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3.母

 家に着いたと同時に携帯の着信音が響いた。父さんからだった。

 「もしもし?」

 「あ、もしもし。父さんだよ。今日遅くなりそうなんだけど。」

 人と会っているのか、まわりが騒々しい。雑音にかき消されないようにと、父が声を張る。だから、余計に大きな声で、耳が痛くなった。

 「分かった。ご飯は買うから平気だよ。」

 「そうか。すまんな。あと、今日母さんの所、行ってやってな。よろしく頼んだよ。」 「うん。分かった。じゃぁね。」

 「ああ。鍵はしっかり閉めろよ。じゃぁ。」

 携帯を切る。時刻は五時を回ろうとしていた。今から母さんの所へ行って夕飯を買って帰ると、八時ぐらいにはなる。

 今日は疲れてたのにな。暗くなり始めた辺りを見ながら、私は溜め息を一つ吐いた。









 駅から歩いて、十分の所にある総合病院に母は入院していた。今から一年ほど前に倒れ、以来、入院、退院を繰り返す生活を送っている。

 母は癌だった。肝炎ウイルスの感染による肝臓癌。一度治療して、見掛け上完全に治った様に思えても、また再発する。

 最初にそれを聞いた時、なんて質の悪い病気だろうと思った。でも幸い、母の進行具合は軽く、早期発見もあってか、命に別状はないと担当医が言っていた。

 だがしかし、以前の様な活発な母の姿がないのは確かだった。

 今は、昔あれだけ好きだった噂話も、馬鹿にした話し方もしない。あの時、私が拾ってきた子猫に冷たく

「それ」と言った母も、もういなかった。

 その代わりに、母はあまり話をしなくなった。私が話し掛けても、気のない返事をするだけだ。父さんも、私も、そんな母への対応に戸惑っていた。




 「母さん。」

 そう声を掛けると、窓から外を眺めていた母が、ゆっくりと私を振り返った。

 「ああ。笑菜。」

 そういう母の目の下の隈が前よりひどくなっている気がした。顔色もあまり良くない。

 「母さん、寝てないの?顔色良くないね。」

 ベットの隣に置いてある丸椅子に腰掛けながら、母に尋ねる。

 母は、私を一瞥して、それから『別に。』と小さく呟き、再び窓から外を眺め始めた。

 沈黙だけが、流れる。

 私は耐えきれずに口を開いた。

 「あのね、あのさ。今日、父さんの帰り遅いんだよ。夕飯、買ってくんだけど、何がいいかな?」

 母は、まるで私の話など聞こえていないかの様に無反応。

 懸命に笑顔を作る。でも顔が引きつるだけで、笑っているように見えない。鉛に押し潰されるような感覚に陥る。


 「昨日はさ、カレーだったんだ。今日は何しようかと思ってさ。」

 「………………。」

 母は、どこか遠くを見ている。今、此処にいる私でもなく、残業をしている父でもなく。もっと遠い何かを見ているのだ。

 私の話は聞こえていない。

 私を見ていない。

 「ごめんね。母さん、疲れてるよね。私、もうかえるよ。」

 私の声に母が少しだけ、こちらを見た。私は立ち上がって、もう一度笑ってみる。

 だめだ。こんなの笑顔なんて言わないよ。

 私は黙って母に背中を向けた。

 「ねぇ。」

 驚いて、母を振り向く。何かを言おうとしている。静かに母の次の言葉を待った。

 そして、しばらくの沈黙の後に、母は開き掛けた口を結び、

「何でもない。」と素っ気なく言った。

 私は、見えかけた光を見失った様な気持ちに見舞われた。


 何?母さん、言って?

 そう言えば良かった。そしたら、母は結んだ口を開いてくれたかもしれない。

 でも。

 私は何故だかそれを言えなかった。



 もう母は、『母さん』という言葉に振り向かない。

 私は、母さんにとって何の意味を成しているの?

 母さん。聞いてる?




 言えないよ。私には。


 頭では分かってる事が、行動に出来ないように。

 きっと私は、機能してないのかもしれかなった。

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