1.花の香り
気軽に読んでくれたら、幸いです。
「先生。」
その言葉にどんな思いが込められているかなんて、彼は知るよしもない。ただ彼は、その言葉に振り返って、誰にでもする様に笑うのだ。
「おー芦口、どうしたんだ?」と。
そしたら私は、一緒に笑う。
心がくすぐられる様な、温かい気持ちと、張り裂けそうな程の切なさを持ち合わせて。それでも、私は一人の生徒として、他愛のない話をするのだ。
「春眠暁を覚えず。」 そんな言葉が似合う、暖かく陽気な日だった。 ぼーとして、じっとしていると自然と瞼が落ちてきて眠ってしまいそうになる。すっ。と暖かい空気を吸い込むと、微かに花の柔らかい匂いがして、私は少し嬉しくなった。
何て心地よい春だろう。 こんな日は、なんだか心穏やかになる。人の心の中の黒い部分や、些細な悩み、悲しみや苦しみ、それらを全て緩和して打ち消してくれる、そんな気がしてならないのだ。。
実際には何も変わってはいないのかもしれない。だけどそんな思いでさえ、ちっぽけなものに思えてくる。
春と言う季節には他にはない力があるのかもしれない。なんて、思ってみたりする。
「おーい、芦口ー。大丈夫か?」
程よい低さを帯びた声が私を呼んだ。
なんて、心地よい声だろう。
「芦口、信号、青だぞ。」
トンっ、肩を叩かれ、私はゆっくりと声の主を振り返った。先生は怪訝な顔をしている。
「どうしたんだ、お前。寝ぼけてんのか?」
先生の問いに、ぶんぶんと首をふる。信号機の前で、ぼーとつっ立っている自分の姿を想像して、苦笑した。端から見れば、私は相当間抜けだったに違いない。
「いや、ちょっと。なんか春だなーと思って。」
私が言うと、先生は考えるように空を見上げてから、ふっと笑った。
「そうだ春だなー。気持ち良い季節だ。それでぼーとしてたって訳だな。」
先生に言い当てられて、誤魔化すように笑う。
チカチカと信号機が点滅し始めた。慌てて横断歩道を渡ろうとすると、しっかりとした大きな手に腕を掴まれた。
「え…………」
『パッパー』車のクラクションの音と共に中型のトラックが私の目の前を通りすぎていった。
青から赤に変わった信号機をぼんやりと眺めながら、トラックに当たって血だらけになる自分を想像した。ヒヤリ。冷汗が出て、血の気が引いていくのが分かった。
「あ……ぶな。」
掴まれている腕に力が入った。
まだはっきりとしない目で先生を見ると、彼は私のすぐ前を走り去ったトラックの方を眺めていた。
「先生?」
「…ん?」
「あの、手……」
先生が、トラックの方から私に視線を移した。
目が合う。
見た事もない様な真剣な目をしていた。私が先生から目を逸らすと彼は少しだけ困った様な顔をして、それから筋張った手を離した。
「危ねーな。お前、気を付けろよ。下手したら死ぬぞ。」
「はい。すんません。分かってます。」
「いや。まぁ、謝らなくていいんだ。ただ……」
先生は言い掛けて口を結んだ。
「どうしたんだ」と私が怪訝に伺うと、彼は目細めて首を左右に振った。
「まぁいいや。最近どうも説教臭くて。自分でも言ってて呆れるんだわ。」
そう言って、先生は
「ははは」と笑った。
その顔はどことなく寂しそうな印象を私に与えた。ただ疲れているだけなのかもしれない。本当の事は私には分からなかった。
「本当に。死んでたかもしれません。もっと落ち着きを持たないと。」
「ああ。そうしろ。それとな、お前、遅刻だぞ。俺もだけど。」
先生が腕時計を見た。 「八時二十分だ。」
「あ………………。」
春は他にはない力がある。それは、どうも私の勘違いだったのかもしれない。私が溜め息を吐いたら、先生が悪戯っぽく微笑んだ。さっきの寂しいさは伺えない。
まぁ、いいか。
たまには遅刻も良いかもしれない。
なんて思う自分がいて、これは重症だと苦笑した。




