第十話【襲来】
朝の食堂はいつもの喧騒に満ちていた。
決闘から三日。
ガレスを下した噂はとうに学院を駆け巡り、リオンの名は誰の口にも上っていた。
それでも、B組の七人が窓際の席に集まる朝だけは、何ひとつ変わらない。
差し込む陽が、木のテーブルに長い影を落としている。
「校外実習って、本当に来週末なんだよな」
トマスが、パンを片手に身を乗り出した。
頬がもう興奮で赤い。
「ああ。魔物討伐の、合同実習だ」
カイトがスープを掬いながら、こともなげに答える。
「全学年合同。教師陣が総出で安全を確保するらしいぞ」
「腕が鳴るぜ……!」
「トマス」
ミレイユが、視線も上げずに釘を刺した。
「鳴らすのは腕より、まず食事の手よ」
「うっ」
「魔物討伐なんて、戦いはほんの一部。準備が八割」
「……はい」
トマスが、しゅんと肩を落とす。
その素直さに、リオンの口元がわずかに緩んだ。
「ねえ、リオン」
リズが紅茶のカップ越しに、ちらりと見上げた。
「あなたは、こういう実習って初めて?」
「実習という形では、初めてです」
「家門では、魔物討伐の経験はあるの?」
「ええ。何度か」
短く答えるリオンを、ソフィアが控えめに見やる。
「リオン様がいてくださると……心強いです」
「皆さんの方こそ、頼りにしています」
「ぼ、僕は……」
エミルが、おずおずと口を開いた。
「治癒の腕で、お役に立てたら……」
「ええ。頼みにしています」
リオンが軽く頷くと、エミルの頬に、ほのかな赤みが差した。
* * *
一週間が過ぎた。
迎えた実習当日の朝は、雲が低く垂れこめていた。
四台の馬車に分乗し、新入生五十名は学院郊外の森へと向かった。
半日ほどの道のり。
A組、B組、C組――すべての新入生が同行する、大がかりな実習だった。
森の入り口では、すでにガロウィン師が待ち構えていた。
古い刀傷の刻まれた頬が、朝の冷気に強張っている。
「これより、合同魔物討伐実習を行う」
教官の声が、湿った木々の間に低く響いた。
「諸君は五名一組に分かれ、低級魔物を討伐せよ」
「教師陣が森全体を巡回する。異変があれば、信号弾を上げよ」
新入生たちが、身を硬くする。
その後ろで、アンナ先生が安心させるように微笑んだ。
だが――リューゲン師だけは、笑っていなかった。
その眼が、ふと森の奥へと向く。
細められ、すぐに、何事もなかったように戻された。
リオンは、それを横目に捉えていた。
(……何か、感じている)
もっとも、自分の中には、まだ明確な違和感はない。
森は、ただ静かだった。
リオンの組は、リオン、リズ、カイト、ミレイユ、エミル。
トマスとソフィアは、別の組へ振り分けられた。
攻撃と支援の釣り合いを取った、堅実な編成だった。
薄暗い小道を、五人で進む。
湿った土の匂い、苔の冷たい息、梢の奥で鳴く名も知らぬ鳥の声。
足音だけがやけに大きく響いた。
「最初は俺がいく」
カイトが手のひらに、水の魔力を巻きつけた。
「ミレイユ嬢、援護を頼む」
「ええ」
「リオン君は?」
「最後で構いません」
リオンは、淡々と答える。
「皆さんの戦い方を、見させてください」
「あら。観察するつもり?」
ミレイユが、わずかに眉を上げた。
「ええ。連携を、頭に入れておきたい」
リズが、ふっと吹き出す。
「リオンって、ほんとに変わってるわね」
その時だった。
茂みの奥が、ガサリと鳴った。
牙を剥いたゴブリンが、五体。
低い唸りを上げて、一斉に駆け出してくる。
「――来たぞ!」
カイトの剣が鞘を払った。
水の魔力が、最前列のゴブリンの足を絡め取る。
氷の縄が地を這い、巨体をその場に縫い留めた。
すかさず、ミレイユの風が走る。
「《エアロスラッシュ》」
低く抑えた詠唱とともに、風の刃が二体を薙ぎ払った。
残るは、三体。
リズがまっすぐ手を掲げる。
「《ライトボム》!」
弾けた光が、ゴブリンの視界を白く焼いた。
まともに浴びた一体が、たまらず地に伏す。
残る二体へ――リオンが、滑り出た。
歩法・滑り。
地を擦るように足を運び、音もなく二体の懐へ入り込む。
ゴブリンの目は、リオンを捉えきれない。
その鼻先で、すでにリオンは身を沈めていた。
一体目――踏み込みざま、強化を乗せた手刀が、うなじを打つ。
鈍い手応えが、ひとつ。
ゴブリンの膝が、かくりと折れた。
返す体で、二体目の顎へ掌底を突き上げる。
首がのけぞり、白目を剥いた。
牙を剥いたまま、その巨体が前のめりに崩れ落ちる。
二体とも、もう二度と起き上がらなかった。
「……ふぅ」
カイトが、長く息を吐く。
「お前のそれ、何度見ても化け物だな」
「皆さんの連携があってこそです」
エミルが、慌てて駆け寄ってきた。
「ぼ、僕……何も、できなかった……」
「貴方の治癒があるから、皆が安心して前に出られる」
リオンは、軽く頷いた。
「後方の支えこそ、戦いの土台です」
エミルの目が、ふっと潤んだ。
それから一時間。
リオンの組は、危なげなく魔物を狩り続けた。
ゴブリンを十数体、オークを二体、ホブゴブリンを一体。
全員、かすり傷ひとつない。
――だが。
リオンの胸の奥で、ひとつの違和感が、静かに膨らんでいた。
(数が、多すぎる)
通常の演習なら、これほどの魔物が湧くことはない。
教師陣が事前に間引いているはずだった。
その時。
森の奥から、信号弾が打ち上がった。
ドンッ。
赤い光が、灰色の空を引き裂く。
「緊急信号だ」
カイトの瞳が、鋭く細まった。
「誰かが、助を求めてる」
ほどなく、森全体にガロウィン師の号令が轟いた。
「全員、集合せよ!」
リオンの組は、即座に駆け出した。
集合地点へ走る途中、別の組も次々と合流してくる。
息を切らせたトマスが、人垣の向こうから追いついてきた。
「リオン! 西の小道、ホブゴブリンの大群が――!」
「落ち着いて、トマス」
ミレイユが、その肩を軽く叩く。
「指示を、待ちなさい」
集合地点では、ガロウィン師、アンナ先生、リューゲン師が待っていた。
三人の顔から、もう余裕の色が消えている。
「諸君」
ガロウィン師が、低く告げた。
「想定外の事態だ」
「魔物の数が、通常の十倍。森全体に散らばっている」
ざわめきが、波のように広がった。
「逃げ場は?」
カイトが、間髪入れずに問う。
「東の街道。馬車で半日だ」
ガロウィン師が、剣を抜き放った。
「教師陣が前線を張る。諸君は、己の身を守れ」
その時。
「魔素の流れが、乱れている」
リューゲン師が、ぽつりと呟いた。
リオンの眼が、すっと老教師へ向く。
「人為的、ということですか」
「……そう、とも言える」
リューゲン師が、リオンを見返した。
その奥に、隠しきれぬ緊張があった。
「あの森の奥に――何かが、いる」
* * *
地が唸った。
森の奥の闇から、巨大な影が三つ、せり上がってくる。
翼を広げた、ワイバーンが二体。
そして、三つの首を持つ――ケルベロスが、一体。
C級魔獣のワイバーンに、B級魔獣のケルベロス。
教師陣でさえ、容易には屠れぬ格の魔獣だった。
新入生たちが、後ずさる。
あちこちで、悲鳴が上がった。
「諸君、後退せよ――!」
ガロウィン師が、声を張り上げる。
だが。
その制止の前へ、リオンが一歩、踏み出した。
「リオン!」
リズの叫びが、背を打つ。
「ご心配なく」
リオンの手が、家門の剣の柄へ伸びた。
「観察と修練の、好機です」
「お前――待て、リオン・グラディウス!」
ガロウィン師の声を、リオンはもう聞いていなかった。
「皆を、守ります」
その背は、微塵も揺らがなかった。
第一のワイバーンが、翼を打って舞い上がる。
鉤爪と、鞭のようにしなる長い尾。
空からの一撃。
リオンは、《観察眼》を開いた。
呼吸の波。翼の周期。爪が描くであろう軌道。
魔力の流れのすべてが、淡い光の筋となって視える。
鉤爪が頭上から迫る。
その刹那、リオンは地を蹴った。
歩法・跳躍。
垂直に四メートル、跳ね上がる。
ワイバーンの胴の真横へ、音もなく並んだ。
「《武具強化》――」
家門の剣が、金色に燃え立つ。
剣術・袈裟斬り。
刃が、肩口から斜めに、深々と肉を裂いた。
青い血を撒き散らし、巨体が木々をへし折って墜ちる。
ドオッ、と地が鳴った。
間を置かず、第二のワイバーンが襲いかかる。
リオンは空中で身を翻した。
そのまま、ワイバーンの背へと左足を着地させる。
――騎乗。
暴れ狂う巨体。
リオンは、その揺れを逆に利して、剣を逆手に持ち替えた。
剣術・逆袈裟。
刃が、首筋から喉元へと一息に駆け抜ける。
血を噴き、ワイバーンは力なく地へ落ちていった。
二体目。
だが、安堵する間はない。
地では、ケルベロスが三つの首を低く沈めていた。
火、闇、氷――三色の魔力を、いままさに練り上げている。
「リオン!」
リズの顔から血の気が失せた。
リオンは、ケルベロスの正面へ静かに降り立つ。
「《一撃必殺》――」
体内の魔力をただ一点、刃へと注ぎ込む。
これまでの倍を超える密度。
剣身が、白金色に輝きはじめた。
三つの首が、三色の魔力を同時に放つ。
しかし。
リオンの剣が、地を裂いて走った。
剣術・奥義「三閃」。
ただ一振りの中に、三つの軌跡が刻まれる。
火を、闇を、氷を――それぞれ別の太刀筋で斬り払い、霧へと変えた。
返す刃が三つの首をほぼ同時に薙ぐ。
ケルベロスの巨躯が声もなく崩れ落ちた。
森が、しんと静まり返った。
「……あ、ありえん」
ガロウィン師の喉から、掠れた声が漏れた。
「ワイバーン二体に、ケルベロス一体を――ものの、数十秒で」
リオンは、ゆっくりと剣を鞘へ納めた。
「皆様、ご無事ですか」
我に返ったB組の仲間が、駆け寄ってくる。
「リオン、すげぇ……!」
トマスが声を裏返らせた。
「今のがお前の本気――」
「いえ」
リオンは、静かに首を振る。
「まだ、ナイアには届きません」
その呟きは、誰の耳にも届かぬまま、森の冷気に溶けていった。
すでにミレイユは、ペンを走らせている。
「リオン君。あなたの太刀筋、訊きたいことが山ほどあるわ」
「機会があれば」
「……いつも、それね」
それでも、ミレイユの口元は、かすかに笑っていた。
エミルが、負傷者のもとへ走る。
ソフィアが光の結界を張り、その背を支えた。
カイトとリズは、残った下級魔物の掃討へ回っていく。
その時だった。
リオンの背筋を冷たいものが滑り落ちた。
森の奥……
灰色の肌をした影が、ほんの一瞬、木々の隙間に立っていた。
人の形をして、しかし、人ではない何か。
ナイアとは、姿も、纏う気配も違う。
それと、目が合った。
刹那――影は、音もなく闇へ溶けた。
リオンは、しばらくその一点を見つめていた。
いつの間にか、リューゲン師が隣に立っている。
「……君も、見たか」
「ええ」
「魔人ではない。だが――無縁でも、ない」
老教師の声は、低く沈んでいた。
「ナイアとは、別の駒だな」
リオンは、静かに頷く。
「世界が、また動き始めている――そう、仰るのですね」
「ああ。ナイアが、告げた通りに」
二人は、しばらく無言で、暮れていく森の奥を見据えていた。
* * *
帰路。
馬車の中は、戦いの余熱と疲れに包まれていた。
リズが、リオンの肩にもたれて眠っている。
カイトは向かいの席で、舟を漕いでいた。
ミレイユだけが、まだペンを走らせ続けている。
ソフィアとエミルは、寄り添うように目を閉じていた。
今日、初めて大型魔獣と斬り結んだ。
ワイバーンを二体。ケルベロスを、一体。
それでもなお――あの黒い短刀の重みには、遠く届かない。
(だが、確かに、進んでいる)
「リオン」
ふいに、カイトが薄目を開けた。
「お前、本当に大丈夫か」
「ええ」
「あの灰色の……お前にも、見えてたよな」
「……ええ」
カイトは、しばらく黙り込んだ。
そして、ふっと、力の抜けた笑みをこぼす。
「お前と一緒だと、退屈しねぇな」
リオンも、わずかに口元を緩めた。
馬車が遠い王都の灯を車窓に捉える。
眠るリズの寝息、ペンの走る音、車輪の規則正しい響き。
穏やかな、帰り道だった。
だが――リオンの脳裏からは、あの灰色の視線が離れなかった。
森の影は見る間に遠ざかっていく。
それなのに、胸に差したこの冷たい予感だけは、王都へ近づくほどになぜか濃さを増していった。




