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14 K菌類研究所

 翌朝、洋介は筑波ホビークラブの受付から飯島博に電話を掛けた。飯島は、神尾が以前勤務していた研究所に同期で入所し、隣の研究室に配属になった研究者であり、今も筑波ホビークラブの正会員としてこのクラブによく顔を出してくれている洋介と同じ年の友人である。洋介の考え方に賛同してくれていて、何かにつけてクラブの運営に力を貸してくれる頼もしい味方でもある。

「はい、飯島です。何だ、神尾か。どうしたんだい? お前さんが電話してくるなんて珍しいから、ちょっと驚いちゃうよ」

 飯島は少し茶化した口調で電話に出た。

「いやね、実はちょっと頼まれごとがあってね」

「あっ、分かった。また刑事の鹿子木さんから何か事件に関連して頼まれたんだろう?」

「うーん、それもあるんだけれど、昔の知り合いからも頼まれたんだよ。飯島はキノコに詳しい研究者を知らないかい?」

「キノコか……。あっ、そうだ、峰岸大希(みねぎしひろき)さんなら詳しいと思う。つくばにあるK菌類研究所の研究員をされていて、僕らより四、五歳上の人だけど、あの人なら優しいから神尾が訊きに行っても大丈夫だと思うよ」

「紹介してもらえるかな?」

「ああ、もちろんだとも。直ぐに峰岸さんに電話してみるよ。しばらく待っていてくれないか」

「済まないけれど、よろしく頼むよ」


 そう言って受話器を置き、近くの椅子に座ってぼんやりしていると、電話が鳴った。

「峰岸さんがOKしてくれたよ」

「早いな。本当に有難う。それでいつ、どうやったらお会いしてお話しを訊くことができるのかな?」

「神尾の性格からして、直ぐにでも会いたいと言うと思ったので、今日これからでもいいか訊いてみたんだよ。そうしたら、あの人優しいから了解してくれたよ。神尾は大丈夫?」

「もちろん、大丈夫さ。本当に助かったよ。で、僕はどうしたら良いのかな?」

「今直ぐにK菌類研究所に行って、受付で峰岸大希さんにお目に掛かりたいと言えば、大丈夫だと言っていた。今からなら十時頃にはあっちに行けるだろ?」

「分かった。直ぐに出発するよ。本当に有難う」

 洋介は心からお礼を言って、外出の準備を始めた。準備と言ったって、クラブの管理をお願いしている源三郎に一言断るだけのことではあるが。


 洋介愛用のペールグリーンのエクストレイルは、その日の午前十時前、K菌類研究所の来訪者駐車場に着いた。この研究所は洋介が考えていたような小さなものではなく、樹木が生い茂っている広い敷地に三階建ての研究棟が建てられている、つくばでは中規模の部類に入る研究所であった。車から降りて受付に行き、中にいたガードマンに声を掛けた。

「私は神尾洋介という者ですが、研究員の峰岸大希さんにお目に掛かりたいのですが……」

「はい、少しお待ちください」

 そう言うとガードマンは受話器を取り、誰かと話し始めた。直ぐに受話器を置いて、洋介に向かって言った。

「峰岸さんと連絡が取れました。お会いになるそうです。このカードに付いている紐を首から下げてください。受付の横の道を真直ぐに進まれるとあの建物の入り口があります。横にカードリーダーがありますので、お渡ししたカードをリーダーに翳していただければドアが開きます。中に入って第二面談室と書いてある部屋に入ってお待ちください」

「有難うございます」

 洋介はそう言って指示された通りに進み、指定された面談室に入った。あまり大きな部屋ではなく、天井以外はガラス張りであったが、外からの目が気にならないようにするために、大人の膝くらいから頭よりやや上の高さまで曇りガラスになっていた。部屋の真ん中には小さなテーブルが据えてあり、長辺に椅子が三つずつきちんと並べられていた。入り口に最も近い椅子を引き出し、そっと座った。しばらくすると、ドアがノックされた。洋介が返事をすると、峰岸と思われる人物が笑顔で中に入って来た。


 峰岸の身長は洋介とほぼ同じで、顔は小さめでプロポーションは抜群に良かった。身だしなみも洗練されていて、研究者の多くが好む自由で動き易いジーンズ姿とは相当な乖離があった。

「よくいらっしゃいました。キノコに興味を持っていただいて、私としては大変嬉しく思います。どうぞ楽にしてください。私で分かることでしたら、何でもお答え致します」

 峰岸の声は高くもなく低くもなく聞き易いトーンであり、なおかつ、きれいな標準語で早口にならずに喋ってくれるので、非常に分かり易く、フレンドリーな感じが出ていた。

「お忙しいところに突然押しかけてきてしまい、本当に申し訳ありません」

「あっ、そんなこと心配無用です。飯島さんとは彼が学生の時からの知り合いでしたので、神尾さんのことは以前からお聞きしておりました。警察の方から頼りにされておられるのだそうですね」

「とんでもありません。ただほんの少しお手伝いをしているだけなんです」

「飯島さんからお聞きした話では、いくつもの難事件の解決に相当貢献されているということでした。今回、ご来訪いただいたのも何か事件と関連しているのでしょうか?」

「はい、その通りなんです。実は少し前にキノコの中毒事件が起こりました。クロハツというキノコだったのだそうです」


「クロハツですか……。そうするとニセクロハツが混入していたかもしれないですね」

「流石に専門家は違いますね。直ぐ分かるんですね」

「いや、そうだと決めつけるわけにはいきませんが、クロハツとニセクロハツとは識別するのが難しいことがあるので、直感的にそう思っただけです」

「私はキノコに関しては本当に何も知らないような状況です。今日は峰岸さんにクロハツやニセクロハツに関する知識のポイントを教えていただけないかと思って押し掛けてきました。申し訳ありませんが、どうかよろしくお願い致します」

「分かりました。少しお待ちいただけますか? 本当は私の研究室に来ていただいて標本を見ていただきながらご説明した方が早いと思うのですが、この研究所の規定で、外部の方を中まで入れてはいけないことになっておりますので、ご了承ください」

「はい、もちろんです。ここでお待ちします」

 峰岸は頭を下げると面談室から出て行った。


 しばらくして峰岸が何冊かの本と透明ファイルに入った書類とを左腕に抱えて戻って来た。

「お待たせしました。一つずつご説明するよりも、類似のキノコも一緒にお話した方が理解し易いと思いますが、それで良いでしょうか?」

「はい、もちろん、峰岸さんのお考え通りで結構です」

「神尾さんはご存知のことかもしれませんが、先ずは『キノコ』という概念について極簡単にご説明致します。私たちは『キノコ』という言葉を聞くと、傘と柄やヒダから構成されているものだと思うのが普通ですが、あれは子実体といって、胞子による生殖のためのものなのです。生物の分類としては菌類に属します。カビと同じ生物群ですね。普段は朽ち木や落ち葉の中で菌糸と呼ばれる細長い糸みたいな状態で生活しています。分解酵素を出して周囲の有機物を分解して吸収することで生きているのです。この酵素は相当強力なので、生食すると人間にとっては毒になります。つまり、キノコはほぼ全て生で食べると毒だと考えていた方が良いのです」

「えっ、全てのキノコが生では毒なのですか!」

「はい、そう考えていた方が安全ですよ。酵素はタンパク質からできていますので、通常は加熱することによって変性や分解を受けて活性が失われてしまいます。だから食用とされているキノコは加熱調理すれば安全に食べられるのです」

「それでは、毒キノコはどこが違うのですか?」

「毒キノコにも同様な酵素が入っていると思いますが、これらの他に加熱しても変性や分解を受けない状態で人間にとって毒となる成分が含まれていると考えられます」

 洋介が頷いたのを見て、峰岸は話題を変えた。


「次に神尾さんがお知りになりたいクロハツについてですが、この写真をご覧ください」

 そう言うと、峰岸は抱えてきた本の一冊を取り上げ、パラパラと捲った後、見開きにして洋介に示した。そこには洋介がインターネットで調べた時に見たものと同じようなキノコの写真が載っていた。

「これが問題のクロハツです。ベニタケ科ベニタケ属に属するキノコの一種です。夏から秋にかけてマツ、ブナ、シイ、カシなどの林の下の地上部に子実体が発生します。北半球のかなり広い範囲で見られるということです。傘の大きさは五から二十センチメートル程になる中型から大型のキノコです。このキノコの形状と成長過程や生育している環境の違いにおける変化については詳しくなってしまいますので、今日は割愛させていただきますが、形や色が変化していきます。また、クロハツ近縁種の分類がまだ明確になっていないようなので、今は同じキノコとされているものが異なる近縁種である可能性もあります。これらのことが毒キノコであるニセクロハツとの見分けを難しくしている原因ではないかと思います」

 洋介には頷く以外に対応の仕方が見つけられなかった。峰岸は説明を続けた。


「次にこの写真を見てください。こちらはニセクロハツです。先ほどお見せしたクロハツと外見上は区別がつかないのではないかと思いますが、いかがでしょう?」

「うーん、確かにそっくりですね。私には違いを指摘することはできません」

「ニセクロハツ以外にも、非常によく似たキノコであり一応食用とされるクロハツモドキというのもあります。クロハツはヒダとヒダとの間隔が広く、クロハツモドキではヒダが密集しているんです。その他にも子実体の色が白っぽいシロハツというのもあるんです。これらのキノコに毒性があるかどうかを見分ける方法として一般的に言われているのは、クロハツなどの食べることができるキノコは、子実体に傷を付けると赤く変色し、しばらく放置すると色が赤から黒っぽく変化すると言われています。クロハツモドキも同様の変化が見られるとされています。一方、猛毒であるニセクロハツは子実体に傷を付けると最初はクロハツと同様に赤くなりますが、その後黒く変わることはないとされています。その違いで識別が可能だとされているのです。ですが、本当はこの見分け方はそれほど簡単ではないのです」


「そうなのですか。ニセクロハツによる中毒事故は頻繁に起こっているのでしょうか?」

「ニセクロハツ中毒の報告は多くはありません。むしろ相当少ないと言ったほうがよいかと思います。一九五四年に中毒の報告があったとされていて、その後五件の中毒報告があり、合わせて五名の方が亡くなっているそうです。ですから非常に危ないキノコだと言えますね」

「そんなに恐ろしいキノコなんですね、ニセクロハツは……。毒性を引き起こす本体は分かっているのですか?」

「ニセクロハツから抽出して精製する過程で毒成分が不安定なため、長い間毒成分は不明とされていましたが、二〇〇九年に大学の研究者たちによって毒成分が単離され、構造決定もなされました。この毒成分は有機性の生物毒の中では分子構造が最小の物質だと言われています」

「そうだったのですか」


「それから、ご存知のことかもしれませんが、世間では毒キノコの見分け方についていくいつか言われています。例えば、『たてに裂けるキノコは食べられる』、『毒キノコは色が派手で、地味な色で匂いの良いキノコは食べられる』、『煮汁に入れた銀のスプーンが変色しなければ食べられる』、『虫が食べているキノコは人間も食べられる』といった見分け方は何の根拠もない迷信ですので、絶対にこれらの基準で判断してはいけないのです」

「いや、誰かキノコに詳しいと言われている人にそのような事を言われたら、信じて食べてしまいそうな見分け方ですね。気をつけなくちゃいけませんね」

「他に何かお知りになりたいことはありますか?」

「これから調査を始める所ですので、今日教えていただいた内容でとりあえず今は十分だと思います。ただ、今後いろいろなことが分かってきた段階で、また疑問が出てくる可能性は高いと思います。その時はこちらに伺ってもよろしいでしょうか?」

「はい、もちろんです。来られる前に私の所に電話していただければ助かります」

 そう言って、峰岸は自分の名刺を差し出した。


「有難うございます。ところで、峰岸さんは何故キノコを研究されておられるのですか? 初対面でこんなことを言っては失礼かと思いますが、お話しになる言葉もきれいですし、身のこなしやファッションも都会的な感じがします。大都会の高層ビルのオフィスに勤務されている姿がとってもお似合いなような気がするものですから」

「あははは、私は喜んだ方が良いのでしょうね……。確かに私は東京で育ちました。家はマンションの高層階、道はアスファルト、学校に行っても校庭までアンツーカーみたいな所だったので、土いじりをしたことが全くなくて育ちました。高校生になると、そんな生活に嫌気がさし、近郊の低い山をいくつも歩き回っていました。そのうち、山に生えているキノコに興味を持つようになり、大学進学時には分子生物学科を選びました。昔は農芸化学科と呼んでいた学科の中にある応用菌学を専攻したのです。博士課程まで大学で研究した後、つくばのK菌類研究所に就職したのです。

人間の複雑でとてもきれいとはいえない関係性を見ているよりは、自然が為す力を観察している方が私には合っているように感じられるのです」

「そうなんですか。確かに人間の世界には目を背けたくなるような光景が結構ありますものね。いや、プライバシーに踏み込んだ質問をしてしまいました。申し訳ありませんでした。これからもどうかよろしくご指導ください」

「はい、私でできることでしたら何でも致します。どうか気軽に来てください」

 洋介は峰岸に心からお礼を述べてK菌類研究所を後にした。


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