第十一話【影】
実習から三日が過ぎた。
学院は表向き、何事もなかったように日常を取り戻していた。
朝の鐘。講義。中庭の、絶えないざわめき。
だが、リオンの胸の奥には、あの森で交わした灰色の視線が、まだ棘のように刺さっていた。
(あれは、終わっていない)
確信にも似た予感だけが、静かに澱んでいた。
その夜は、月が厚い雲に隠れていた。
夕食を終えたB組の数人が、女子寮の前で別れの挨拶を交わしていた。
リオン、リズ、カイト、そしてソフィア。
「じゃあ、また明日ね」
リズが、手を振った――その時。
寮の奥から、悲鳴が上がった。
リオンの足が、考えるより先に動いていた。
「……今のは」
ソフィアの顔がさっと強張る。
「リーナ……!」
ソフィアが、誰よりも早く駆け出していた。
廊下の突き当たりに、小柄な少女が倒れていた。
栗色の髪、あどけない顔立ち。
ソフィアの従妹で、一年下のリーナ・シルビットだった。
「リーナ! しっかりして、リーナ!」
ソフィアがその身体を抱き起こす。
少女の唇は、紙のように白い。
肌は氷のごとく冷たく、胸はかすかにしか上下していなかった。
それだけではない。
頬は、ひと晩で歳を取ったように、こけて見えた。
艶やかだったはずの髪が、毛先から白く、色を失っている。
そして――その身体から、黒い靄が、細い糸となって立ちのぼっていた。
リオンは傍らに膝をついた。
《観察眼》を開く。
少女の中を巡るはずの魔力が、根こそぎ奪われている。
いや、魔力だけではない。
命そのものが、わずかずつ、糸を伝って吸い出されていた。
「……喰われている」
リオンの声は、低かった。
「魔力も、命も」
「そ、そんな……!」
ソフィアの声が、震えた。
「カイト。エミルを呼んでください。急いで」
「お、おう……!」
カイトが、弾かれたように走り出す。
リオンは、家門の剣を半ばまで抜いた。
刃に、金色の魔力を、薄く纏わせる。
「《武具強化》」
そして、少女にまとわりつく黒い糸を刃の腹で断った。
ぶつりと、手応えが消える。
立ちのぼっていた靄が霧散し、少女の呼吸がほんの少しだけ深くなった。
だが、リオンは笑わなかった。
払った刃に、まだ、邪悪な感触がこびりついている。
触れただけで、腕の芯から力が抜けていくような――そんな、悪寒。
(これは、ただの闇属性魔法じゃない)
剣を握る手にわずかに力がこもった。
ほどなく、エミルが息を切らせて駆けつけた。
アンナ先生とガロウィン師も続く。
エミルがリーナの手を取り、治癒の光を流し込んでいく。
「魔力が、ほとんど空です……でも」
額に汗を浮かべ、必死に光を送りながら、
「命の灯は、まだ消えていない。つなぎ止めます……!」
「よくやった」
ガロウィン師が、低く唸る。
その視線は、もう廊下の暗がりへと注がれていた。
最後に現れたのは、リューゲン師だった。
老教師は、床に残った黒い靄の痕へ、そっと指をかざす。
触れた指先が、びくりと跳ねた。
皺の刻まれた手の甲に、玉の汗が浮く。
リオンは、剣に残ったあの感触を思い出していた。
払っただけで、腕の芯から力が抜けていく――飢えた、冷たさ。
「闇属性では、ありませんね」
「……ああ」
リューゲン師の声が、かすれた。
「影を操るだけの魔法なら、命までは喰らわん」
老教師は震える指を握り込んだ。
「これは、《蝕み》。生命そのものを糧とする――数百年前に、葬られたはずの禁呪よ」
その視線が、リオンを通り越し、廊下の暗がりへと滑る。
さらに、その奥――地の底へと。
「あの森の魔素の乱れと同じ匂いがする」
「学院の底から何かが滲み出しておる」
ガロウィン師が剣を担ぎ直した。
「アンナ、生徒を寮へ。逃げ遅れがないか、確かめろ」
「ええ。リーナさんは医務室へ運びます」
アンナ先生がてきぱきと指示を飛ばす。
動転していた生徒たちが、教師の声でようやく我に返った。
「儂は、源を断ちに行く」
リューゲン師が杖を握った。
「ガロウィン、お主は生徒たちを頼む。上に術者がもう一人いれば大事になる」
「……いいのか、爺さん一人で」
「一人ではない」
リューゲン師の視線がリオンに向いた。
「リオン君。この靄の痕を君は視えているな」
「ええ。北棟の地下へ続いています」
「ならば、来なさい。前は、君に任せる」
リオンはひとつ頷いた。
老教師が同道するなら、断る理由はない。
むしろ――術の正体を知る者が傍にいるのは、心強かった。
「リオン」
リズが袖を掴んだ。
「私も――」
「リズ」
リオンは静かに首を振る。
「リーナのそばに、いてあげてください」
「目を覚ました時、知った顔がいないと不安になります」
リズが唇を噛んだ。
それでも、ゆっくりと手を離す。
「……無事で、帰ってきて」
「ええ。約束します」
リオンとリューゲン師は、靄の筋をたどり、暗い回廊へと踏み出した。
* * *
北棟の地下回廊は、しんと冷えきっていた。
壁の燭台は半分が消えている。
残った炎が、石壁にいびつな影を揺らしていた。
進むほどに空気が重く、粘りつく。
「足元から、力が吸われる」
リューゲン師が杖の先に淡い光を灯した。
「《蝕み》の瘴気だ。長く浸かれば、儂のような老骨は、立ってもおれん」
「先生は、後ろに」
「言われずとも。この光で、瘴気は抑える。だが――そう長くは、保たんぞ」
老教師の杖から放たれた光が、二人を包む薄い膜となった。
まとわりつく重さが、わずかに、退く。
黒い筋は、その奥へ、奥へと続いている。
やがて――回廊の終わりに、それは立っていた。
黒いローブを、深くかぶった人影。
顔は垂れた頭巾の闇に沈んで見えない。
その足元では、先ほどの靄が瘴気の渦となって、ぐるぐると蠢いていた。
「やはり、来たか」
しわがれた声が、頭巾の奥から漏れた。
「強化系の、異端児。それに――七賢者の、老いぼれ」
「あの子の魔力を奪ったのは、お前か」
リオンの声は凍えるほどに静かだった。
「あれは、ただの供物よ」
男が片手を上げる。
「我らの悲願のほんの一滴にすぎぬ」
「……供物」
リオンの瞳がすっと細まった。
「ならば、ここで止めます」
「止められるなら、な」
男のローブの裾から瘴気が、津波のように噴き上がった。
押し寄せた瘴気が、影の触手となって、四方からリオンに殺到する。
ただの影ではない。
掠めただけで、肌が痺れ、力が抜ける。
触れれば、命を喰われる――そういう、牙だった。
リオンは《観察眼》を全開にした。
瘴気の流れのその芯。
うねる触手の一本一本に、魔力の筋が透けて視える。
地を蹴る。
歩法・縮地。
触手の隙間を紙一重で縫って抜けた。
「《武具強化》――金剛」
金色に燃える刃が横薙ぎに振るわれる。
殺到した触手がまとめて断ち斬られ、瘴気ごと霧散した。
「ほう」
頭巾の奥で男が嗤う。
「これを斬るか。だが、《蝕み》は――断っても、また湧く」
斬られた瘴気が床を這い、再び鎌首をもたげる。
「リオン君! 元を断て!」
リューゲン師の声が背を打った。
「術者を仕留めねば、瘴気は尽きん!」
「――はい!」
リオンの狙いが、ただ一点、男へと定まった。
その瞬間、男の姿がふっと足元の影に沈んだ。
消えた。
リオンの背後、別の影から男がぬっと半身を現す。
その手には、瘴気をまとった黒い刃。
「死ね」
刃がリオンのうなじへ振り下ろされた。
だが――
リオンは振り向きもしなかった。
すでに身を沈め、後ろ手に剣を立てている。
ガキン、と硬い音。
黒い刃が金色の刃に、受け止められていた。
「――背中にも、目があるとでも?」
「いいえ」
静かに答える。
「影が動けば、瘴気も動く。視えていますよ、最初から」
男の余裕が、初めて、ぴくりと揺れた。
リオンは受けた刃を擦り上げ、男の体勢を崩す。
そのまま、肘を起点に掌底を胸へ突き込んだ。
合気の崩しに、強化の魔力を乗せた一撃。
「がっ……!?」
男の身体が石壁まで吹き飛ぶ。
頭巾がはらりと滑り落ちた。
現れたのは痩せこけた中年の男の顔。
落ちくぼんだ眼窩の奥で、濁った瞳がぎらついていた。
その喉元には、見慣れぬ紋章の刻まれた銀の首飾り。
光を象った――聖なる、印。
「……闇の術を使う者が、光の印を」
リオンの眉がわずかに寄った。
「貴様らには……関係の、ないことだ」
男が血を吐きながら嗤う。
「我らは、あの御方の御代を招くのみ……」
「あの御方?」
「じきに……わかる。この学院の地の底に眠るものが――目覚めれば、な」
男の手が懐の札へ伸びる。
リオンが踏み込むより、わずかに、速かった。
「《暗転》」
地下回廊のすべての炎がいっせいに消えた。
完全な闇。
「リオン君、動くな!」
リューゲン師の鋭い声。
老教師の杖の光だけが、闇の中にぽつりと残った。
リオンは目を閉じた。
視覚に頼らず、肌で、空気の流れを読む。
《感覚強化》――皮膚が、闇のなかの揺らぎを捉える。
男は逃げていない。
それどころか――。
リオンの背筋をあの森で覚えた冷たさが駆け上がった。
灰色の。あの、気配――
闇の奥にふたつの光が灯る。
人のものではない、金色の目。
それは、壁の影から音もなく這い出て、倒れた男の身体を、ぬるりと呑み込んだ。
男の悲鳴はなかった。
ただ、影がぴちゃりと閉じる音だけが響く。
「……あれは」
リューゲン師が、息を呑んだ。
「使い捨てたか。己の手駒を」
次の瞬間には、もう、消えていた。
燭台の炎がひとりでに戻る。
回廊には、リオンとリューゲン師だけが残された。
男のいた場所には、銀の首飾りだけがぽつりと落ちている。
リオンはそれを拾い上げた。
光を象った聖なる印。
その裏に、小さく刻まれた文字。
『地下書庫――封を解け』
リオンは無言で首飾りをリューゲン師に差し出した。
老教師はそれを一瞥するなり息を止めた。
「……やはり、やつらが動いたか」
「やつら?」
「いや」
リューゲン師は言葉を濁した。
「それを語るには、まだ早い。今は――先を、見よ」
老教師の視線が回廊のさらに奥へと向く。
杖の光が届かぬ、黒く塗りつぶされたような闇。
リオンもつられて、その先を見た。
闇の最奥にそれは、あった。
古い、巨大な石の扉。
表面には幾重もの鎖と、色褪せた封印の札が貼り重ねられている。
数百年、誰も開けたことのない――地下書庫の、扉。
「あの男は、これを開けさせるために子供の命を削っていた」
リューゲン師の声が低く沈む。
「《蝕み》で集めた生命を糧に封印は、少しずつ緩められていたのだ」
リオンは扉へと一歩、近づいた。
鎖の隙間から――。
何か暗く巨大なものの気配が、確かに漏れ出していた。
(この奥に、何が眠っている)
リオンの手が剣の柄をそっと握る。
その時――
力尽きたように封印の札が一枚、はらりと剥がれ落ちた。
そして、扉の奥で何かが、ゆっくりと目を覚ます音がした。




