2.存在
小さい頃、猫を拾った。茶色の毛並みが綺麗な、野良の子猫だった。
その猫は誰にも知られない様に、道端の隅っこで小さく丸まっていた。普通に歩いていたら、気付かなかったかもしれない。でも私は何故だかすぐに、その子猫に目が行ったのだ。
その猫を、家へ連れて帰った。母が極度の動物嫌いなのを知っていて、それでも連れて帰ると案の定、私は母に叱られた。
「何してるの、そんなもの早く、捨ててきなさい。」
『そんなもの』と言った母を、その時凄く嫌悪した。命のある生き物を『それ』と呼ぶ、母が信じられなかった。
「でも、凄く可哀相なんだよ。助けてあげなきゃ、死んじゃうよ。」
私は懸命に訴えた。現に猫はぐったりとして弱り切っていたのだった。母は猫を、何か汚いものでも見る様に一瞥すると、恐い顔をして、
「捨ててきなさい」と念を押すように言った。 それは、私に反論を与えなかった。異論なんて認められない、絶対的命令。
もう何を言ってもだめだと知り、私は泣きながら、公園の隅に猫を連れていった。震える手で段ボール箱の中に新聞紙をひいて、誰かに助けられる事を願いながら、子猫をそっとその中に寝かせた。猫はさっきよりもぐったりとして、息絶えそうに見えた。
家に帰ると母が、いつもと変わらずに夕飯の支度をしていた。
そんな母に私は疑問を持つ。
何故、そんなに平然といられるの?見たでしょ?あの猫、死にそうだった。あなたは何とも思わないの?
でも私は、それらの言葉を全てごくりと飲み込んで、ぎゅっと口を結んだ。
次の日の朝、私は猫のいる公園へ向かった。
隅に置かれた段ボール箱を、そっと覗き込むと、私は呆然とした。そこには息絶えた子猫の亡骸が、静かに横たわっていたのだ。
死んでしまった。私は恐ろしかった。
「ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。」
触ると猫はまだ温かった。私は大声で泣きなくなった。なんでもいい。ただただ悲しくて。
でも。私は泣けなかった。悲しみは限界を越えると、感情が無くなるのだと初めて思った。
助けられなかった罪悪感と母に対する複雑な怒り、命を失った喪失感。様々な思いが、頭の中でぐるぐると旋回して、行き場を失い黒いもやとなって胸に広がっていく。
誰にも知られずに死んでいった命。存在理由?存在意義?
今に思えば、その出来事が随分と私を引っ張っていたのかもしれない。
私は今でも、あの時の子猫を思い出す。
子猫の存在理由?私が求めていた、助けたかった大切な命だ。
それじゃ、私の存在意義は?なに?
黒い霧は暗闇へと溶け込んで行く。
私は分からない。と。
「…菜、笑菜!」
「あっ。はい。何?」
江美利の声に、はっとして我に返った。
「ねぇ、聞いてた?」
「え、あの。ごめんなさい。聞いてませんでした。」
「ったく。笑菜って時々、ぼーとしてるよね。人が話してる時でも。」
江美利はそう言って、拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
「ごめん、ごめん。」と手を合わせて謝る。
「じゃぁ、日直の手伝いしてくれたら許す!」
「もちろん。やらせていただきます。」
「よし!」
許して貰えたのか、江美利は人懐っこい笑みを私に向けた。彼女の笑顔は、場を和ませる力があると思う。こちらまでつられて笑ってしまうのだ。
「で、何を手伝えばいいの?」
「河神がさ、資料使うから、図書室に取りに来いって。」
今朝の事を思い出す。あの後、先生も遅刻して学年主任の平岡に嫌味言われていたっけ。私もその後に小言、言われたけれど。
「自分でやればいいのに。あの教師、人使い荒いよね。西先生とは大違い。」
「西も同じもんだって。」
江美利の背後から声が聞こえる。見るとツンツン頭の原田が、気怠そうに机に肘をついていた。
「何、嫉妬?」
江美利が冷やかすように言う。
「別に。君を放って置いても、多分平気。」
「悔しいけど、当たってる。」
二人は中学校からの付き合いらしい。初めて江美利と話した時に、そう言っていた。 羨ましいな、と思う。
恋人が欲しいと言うのではない。こうして、お互いを理解し合い、尊重している事が私には何よりも微笑ましく、そして羨ましかった。
「仲良しカップルだ。」 私は二人に言った。
「そうか?あ、それより江美利、お前の事、三組の奴が呼んでたぞ。何か急いでたみたいだったけど。」
「え、本当?あたし今から図書室行くのに。」
「あっ。いいよ。私一人で行ってくる。どうせ、あっちに先生いるでしょ?一人って訳じゃないし。平気だよ。」
「でも。」
「大丈夫。行ってあげないと。急ぎなんだし。」
江美利はしばらく悩んだ末に、
「あとで行く」と私に残して教室を出ていった。
『ガラガラ。』
「あ、やっぱ先生いるじゃん。」
三階に位置する図書室の扉を開けると、予想通り先生が一番奥の席に腰を掛けていた。何か本を呼んでいるらしく、私には気付いていない。
「先生。」
そろりと気付かれないように近づいて、背後から彼を呼んだ。びくりと身体が動いて、私を振り返る。
ミーヤキャットみたい。
「なんだ、芦口か。びっくりしたー。」
「驚かそうと思ったんじゃないんですがね。」
嘘。何の損得もない、そんな嘘。先生が私に疑いの眼差しを向けてきた。私は、それを素知らぬ顔でかわす。
「嘘つくと、また轢かれそうになるぞ。」
ニヤリと先生が笑う。
「ひられません。」
「どうだか。まぁ、いいや、ところでどうしたんだ?」
「大丈夫ですよ。江美利の手伝いです。資料?を取りに。」
「ああ資料ね。でも、その本人がいないじゃん。」 「江美利は急ぎの用事があるらしくて。後で来るって言ってました。」
「なんだ、パシリか。」
先生の言葉に、違和感を覚える。思わず、彼を見た。いつも見る表情がそこにあった。
「パシリって。」と笑ってみても、違和感は無くならない。
「違う?」
先生の声。違う?よく、分からない。私は、先生のやる気のなさそうな肩を見つめた。
「多分……違う。」
私は、江美利のパシリなんかじゃない。でも自信はないな。気分が一気に暗くなった。
「あ……すまん。そんな落ち込むとは」
「そういう事は言わないで下さいよ。リアルに落ち込む。」
ははは、と先生は笑う。なんてヤツだ。
「平気だよ。多分。あいつは、そういう奴じゃないもんな。」
「……そうですよ。」
分かってるさ。分かってる。私は、まとわりつく違和感を無視した。
「そうだ、資料だよな。資料。」
先生が思い出したように、本をパタンと閉じて立ち上がる。机に置いた本を見ると、『変身』と言う本だった。読んだ事がある。確か、作者はカフカだったような………。
「先生、これカフカ?」
がさがさと棚をあさる先生の背中に問い掛ける。彼は手を止めて振り返った。
「そうそう。なんだよ芦口知ってんのか?それ。」
「うん。読んだ事ある。あれですよね?あの、主人公が朝起きたら、巨大な虫になっちゃうってやつ。」
あの本は印象的だった。巨大な虫になってしまった主人公。そんな非現実に言い様のない絶望を覚えたものだ。
「そう。虫になっちゃってさ。あれは絶望的だよな。あり得ない、って分かっててもさ。恐いよな。なんだか。」
「怖い怖い。私、中学の時読んで、かるくへこみましたもん。」
先生が笑う。笑うと目元が柔らかくなるのだ。それが凄く魅力的だと思った。
「この本さ、オチが好きなんだ。最後はハッピーエンド!って訳じゃなくてさ、何も解決してなくて、虫のまんま。っていうのが。」
先生が子供みたいに話す。何だか、可笑しいけれど、彼の言っている事は、私を引き付けた。
何も変わらずに、物語は終わる。虫になった主人公を周りは受け止めて。
虫になったとしても、主人公の存在は変わらない。彼は彼の何者でもない。
私は、どうだろ?もし明日、巨大な虫になっていたら。私の周りの人間は、どんな様に私に接するのだろう。
変わらずに接してくれるのだろうか?それとも………………
全ては机上の空論。
考えても真の答えは出てこない。
その時、先生の熱弁を止める様に予鈴がなった。
慌てて資料を取り出す彼を私は、黙って見つめていた。




