ただ朝日が昇るのみ
透明チューブと脳みそ。それらを前に俺は身構えた。
「……これは?」
特に危険な気配はないものの、警戒を解くことができない。
「人をこれ扱いとは少しばかりひどくはないかな」
その声はどこからしたのかはっきりしないものだったが、俺は勘でその出所を悟った。
「まさかこれがしゃべってるのか……?」
「あくまでもこれ扱いか」
声に苦笑の気配が混じった。
「わたしはこう見えてもこの世界最後の人類なんだがね」
「最後の、ヒト?」
ケーナがつぶやく。
「そうだ。わたしはメッセンジャー。新山圭介、君が来るのをここでずっと待っていた」
「俺を?」
「ああ。君に言葉を託すため、外の君たちに教訓を伝えるために」
……言っている意味が分からない。
「圭介。君は争うことを避けて生きてきた。戦い挑むことから逃げて生きてきた。だがこの世界に来て分かったはずだ。人にとって争うのも戦うのもコミュニケーションの一種であって、それなしには前に進むことができないんだ」
「……それが?」
「そのことを身をもって感じ取って欲しかった。わたしたちこの世界の人間は、そのことに気づかずに戦う能力を失ってしまった。互いの間に隔壁を築き、あるいは互いの間にある違いを融解させ、どんどんどんどん逃げていった。その結果がこのざまだ。この死に瀕した世界だ」
荒廃しひび割れた土。永久に続く曇り空。死に絶えた人類。
「それを知ってもらいたくてわたしが時空の壁の向こうから君を呼び寄せたんだ」
「……え?」
俺はぽかんとして脳みそを見つめた。
「わたしの、いやわたしたちの願いは一つ。どうか君たちの世界では同じ間違いを繰り返さないでほしい。それだけ」
「ちょっと待った」
ケーナが口を開いた。いつの間にか俺の隣にいた。
「それってつまり……ケースケに帰れってこと?」
「端的に言えば、そうだ」
「ダメって言ったら?」
「それは無理だ」
――ゴッ!
岩同士がぶつかるような重い音が響いた。
「ケースケは帰んないよ! だってわたしと旅を続けるもん!」
透明チューブを殴りつけたケーナが一度飛び退って力を溜める。
気合と共に拳の連打。
チューブはびくともしないが、ケーナの拳の勢いも衰えることなくむしろどんどん増していく。
「無駄だよ『失敗作』。君に結末を変えることはできない」
「フェル君! ケースケを!」
ぶわりと横から身体をかっさらわれて、俺は悲鳴を上げた。
フェルは俺を背中に乗せて、猛スピードで発進した。
「ケーナ!」
必死で振り返る。ケーナが急速に遠ざかっていく。
俺はあまりの速度と急な状況に混乱していた。一体どうなっている?
あの脳みそは、俺に元の世界に帰れといった。帰って俺の見聞きしたことを生かしてほしいと。
でも俺はケーナと旅をすると決めている。帰るわけにはいかない。
そして逃げるわけにもいかない。逃げるならケーナも一緒だ。
「フェル! 戻れ! ケーナを置いてはいけないよ!」
フェルに怒鳴る。
……怒鳴って、ふと気づいた。
透明チューブと、それへの攻撃を続けるケーナがすぐそこにいた。
ケーナが、呆気にとられた表情でこっちを見ていた。
「だから無駄だと言っただろう」
声が冷徹に響く。
「君は下がっていたまえ」
同時にケーナの悲鳴が上がった。
チューブから跳び退った彼女は肩を押さえていた。
何かが光ったのは見えた。おそらくはビルの入り口でザリガニのハサミを消し飛ばしたのと同じ攻撃だろう。
「わたしたちは戦う意志の力はなくしたが手段までは失っていない……」
囁くような声は俺に刃のような言葉を突き付ける。
「この失敗作を殺されたくなければ君は帰りなさい。わたしは君が自分の意志で選択することを望む――」
「失敗作って言うな」
俺は反射的にそうつぶやいた。
膝をついているケーナに近寄り、体に手を添える。震えていたケーナの体が、少し緊張を解いた。
俺は息をついて、それから脳みそをにらんだ。
「あなたが俺を呼び寄せたのか」
「そうだ」
「そして今度は帰れという」
「……そうだ」
「ずいぶん勝手なんだな。俺の感情は無視なのか」
脳みそは少しの間沈黙した。
「すまないとは思っている。ただ、わたしには選択肢がなかった」
「選択肢がなければ手段は何でもいいと」
「どうしても同族に間違いを繰り返させたくなかった!」
「ならせめてケーナに手を出すべきじゃなかったな!」
俺はケーナをかばうように前に出た。
「あなたがどんなに同族のことを思ってやったにしても、俺はそれには納得できない。帰れといっても帰らない。なんならあなたと戦ってやる」
沈黙が落ちた。
立ち上がったケーナが俺の隣に立った。
彼女の手が俺の手に触れる。握る。
「そうか」
脳みそがようやく声を発した。
「そうか……」
長い年月を経た疲れと、失望と……それから少しの嬉しさを混ぜた声だった。
「それが君の答えなんだな?」
「ああ。俺たちは旅を続けるよ」
「わたしの願いはやはり聞き入れてもらえないのかな」
「……」
俺は黙ったけれど、代わりにケーナが口を開いた。
「大丈夫じゃないかな」
「……ん?」
「旅をしていればいろいろなところへ行くことになるから。きっとケースケの故郷に行く道もあるでしょ」
「……なるほどな」
声にさらに笑いが混じった。
と、地面がわずかに揺れた。
「どうやらわたしはここまでのようだ」
「え……?」
「限界はとうに超えていたんだ。すまないが後は君たちに任せるよ」
白い地面に日々が入る。空に雷光が閃く。
「この先を見られないのは大変残念だが、君たちを信じよう。挑む力を持つ君たちには先へと進む資格があるから――」
声は遠ざかり、白い靄が俺たちを包み込んだ。
◆◆◆
「……あれ?」
俺たちはいつの間にかビルの屋上に立っていた。
ケーナとしばらく顔を見合わせて。
「うわ!?」
俺はケーナに抱き付かれて悲鳴を上げた。
「ケ、ケーナ?」
「ありがと、ケースケ」
ケーナは柔らかい笑顔を浮かべていた。
「守ってくれてありがと。一緒の旅を続けてくれて、ありがと」
「……お礼を言われるようなことじゃないよ」
俺はそっと抱きしめ返してつぶやいた。
「こっちこそありがとう。これからもよろしく」
「……へへ」
ケーナが照れたように笑ったその時だった。きらきらと輝く光の粉が舞い降りてきた。
「……?」
見上げるとちょうど飛び立ったところらしい蝶が、その翅を優雅にひるがえしていた。
その翅からこぼれる鱗粉が、金の砂粒のように見えているらしい。
光が横手から差してくる。
地平から太陽が顔を出していた。雲が切れている。夜明けだ。
蝶は朝日の方向に向かって、ゆっくりと飛んでいく。翅に風を受け、光を受け。
俺たちは言葉もなくそれを見送った。
「……あの芋虫も旅だったんだな」
「うん……」
「俺たちも行こうか」
「そうだね」
膨らんだフェルに乗り込んで、俺たちは空へと飛び立った。
「ケースケ、これからどこへ行く?」
「そうだなあ……」
とりあえず元の世界に戻る方法は探しておきたいところではある。
ぎくしゃくしていた幼馴染――球技大会で俺を執拗に責め立てたクラスメートでもある――とは和解しておきたい。
そんなことを考えていたらケーナに頭をこつんと叩かれた。
「なんかわたし以外の女の子のこと考えてない?」
「……勘のいいことで」
「やっぱりそうなの!?」
「いや違う違う、違うって!」
俺たちの旅はこれからも続く。
旅の終着点なんて、そんなものやっぱりないってことだ。
朝日に向かって飛びながら、俺はケーナをもう一度だけ、抱きしめた。




