴の前で少し躊躇した。
穴の入口は奥がとても暗くなっていて風の流れるヒョーヒョーとした音と共に、子供のような声が聞こえてくる気がする。
素直に怖い。
でもこういう怖さも冒険の醍醐味だと割り切って恐る恐る穴に入っていく。
静寂の中、私の呼吸と足音、そしてダクトのベコンと凹む音が響き渡る。
明かりになるものが無いから前が全く見えないので手探りで進む。
暫くすると二手に分かれていると思われる場所に出た。
どちらに行くべきか迷っていると左手から子供のような声が一瞬聞こえた。
少し考えて、子供の声が聞こえた方向に向かう。
ゆっくりと四つん這いで前進していると途端に私の両手は宙を掴んだ。
「あっ⋯⋯⋯⋯」
ダクトに穴が空いていたようで真っ逆さまに落ちる私。
永遠かと思うほどの高さから落下する。
バサン!
広い空間に落下音がこだまする。
「いたたたた」
尻もちをついたが、あの高さから落ちてどうやら助かったらしい。
大体20~30メートルはある高さだ。
山積みにされた本の上に落ちたようで実質的な高さはそこまで無かったのかも。
だけど、ついに建物内部に潜入できた。
この偉業を誰かに伝えたい!
けれどそんな人はいないと思うと、とても残念で悲しい気持ちになった。
それにしても凄い本の数だ。
山積みの本や本棚に収納された本など数え切れない。
1万⋯⋯いや1億冊はあってもおかしくない。
この時代の本というものは本来限定的にしか見れない珍しい品だ。
本を自由に読む事ができる時代ってあったのかな⋯⋯。
とにかく、政府が管理している本しか読む事ができないのがこの世界の決まりだ。
また、本の読み方だって私とソナリスでは少し異なる。
私は目があるのでそのまま文字が見える。
でもソナリスは目が無いので超音波で見るしかない。
ソナリス用の特殊なインクで書かれた文字は、書いた線をなぞるように盛り上がるので、超音波で見ると盛り上がった部分が文字として判別できるようだ。
でもこの屋敷に置いてある本は全て文字が盛り上がっていない。
つまり目が見えている人が書いた本という事になる。
だからここの本は私以外の ”目が見える人” が確実に存在した証になる。
この世界で孤独だった私はこの本のおかげで孤独を紛らわせることができた。
湧き上がる喜びと安堵にもたれかかり、涙が枯れるまでわんわん泣いた。
◇◇◇
目が見えているのは私だけじゃなかった。
この現実は私にとって大きな大きな朗報だ。
この本を書いていたであろう人はこの世にもういないかもしれない。
でもこの本は私が私である事を肯定してくれたような大事な存在であり貴重な証拠の数々だ。
だからこそこの屋敷やここの本を大切に守ろう、子供ながらに心に誓った。
沸き立つ感情を抑えつつ、大量の本を整理しようと思い、少しずつ準備に入る。
まずはどのような本があるのかを把握した。
本棚に置いてある本は後回しにするとしてこの山積みにされた本から先に片付けよう。
その日から私は家にもほとんど帰らず本の整理をする日々が始まった。
本の整理とは言ったが整理三割、読書七割のペースで進めた。
食事は鞄に入れていた保存食で済ませた。
不思議とそこまでお腹が減らなかったのだ。
きっと本に夢中になっていたからだろう。
それにしても本を見て驚いた。
私の知らない事ばかりが書かれていて一時も目が離せなかった。
・神冥色典~1677万色の世界~
初めて色の名前を知った!赤!青!黃!
色が載ってる!
緑!茶!橙!桃!紫!灰!白!黒!
色の名前を知らなかった私は色を覚える事にのめり込んだ。
でも色ってこんなに種類あるんだね。
基本的なのだけでも覚えておこう。
・善悪の相貌
「人は己の正義を善と呼ぶが、
それは他者の目には悪として結実することもある。
その違いは、ただ立っている場所が異なるだけに過ぎない。
善悪の境界など、視点ひとつでいかようにも歪む。
故に善は悪であり、悪は善である。
白と黒が混ざり合い灰となるように、
万物は決して一色では語れない。
世界は無数の色で織られ、
そのどれもが誰かにとっての正しさであり、
誰かにとっての過ちなのだ。」
そうだよね。
善悪の基準って人それぞれにあったりするもんね、多分。
私にはまだ難しいや。
・植物極致真書
植物及び菌類を網羅した本みたい。
マンドラゴラって何?
ゴルゴン草?
見た事の無い植物がたくさん載ってる。
え、収穫する時に声を聞いたら死ぬ?
目を開けていたら死ぬ?
なにそれ、こわっ。
・万象料理大全
ネギ、じゃがいも、トマト、たまねぎ、人参⋯⋯、
ソーマ、セーフリームニル、アウズンブラの乳、イズンのりんご、
アンブロシア、モーリュ、世界樹の実⋯⋯
知っている食材も多く載っているけど、私の知らない食材が目立つ。
確かに私が食べた事の無い食べ物なんてたくさんあるだろう。
知らない食材だってきっと山程ある。
でも、この料理本は異質だ。
一体この本はなんなのだろう。
何もかもが分からない。
何、この調理法⋯⋯肉を三時間、華します?
華すって何?
こんな調理法、聞いた事が無い⋯⋯
でも知っている食材を使った料理はとても参考になるな。
知っているだけで食べた事が無い物が多いけどね。
・45×✕2✕✕✕31✕6✕7
何この本⋯⋯表紙は赤茶色?の数字⋯⋯
書き殴った雑な数字が書かれている。
中身は全ページ白紙。
何これ?
・神葩と異葩と禍津花
禍津花は万能薬だが、✕✕⋯⋯
ほとんどのページが破かれていて読めない。
でもこの写真、いつもソナリスが食べてる花だ。
あの極彩色の花って、万能薬なの?
あんなひどい味⋯⋯無理だよ。
◇◇◇
以降も大量にある本を読みふけりながら山積みになった本を掘り進め整理していくと、中の方から一風変わった装丁の本を何冊か掘り当てた。
黒ベースに金色や紅色の装飾がある本だ。
・根源書 ~オリジン・コーデックス~
・真理の書 ~リベル・ヴェリターティス~
・禁断真理書 ~フォービドゥン・ロゴス~
・虚無記 ~クロニクル オブ アビス~
・黙示録写本 ~アポクリフォン オブ レベレーション~
良く分からないけど凄そうな本ばかりだ。
その中でも特に目の離せない本があった。
・全能の書 ~オムニポテント・トーム~
この本が語りかけてくる気がする。
分かってる、私はさっきから瞬きもせず、この本を見つめている。
駄目、目が離せない。
目が飛び出しそうだ。
私の心が、体が、魂が、この本に吸い寄せられ渇望している。
読みたい!
その時、頭上で激しい爆発音が鳴り響き、衝撃で私の体全体にビリビリと衝撃が走った。
「きゃぁぁぁあああ!」
鼓膜を破るかのような唐突な爆音をかき消すかのように私は叫んだ。
音が鳴り止み、部屋は突然静けさに包まれる。
部屋のいたるところから破片やガラス片がパラパラと落ちる音が聞こえてくる。
爆音の鳴ったであろう位置を見つめたが特に何も無く、私の目の前には焦げ付いた本が1冊落ちている。
何故か⋯⋯この本から目が離せない。
・全知の書 ~オムニシエント・トーム~
この本が語りかけてくる気がする。
分かってる、私はさっきから瞬きもせず、この本を見つめている。
駄目、目が離せない。
目が飛び出しそうだ。
私の脳が、細胞が、血液が、この本に吸い寄せられ渇求している。
読みたい!!!
まるで1ヶ月断食をした後に食べるおかゆのように芳醇な香りさえする。
もう、我慢できない。
この本、この本だけは今すぐに読まないと。
この本だけは⋯⋯
本に触れた瞬間、指先から火花が散り、瞬間的に手が氷漬けになった気がした。
体中の冷や汗が止まらない。
スリルでは無いけど開けてはいけない扉を開けようとしている感覚が
指を通してヒシヒシと感じる。
でも脳はすぐにでも読めと急かしてくる。
私は勢いにまかせて本を開いた。
その刹那、脳が溶け視界が真っ白になる。
耳に響く高音がうるさい。
体が痺れる。
涙や汗、唾液、小便など、様々な液体が体中から噴き出す。
私は意識が薄れゆく中で、女性が語りかけてきたのをかすかに覚えている。
《伽耶、この力はあなたのものだ
アーカーシャ・ヴィジョン
役立ててちょうだい》
◇◇◇
体が臭い。
気を失っていたのか⋯⋯、目覚めるまでにどれほど時間が経ったのだろうか。
起きると私は飢餓感を感じ、喉はカラカラだった。
力が入らず起き上がるのも一苦労。
私は地面を這って壁を擦り歩き何か食べ物が無いか探し彷徨う。
バカな話だ、こんないつの時代の建物かも分からない場所で食べ物を探すなんて。
外から見た時に開かなかった開き戸があったけど、あの扉はこの屋敷の正面玄関だった。
その開き戸近くの本棚横に、地下室への階段と地下室から外への抜け道を見つけた。
地下室は暗かったけど私が足を踏み入れるとほんのりとした明かりが自動で付いた。
この優しく蒼白い光が心地良い。
地下室をくまなく探しているといくつか部屋があり、
それぞれの部屋には缶詰や乾物、蜂蜜などの日持ちする食べ物が保管されていた。
諦めずに探してみるものだ。
特に一番奥右手の部屋は、より気温の低い部屋で大量のパンや肉、野菜が保管されている。
しかもこの肉⋯⋯本物だ。
代替肉じゃない。
本物の肉なんて初めてみた。
動物の肉の事を詳しく知ったのはこの屋敷に所蔵されている本だ。
食材に特化した本で動物の肉の事を知った。
この世界に本は余り残っていない。
だけど、この屋敷にはたくさんの本がある。
食材や歴史の本にはこのような記述がある。
昔は動物という存在がいてその動物を育てて食料にしていた事。
宗教上の都合や場所によっては食べてはいけない動物もいたらしいけど
一般的には牛、豚、鳥、魚といった動物を「肉」として食していたらしい。
でも私の知るこの時代には動物らしい動物がいない。
いるのは私と同じような顔をした人間顔の動物もどきばかり。
どこかのバカな人たちが動物や昆虫を絶滅させたって聞いた事がある。
海にも昔は魚という動物が泳いでいたらしい。
でも、魚なんて動物は今は見かけない。
海に潜んでいるのはでかくて気持ち悪いなにかだ。
海面下で口を開けて目を見開いている巨大な顔がうっすらと見える。
見ているだけで怖くなる。
だから私たちが普段食べているのは肉もどきで実際は豆や「何か」を加工したものだ。
「何か」というのはおそらく豆以外の物が入っているからだ。
代替肉には稀に小さな骨のような物が入っている、あれは豆じゃない。
だから「何か」だ。
生きるために食べるしかない。
まともな食べ物が無いから政府の用意した食事に縋るしかないのだ。
それにしても凄い⋯⋯本物の肉というのは私が知っている代替肉とは雲泥の差だ。
香りがまず違う。
なんてジューシーなんだろう。
それに触れた時の質感も⋯⋯質感は思ったよりは似てるかも。
今度この美味しそうな肉を食べてみよう。
食べる時がとても楽しみだ。
本当は今すぐにでも肉は食べてみたいけど、今は胃に優しい食べ物がいいと思った。
でも、これだけ食材が置いてあるけどそもそも勝手に食べていいものなの?
この場所には誰かが住んでいる気配もある。
その人が集めてきた食材だろうし⋯⋯でも今はすぐにでも栄養を摂取したい。
あとでちゃんと謝らないと。
私は申し訳無い気持ちで目の前のパンを少し味見してみたが、
カビ臭さは無く、むしろ新鮮さまで感じた。
地下室中央奥には調理台があり蛇口まで付いていて、水は出るしコンロも火がつく、ここの施設は一体⋯⋯。
体が栄養を欲している為、お湯を沸かし、棚にあった粉末調味料と玉ねぎを入れてちょっとしたスープを作る。
この前読んだ料理本のおかげでなんとなく食材の扱い方も分かった。
オーブンでカリカリにしたパンをスープに浸して食べる。
暫く食事を入れていなかった胃にも優しく体もホカホカになって満足のいく食事だ。
もう少し食べたい衝動を抑えてムグッと口を閉じて我慢した。
大量の本や地下室の食料庫など不思議な建物だけど
まずはここの住人の方に感謝と謝罪の言葉を伝えないと。
それと今は自分の衰えた体を元に戻す為に適度な運動と、食事に水分補給を心がけないと⋯⋯。
図々しいけど、住人さんごめんなさい。
◇◇◇
それから数日が経ち、体力が戻り始めた頃たまに自宅へ様子を見にいった。
でも屋敷から出る時は何故かいつも夕方だった。
珍しい事もあるものだ。
都合が良いと言うべきか、悲しいと言うべきか悩ましいところだけど私が数十日いなくなっても私の家族はいつも通りで変わった様子は何も見られなかった。
それに私が何度出入りをしても私に気づく事は無かった。
特に静かに行動したわけでも無い。
たまには話しかけてみた。
それでも気付かれなかった。
おそらく先生から連絡が入って、学校での出来事を聞いたのかもしれない。
家族から無視されているという事は勘当されたという事なのだろう。
結局のところ、あの家に私の居場所は無い。
昔からそうだ。
その扱いが分かり、ある意味吹っ切れた。
あの家族の元へ戻らない覚悟やもう学校へは登校しない決意がより一層強まった。
今まで気を使い、謙虚にしていたけれどもうおしまいだ。
私は私の人生を生きよう。
異形の者たちの社会には絶対に染まらない。
さて、この間気絶をした時、自身に起こった事を整理しようと思う。
記憶を辿ると、私は最後に「全知の書」という本を読んで気絶した。
ある日、自宅に様子を見に行った時の事、
日付の確認をして少しも日数が経過していない事が分かった。
暫く気絶していたのに時間が進んでいない。
この屋敷の中は時間が動いていない?
そして、気絶する直前、かすかに聞こえた女性の声。
あれは⋯⋯良く思い出せない。
でもあの本を読んで私に何かがあった。
それは確かだ。
試しにもう一度読んでみるか⋯⋯、いや、餓死しかけていたのに無謀かな。
まだ心の準備ができていないからもう一度読むには一定の期間を置きたい。
長期間気絶する可能性があるなら慎重に行動しないと。
私は気絶する可能性のある「変わった装丁の本」は避けて普通っぽそうな装丁の本を読む事にした。
その普通っぽそうな本の中に私が知りたかった過去を記した歴史書を見つけた。
歴史書の最初のページにはこのように記されていた。
・西暦2003年
一人の少女が天啓を受ける
今は3001年、なので約千年前の話だ。
この2003年を起点に次々と事件が起き今の世界が作り上げられていったようだ。
何しろ、この歴史書には私にとってとても大事な一文が記述されていた。
“人間という存在は元々目があり腕は2本であるのが当たり前だった”
私という存在が普通で一般的である事を証明してくれた一文だ。
私は唇を噛み締め泣くのを堪え読み進める。
・西暦2730年
神の顕現によって世界は変貌。
世界中に瞠目すべき極彩の花が狂い咲き、人間は異形化し、死体は突如消失、空は黒と橙色に染まり、神の監視下となる。
これらは本来、世界には無き異物であり世界はこの日を境に一変した。
このように歴史書は語っている。
そして何より歴史書の最後には次のように綴られていた。
”この歴史書に記された出来事は、未だ完結に至らぬ世界の記録である。
3003年、神の黄昏が沈み堕ち誠の慈愛が成就するとき、世界は初めて真の完成を迎える。”
そう、今のこの陰湿な世界でさえ発展途上だと言うのだ。
それに神の黄昏⋯⋯慈愛⋯⋯書かれている事に理解が追いつかない。
でもこれだけは確かだ。
今から2年後の3003年に世界が完成するとの記述がある。
発展途上の現段階でさえ滅茶苦茶な世界なのに完成なんてされたらこの世はどうなってしまうのか⋯⋯想像に耐え難い。
私はどうするべきだろう。
ただでさえ話が荒唐無稽で混乱しているのに、これ以上世界が変わるなんて話になるのならそれは阻止するべきでは⋯⋯。
阻止?私が?何を?どうやって?
世界の完成まで残り2年⋯⋯。
2年で何ができるの?
考えろ⋯⋯考えろ考えろ考えろ!
世間が怖くて今まで引きこもってきたけどこういう時に動けないでどうする私!
自分の住む世界だろ!
《アーカーシャ・ヴィジョンを使いなさい》
聞き覚えのある声が脳内を駆け巡る。
突然の事で驚いたが続く言葉をしっかり脳裏に刻みつける。
《あなたは特別な力を得ました
アーカーシャ・ヴィジョン
それは次元の目
一度見たものを忘れる事は無く、
見たものの弱点や有用性を見出し
使い方によっては物事の過去や未来でさえ見届ける事ができる
あなたは本に選ばれた
改めて歴史書を見続ける事を推奨する
我が失敗してしまったばかりに
あなたに託した事、許してほしい》
ここで女性の言葉が途切れた。
その後、何度話しかけても私の問いに応える事はなく
私の声だけが辺りに響き渡っていた。
「アーカーシャ・ヴィジョン⋯⋯なにそれ⋯⋯
そもそも、そんな力があるんだったら
どうやって使うのかとか教えてよ⋯⋯」
ダダをこねても始まらない。
でも実感している事がある。
確かに気絶して目覚めてからの記憶が妙にスッキリしていて今まで見聞きした記憶を瞬時に思い出せるようになっている。
言われなければ気づかなかったけどこれはかなり便利かもしれない。
自分が生まれた時の事さえ思い出せるようになったのは少々戸惑いを隠せないでいる。
でもそれ以外の能力?については私自身が良く分かっていないし、便利な力があったとしても使えなければ宝の持ち腐れ。
いいえ、持ち腐れどころか猫に小判⋯⋯豚に真珠だ。
さっきの女性の言葉を信じるのであれば私にも何かできるかもしれない。
⋯⋯はっきりとしない決意が体を駆け巡る。
私は助言通り、歴史書を見直す事にした。
歴史書を隅々まで読み漁れば3003年に起きる世界の完成を阻止できるかもしれない。
そもそも世界の完成というものが人にとって良いものなのかどうか、実際に起きるまで分からない事ではある。
でも歴史書の内容を見れば、ろくでもない事が起きるのは目に見えて分かる。
私は歴史書の冒頭を熟読する。
・西暦2003年
一人の女性が天啓を受ける
「天啓って⋯⋯神様からのお告げみたいなものだよね
2003年の出来事、情報なさすぎだよ」
そう思い2003年の文字を見つめていると眼球が異様な熱さに包まれた。
「いたっ!目が痛い痛い!熱い!なにこれ!」
目が燃えるように熱いが、閉じる事ができず涙で視界がぼやける。
視線は歴史書の2003年の文字から逸らす事ができずに凝視し続ける。
「ああぁ!ああぁぁあぁあぁあああぁぁ!」
次の瞬間、目から赤い光が溢れ出し頭が小刻みに揺れ動き
激しく破壊的な光線が歴史書目掛けて撃ち放たれる。
衝撃で私の首は千切れ飛び、頭だけが宙を舞う。
血飛沫の輪舞曲が辺りの本を圧倒する。
あれ⋯⋯わたし⋯⋯どうなって⋯⋯
私の頭は勢いよく宙で回転し、地面に転げ落ちて暫く弾んだ後、壁にあたって静止。
千切れた頭は地面に伏したまま、痙攣した瞼は瞬きを数回繰り返す。
少しずつ意識が薄れていき、私の魂は約千年前の2003年に降り立つ。
読んで頂きありがとうございました。
全21話で下書きは終わっています。
ブラッシュアップが終わり次第、7月19日までには全話投稿致します。
※一旦11話まで投稿いたします。




