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16 深町との面談

 洋介は筑波ホビークラブに戻ると、いつものように東側の奥にある小部屋に籠った。洋介の行動をじっと見ていた小野村愛の顔には安堵の気持ちが溢れていた。洋介がいつもと同じ振る舞いに戻っていることが彼女にとってはこの上なく嬉しいことであった。

 籠り始めた日の夕方、洋介は部屋から出て受付に入っていった。

「あらっ、洋介さん、どうなさったのですか? お昼頃籠り始めたばかりでしょう。こんなに早く出て来られるなんて本当に珍しいことですわ」

 愛は驚いたような表情で訊いた。

「いやね、いくら考えても不審な状況が見えてこないので、籠るのは一時中止にしたんですよ」

 愛の笑い声を背に、洋介は受付の電話のボタンを押し始めた。

「ああ、美由紀さんですか。実はお願いがあって電話しました」

「はい、最初にお願いしたのはこちらなんですから、何でも致しますわよ」

「ちょっと言いづらいのですが、ご主人の深町正人さんに会わせていただけないでしょうか?」

「神尾君が彼に会ってくれるのが、私としては一番良いことだと思っていたの。是非お願いするわ」

「それは有難う。で、どうすれば良いのだろうか?」

「そうね……、深町と相談してみるわ。決まったらこちらからお電話します。神尾君、本当によろしくお願いします」

「分かりました。それでは電話、お待ちしています」

 洋介が受話器を置くと、愛が再び不安そうな表情で洋介の方を見ていた。

「また、あの綺麗な女の人だったんですね」

「ああ……、そうですけど。今度はあの人と会うわけではなく、ご主人の方に話を訊くつもりだから、大丈夫ですよ、心配しなくても」

「そうならいいんですけど……」

 愛の不安の種はまだまだ消えることはないようであった。


 夜になって、受付の電話が鳴った。帰る気になれなかった愛が受話器を取った。

「はい、筑波ホビークラブです。………、少しお待ちください」

 愛は振り返ると洋介に告げた。

「洋介さん、深町正人さんという方からお電話です」

 洋介は頷くと椅子から立ち上がり、愛から受話器を受け取った。

「お待たせ致しました。神尾洋介です」

「深町です。美由紀から神尾さんのことを話してもらいました。今更こちらからお願いできるような筋合いではないことはよく理解しているつもりですが、私もこのような立場になったことがありませんので、どうしたらよいか全く見当が付かないのです。失礼は重々承知の上で、力になっていただきたいのですが、いかがでしょうか?」

「それについてはご心配には及びません。私の方からも是非深町さんにお会いしていろいろとお伺いしたいと思っておりますので。それで、深町さんは相当お忙しいのでしょうから、私がそちらの病院の方にでも伺いましょうか?」

「いえいえ、とんでもありません。私の問題ですから、こちらがお伺いするのが筋だと思います。勝手を言って申し訳ありませんが、十月二十二日の水曜日の午後、そちらにお伺いしたいと思いますが、神尾さんのご都合はいかがでしょうか?」

「はい、私は大体いつでも大丈夫なのですが、一応確認してみますね。十月二十二日の水曜日の午後はと……」

 愛の方を見ると、愛は嬉しそうに両手で丸を作って応えてくれた。

「はい、大丈夫です。それではお待ちしております。ところで、深町さんはここの場所はお分かりになりますか?」

「はい、インターネットで確認致しましたから、何とか辿り着けると思います。どうかよろしくお願い致します」

 受話器を置いて愛を見ると、さっきまでの不安は吹き飛んだような表情であった。


 その日の午後になった。愛は昼過ぎには既に筑波ホビークラブに顔を出していた。

「あれっ、愛ちゃん、今日は随分と早いね。確か、午後も授業があったんじゃなかったっけ?」

「洋介さんたら……、意地悪! 始めから午後は休講だったんですよ」

 どうやら図星だったようだ。午後三時を回った頃、ようやく待ち人が筑波ホビークラブに現れた。深町正人の身長は洋介より若干低いが基本的にはすらっとしており、元々は細身だったことを窺わせるような体つきであった。現在は仕事が忙しくて運動ができないためかお腹周りはやや太めに見えた。近視用の軽やかな縁色のフレームの眼鏡をかけており、インテリジェンス溢れる風貌である。服装は清潔なものを着用していてきちんとしているが、美由紀の夫であるという先入観からそう見えるのか、センスが良いという印象はあまり感じられなかった。愛が玄関先で深町を迎え、受付に案内した。


「深町正人です。今日は面倒なお願いを致しまして本当に申し訳ありません。しかし、本当に困っておりますので、どうかよろしくお願い致します」

 深町は自分が置かれている立場をよく理解しているのが現れている態度で恐縮そうに言った。当時は全く知らなかったこととは言え、結果的には洋介の恋人を奪い取った張本人である自分が、奪われた立場の男に頼み事をする訳である。普通はこのような願いが聞き届けられる可能性が大変低い状況の中での面談であった。

「神尾洋介です。こちらこそよろしくお願い致します」

 洋介は相手の立場を十分理解していたので、深町がリラックスできるような言葉を探してみたのではあるが、うまい言葉が見つからなかった。

「しかし、ここの景色は本当に綺麗ですね。東京のようなごちゃごちゃした所から来ると、心が癒されるような気持になれますね」

「そう感じていただけると私たちは本当に嬉しいです。このクラブの設立目的が研究で疲れ果てた若い研究者たちの心の救済にあるのですから」

「そうですか……、素晴らしいことをされておられるのですね……」

 深町はそう言ってから受付の窓から外の景色を再確認するように覗いて見た。


「さてと、何からお話しすればよろしいですか?」

 深町はようやく本題に入る気持ちになれた様子を見せた。

「そうですね、何人かの人たちからお訊きしましたので、キノコ中毒の状況はある程度分かってきています。先ず、深町先生が現時点で一番困られていることは何なのでしょうか?」

「あっ、先生は止めていだだけませんか。ここでは私の方が神尾先生とお呼びしなければならない立場なのですから」

「分かりました。深町さんとお呼びします」

 洋介は微笑みながらそう答えた。

「私が今一番困っているのは、何といっても、今回のキノコ中毒事件の容疑者の一人として警察から見られていることです。人を助けることが本来の業務である医者の私にとっては、何故そうなってしまうのか理解に苦しむのです」


 会話の切れ目を待っていた愛がお盆の上にコーヒーが入った洋介専用のカップと客用のカップ、さらに日本茶が入った茶碗とを載せて受付に入ってきた。

「深町さんはコーヒーとお茶のどちらがよろしいでしょうか?」

「あっ、有難うございます。私はコーヒーをいただきます」

 二人の前にコーヒーカップを置くと、愛は笑顔で出ていった。洋介は愛の表情を目で追って確認していたが、深町の方に向き直って質問を続けた。

「警察からはどのような説明があったのですか?」

「いやー、それが、刑事さんは何も説明してくれません。ただただ訊問されるだけです」

「尋問で特に執拗だと思えるほど訊かれていることはどのようなことですか?」

「主な訊問は二つのことについてです。一つ目は日陰和田病院の次期理事長候補と言われているようだが、どのような気持ちか、ということです。二つ目は亡くなった聡一郎が最後に私と同僚の新保恭平と三人で食べようとして出してくれたクロハツの特別料理を、何故私だけが食べようとしなかったのか、ということです」

「そうですか。それで、深町さんは何とお答えになられたのですか?」

「理事長候補については、私には全くその気がありませんので、そうお答えしています。日陰和田病院で週一回勤務しているのも、聡一郎が高校時代からの友人だからです。私はまだまだ大学病院に残り、循環器内科医としての腕を磨きたいと思っているのです。院長とか理事長とかいった人間を管理するような仕事には全く興味が沸かないのです。私にはそういう仕事より人を直接助けることができる可能性のある現場の医者の仕事が向いていると思っていますので」

「はあ、確かに深町さんからはそんな雰囲気が滲み出てきているように思えますものね」

「有難うございます。でも、警察ではそんな風に私の事をみてくれることはないように思えます」

 所詮警察はそういう所なんだろうなと洋介は思い、微笑みながら頷いてから次の質問に移った。


「では、クロハツの特別料理を深町さんだけが食べようとされなかった点については?」

「理由は簡単明瞭なのです。昔から普通に売られているキノコ以外、特に珍しいキノコは食べて来なかったからだけなのです。私は長野県で生まれ、小学校までは山間部で過ごしました。しかし、父の転勤で中学生になる時、東京に引っ越したのです。小さい頃は祖父と近くの山を歩くのが好きで、よく山菜やキノコを採取して食べていました。その頃、祖父からキノコの危険性を叩き込まれたのです。ですから、珍しいキノコは絶対に口にしないのです。他に理由はありません」

「そうでしたか、よく分かりました。それからもう一つお訊きしたいのですが、日陰和田さんが深町さんと神保さんとでこっそりと食べようとしたクロハツの特別料理なんですけれど、日陰和田さんは何と言って勧められたのでしょうか?」

「聡一郎はあのキノコ汁をお盆に載せて運んできた時、『これは、今日のクロハツの中でも最も姿形の良いもので作った特上品のキノコ汁だよ。皆に振る舞う程の量がないので、我々だけで楽しもうよ』と言っていたと思います」

「そうでしたか……。そうすると、篠崎さんが納入したクロハツの中から日陰和田さんが何らかの特徴によって特別に良さそうなキノコを選抜した可能性もあるわけですね?」

「さあ、聡一郎はその辺については何も言っていませんでしたので、私には分かりません」

「そうですよね……」


 その後、洋介は少しの間黙ってしまった。深町はしばらくそれに付き合っていたが、沈黙の時間に耐えられなくなって質問した。

「私は他に何をお話しすればよいのでしょうか?」

「あっ、済みません。時々夢中で考え込んでしまう癖があるものですから。それでは、深町さんは今回のキノコ中毒が事件なのか事故なのかも含め、どのように考えておられるのでしょうか?」

「うーん、正直に申しまして、本当によく分からないのです。事故だとすると、クロハツとよく似ているキノコ、例えばニセクロハツなどと間違えて食べてしまったということになるわけでしょうが、少なくとも聡一郎はその判別法はよく理解しているような口ぶりでした。あのパーティーの席上、参加者たちの前で自慢していたくらいですから。また、キノコ業者の篠崎さんも聡一郎と以前から取引があり、あの人のキノコに関する判別能力を聡一郎はかなり高く評価していたようです」


「そうですか……。それでは事件、つまり殺人が行われたと仮定した場合は、どのようにお考えでしょうか?」

「事件と考えた場合も、疑問点だらけです。つまり、あのパーティーで出された料理は全て聡一郎が指図したか、自分で手を加えたものなのです。調理した人を除けば、参加した人間が手を出す機会は皆無だったと言ってもよいと思います。一つの可能性としては、毒物を隠し持っていて、聡一郎のキノコ汁か炒め物にその毒を入れるというケースです。でも、皆が見ている前で行われた犯行ということになりますから、相当難しいと思います」

「では動機の観点からはどうお考えですか? 日陰和田さんの病院内での評判はあまりよろしくはなかったということも聞いていますが」

「いや。正直言って、そう芳しいものではなかったようです。私や恭平は高校生の頃からの付き合いですから、聡一郎の気弱な面や優しい面もあることを知っていますが、看護師、事務職員、リハビリ担当者、技師や若い医師たちにとって、聡一郎は病院経営者の御曹司ということになりますから、監督される側の立場からしか彼を見られないのです。彼の一見優しそうに響く言葉も、よく考えてみれば何かの強い要求だったなんてことはざらにあったのです。直接叱責することも日常茶飯事でしたので、彼を疎ましく思っていた人間は多かったのではないかと思います」


「つまり、病院内だけに限っても、日陰和田さんを恨んでいた人は結構いたと思われるということですね」

「病院内だけに限ったことではありません。患者さんたちの中には、聡一郎の対応の悪さに憤り、裁判を起こした人も何人かいるくらいですから」

「そうですか……。それで、裁判は決着したのでしょうか?」

「一般的に言って、病院側の落ち度を証明するのは現時点ではそう簡単なことではありません。カルテにしても日々のケアにしても書いているのは病院関係者なのですから。患者さんが望まれているような判決は得られないことが多いのではないかと思います。稀に高裁まで持っていかれる人もおりますが、裁判にはお金も掛かりますし、大半は判決に渋々従わざるを得ない状況なのだと思います。

ただですね、医者の立場から言わせていただければ、医者としては本当に最善を尽くした結果である場合もかなりあるんです。現実を正しく理解しないで、文句を言われる方も少なくないことも事実だと思います」

「つまり、事実はどうであるかは別として、患者さんたちの中には、酷く日陰和田さんを恨んでいた人が存在していた可能性は十分あるということですね」

 洋介は溜息を付きながら遠くを見るような目つきをした。


「深町さんや神保さんは同僚の医師として、あるいは高校時代からの友人として日陰和田さんにアドバイスしてあげることはなかったのですか?」

「私や恭平があの病院に勤務し始めた頃は気楽にいろいろと意見を交換し合っていました。しばらくすると、医者としてのお互いの立場の違いが次第に明確になってきました。医者になった目的の違いや、人間として生きていく上での信条の違い等がかなり明確に表れてきたのです。その上、聡一郎の父親である理事長は、聡一郎にあの病院を継がせることに疑問を持つようになってしまったのです。理事長は私や恭平を後継者候補と考えたこともあったのです。そんな空気は直ぐに聡一郎に伝わりました。私たち三人の関係もだんだん表面的なものにならざるを得なくなってしまったのです。従って、最近は聡一郎にアドバイスすることは全くありませんでした」

「そうだったんですか。そうすると、警察が深町さんや神保さんのことを疑っても仕方がないとも言えるわけですね……」

 洋介はその後の質問が浮かんでこないくらい沈んだ雰囲気になった。


 しばらく沈黙が続いたが、洋介はできるだけ多くのことを深町から訊いておかなければならないことに気が付き、こんどは自分から口を開いた。

「その他に、動機を持っている可能性のある人はいませんでしょうか?」

「そうですね、キノコ業者の篠崎さんも聡一郎に対してあまり良い感情を抱いていなかったのではないかと思います」

「何か具体的な出来事があったのでしょうか?」

「聡一郎と篠崎さんとが知り合った直後は、二人とも相手を尊敬していたような口調で話していました。私はパーティー用の食材を届けに来た篠崎さんと聡一郎とが話している所を何回も見ていましたので、分かるのです。篠崎さんがあの病院に来る日は大体パーティーが開催される日の午前中か午後早くでしたし、私があの病院に行く日に聡一郎がパーティーを開いてくれていましたから。しかし、しばらく経つと、聡一郎は随分と上から目線の命令調で篠崎さんに対応するようになったのです。そうなった直後にある出来事が起こりました」

「そうなんですね。私にも何となく雰囲気が分かるような気がしますが、先入観を持ってはいけませんから、その出来事をお話しください」


「その日の夜にいつもの聡催パーティーが開かれる予定になっていました。午後二時頃だったと思います。私がようやく午前中の外来診療を終えて、昼食を取るために食堂に行こうとしました。その時、ちょうど篠崎さんが食材を届けに来て聡一郎と話をしていたのです。聡一郎は怒ったような口調で篠崎さんに文句を付けていました。どうやら、聡一郎の要求したものと違う食材を篠崎さんが持ってきてしまったようでした。散々文句を言った後、罵倒するような言葉を吐いて聡一郎は立ち去っていきました。見ていて、あまりにも篠崎さんが可哀そうに感じられたので、近寄って、『いろいろと大変ですね。いつもお世話になっています。有難うございます』と言ったのです。そうしたら、篠崎さんは、『日陰和田先生は、間違いなく今日私が届けた食材を注文したのです。ここに私が書いたメモがあるんですから。それなのに……。最近、私のことを奴隷かなんかだと思っているのではないかと疑ってしまいたくなっているんですよ』ってこぼしていました」

「そんなことがあったのですね。動機のある人はそんなところですかね。そうは言っても、ずいぶんと沢山の人に動機があり得るんですね。日陰和田聡一郎さんという人は……」

 洋介は呆れ顔でそう言った。


「深町さんの方から私にお話しされておくべきことがありますか?」

「いいえ、私がお話ししておくべきだと思っていたことは全てお伝えできたと思っています」

「そうですか、それでは、今日はこの辺までに致しましょうか」

「あのー、このクラブのパンフレットか何かありますでしょうか? 初めてこのような所に来まして、非常に興味が沸いてきたのもですから」

「はい、もちろんです。愛ちゃん、お渡ししてください」

 二人の話の成り行きを心配そうに遠くでそれとなく聞いていた愛は、少し驚いたような表情をしたが、直ぐにいつもの笑顔を取り戻し、受付の窓際の箱から一部を取って深町に渡しながら言った。

「はい、これが筑波ホビークラブのパンフレットです。もし、お時間があれば私が中をご案内致しましょうか?」

「はい、是非お願いします」

 愛は、了解してほしいというような顔付きで洋介の方を向いたので、洋介が頷くと嬉しそうに深町を伴って受付から出て行った。


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