34 粘り勝ち
杉本の所属している研究室は、広い敷地に歴史を感じさせる建物が点在している大学の一角にあった。大学正門から広い道路を通り、構内表示板に従って歩くと目的の『生物機能化学科』の建物が見つかった。その入り口を入ると、学科内の研究室の名前が表示されており、『応用菌学研究室』がそこの四階にあることが分かった。
エレベーターで四階まで上がり、研究室を探しながら歩いていくと、洋介には土の匂いが感じられた。
「あっ、この匂いがするということは『応用菌学研究室』がこの近くにあるということだな」
洋介が独り言を言いながら見上げると、扉の上に目指す研究室の名前が書いてあった。ノックしてから中に入ると、若い研究者数人が白衣を着て実験をしていた。
「あのー、杉本大夢さんはいらっしゃいますか?」
夢中で実験をしていた一人の若者が洋介の方を見てから言った。
「杉本さんはこの隣の実験室にいると思います。ここを出て左側です」
洋介が礼を言うと、その若者が一緒に来てくれて、隣の実験室を開け、大きな声で呼んでくれた。
「杉本さん、お客さんですよ」
その声に応じて中から出て来たのは、身長は洋介よりやや低いが、細身でバランスの良い体型をした若者であった。眼鏡をかけていて眼光は鋭く見え、風貌はいかにも研究者タイプといった感じであった。
「ああ、神尾さんですか。野田さんから聞いています。杉本大夢です」
「神尾洋介と言います。お忙しい所にお邪魔して済みません。少し外に出られませんか?」
「ちょっと待っていただけますか? 今やっている実験を一段落させますので」
「分かりました。外に出て待っています」
洋介が廊下に出て待っていると、五分もしないうちに杉本が姿を現した。
「大学の中じゃ拙いでしょうから、学外に出てお話ししましょう。杉本さんはコーヒーと食事とどちらが良いですか?」
「私は貧乏院生なので、食事の方が嬉しいです」
「分かりました。近くにレストランか何かありませんか?」
「あまり高級な店はありませんが、学生向けの食堂ならすぐ近くにあります」
「それじゃ、そこに行きましょう」
その食堂はテーブルが二つとカウンターが一列のみの小さな定食屋であった。まだ夕食時までには少し間があったためか、店内に客はいなかった。
「杉本さん、何でも好きなものを注文してください」
「はい、有難うございます。それではお言葉に甘えてビフテキ定食にします」
「僕はそうだなあ、何にしようかな……。あっ、ホッケ定食にしよう」
お茶を持ってきた年配の女性に二人の注文を伝えた後、他の人が来ないうちに話をしてしまおうと思った洋介が本題を切り出した。
「日陰和田聡一郎さんが亡くなった件ですけど、まだ事件が解決されていないんです。まあ、警察では自殺説が有力のような状況で、事件かどうかもまだ分かっていないのですけどね」
「はい、キノコ中毒のその後については野田さんから少しは聞いていますので、ある程度は知っています。野田さんも警察に疑われているようなので、とても困っているみたいですから」
「それなら、話が早くて都合がいいです。杉本さんはあのパーティーの調理を野田さんと二人で行なったんですよね?」
「二人で、って言ったって、僕は野田さんの指示通りのことをしていただけですから、料理のことはよく分かりません」
「あの日はクロハツというキノコが三種類持ち込まれたそうですね?」
「はい、野田さんがそう言われていましたので、僕は言いつけを守ってそれぞれを調理しました」
「三種類のキノコのうち、毒性の強いニセクロハツがどれだか杉本さんには伝えられていましたか?」
「いいえ、ニセクロハツというキノコが含まれているということを野田さんは言われませんでした。ただ、クロハツというキノコは毒性があるとも言われているから、取り扱いには十分注意するように、また、生だと危ないから加熱はしっかりするようにと言われました。いつもの野田さんの口調よりも強い感じがしましたので、よく覚えています」
「そうだったんですか。調理する際、三種類のキノコが混じり合ってしまわないようにしたのでしょう?」
「聡一郎先生から厳しく言われていたようで、調理する鍋の大きさと色は異なるものを使いました。また、病院の調理室ですのでコンロは沢山あります。それで、調理するコンロも少し離れた所のもの三カ所を使いました」
「できたキノコ汁をお客さんに出す時は、どんなふうにされたのですか?」
「全員で食べるためのキノコ汁は大きな鉄鍋で調理したのですが、それに木製の大きな蓋をしました。また、同じキノコを使ってバターで炒めたキノコも白い大皿に盛りました。これらをワゴンに載せ、さらに上から白い布を掛けて会場の入り口まで運び、そこで待機していて、聡一郎先生の合図で会場の中まで運び込みました」
「なかなか派手な演出を行なったのですね。それで、残りの二種類のキノコはどうされたのですか?」
「残りの二種類のキノコは、最初のものと比べると量的には随分と少なかったのです。これらを取り違えないようにするため、野田さんはラベルを用意されていました」
「ラベルですか? 随分と用意周到だったのですね」
「はい、絶対に間違えてはいけないと聡一郎先生に言われたそうでしたので、野田さんは必死でやっていました」
「ラベルには何て書いてあったのですか?」
「一方には『篠崎』と書いてあり、もう一方には『京都』と書いてあったと思います」
「なるほどね。二種類ともキノコ汁にしたのですね?」
「はい、そうです」
「それはどのようにして会場に出したのですか?」
「大きな鉄鍋のキノコ汁を出してしばらくしてから、聡一郎先生が調理室に来られました。『京都』と書いてあった方で調理したキノコ汁、『篠崎』と書いてあった方で調理したもの、それと野田さんからお玉杓子二つとお盆とを借りて、それらを小さなワゴンの上に載せ、さらに、食器棚からお椀をいくつかご自分で取って、それもワゴンに載せて運ばれていかれました」
「そうですか。日陰和田さんがご自身でお椀に入れたのでしょうね」
「はい、多分先生がどこかでお椀に入れられたのだと思いますが、私は見たわけではないので、確かではありません」
「そうですか。それから、三種類のキノコ汁やバターで炒めたキノコは残っていなかったのですね?」
「大きな鉄鍋で出したキノコ汁は全量会場に運び、パーティーが終わってから却ってきた鍋にはほとんど中身が残っていませんでしたので、野田さんの指示で私が洗いました。少量の二種類も鍋は先生が後で返してくれましたが、鍋にはほとんど残っていませんでした。パーティーが終わるまではそのままにしておき、先生の了解が取れたと野田さんが言われたので私が鍋を洗いました」
「そうですか……、残念ながら料理は残っていなかったか……」
洋介はかなりがっかりしてしまい、次の質問を思い付くことができなかった。杉本も洋介の落胆した様子を見たためかしばらく黙り込んだ。そこに注文した定食がテーブルに出された。二人は会話もせずに黙々と皿と丼の中身を胃袋に流し込んだ。
「さっき、研究室の前に行った時、土の匂いがしました。僕はそれで『応用菌学研究室』が近くにあることが分かりました。あの匂いって、放線菌が放出している匂いなんですよね?」
「あれっ、よくご存知ですね。普通の人はあの匂いを嗅ぐと、土の匂いだ、っていいますけど、本当は放線菌が出す匂いなんですよね」
杉本は困ったような表情からとても嬉しそうな顔付きになった。
「神尾さんて、農芸化学専攻だったんですか?」
「いや、そうではないんですけど、友達で抗生物質の研究をしていた人がいましてね、その人が自慢そうに言っていたことを覚えていたんです」
「そうですか、皆さんが知らないことを知っているって、何となくいい気分になりますよね」
「そうですよね」
それまで固まっていた雰囲気がこの会話で一気に柔らかなものに変化していったのを洋介は感じた。
「何だか、遠くの存在であった神尾さんが、とても近くに感じられるようになりました……」
そう言った後、言葉が続かなくなった杉本を見て、洋介はじっと待った方が良いように思われたので、杉本が次の言葉を発するまで我慢した。
「神尾さん……、僕は隠していました。本当は……、あの三種類のキノコと、それらから調理した三種類のキノコ汁を少量、抜き取って保存してあるんです」
「本当ですか?」
「本当です。僕は応用菌学を専攻しています。だから珍しい菌類に接するとすごく嬉しくなってくるのです。クロハツやニセクロハツについては名前だけは知っていました。これらの判別が非常に難しいことや一歩間違うと命に係わる毒性があることも、書物やインターネットで知識としてはよく知っていました。しかし、自分の目でクロハツの実物を見たのは初めてだったのです。どうしても我慢することができませんでした。野田さんが先生の対応に忙しくされている時を見計らって、三種類のキノコそのものの一部とキノコ汁にしたものとを少量いただいたのです。キノコの実物は乾燥状態で、また、キノコ汁は小さな容器に入れて凍結保存してあります」
「どこに保存してあるのですか?」
「キノコの実物は研究室の私の机の隣の棚に入れてあります。それと、キノコ汁の方は研究室の冷凍庫に入れて保管しています」
洋介はあまりの嬉しさに直ぐには言葉が出てこなかった。頭の中で、これからどう行動すれば、間違えることなく迅速に証拠固めが行えるかを考えていたのだ。
「あのー、私はどうすれば良いのでしょうか?」
不安そうに杉本が洋介に訊いた。
「あっ、ご免なさい。夢中で今後の対応について考えてしまっていました。このことは警察にお話してしっかりと対応していただかなければならないと思います。キノコそのものとキノコ汁は警察の指示があるまでそのまま手を付けずにいてください。直ぐに私から警察に連絡しますから」
そう言うと、洋介は杉本の目の前で鹿子木に電話した。




