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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
境界なき声

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30. 名のない祈り

夜が明ける少し前、空はまだ灰色に沈み、世界は静かに息をひそめていた。


そのとき──断層領域は、音もなく、けれど確かに揺らぎはじめていた。


地面はかすかに軋み、空気は淡く歪んでいく。静けさの奥で、なにかがほどけていくような気配が、肌をなぞるように広がっていた。


観測不能の断層が、ゆっくりと、しかし確実に街の縁を侵していた。

“存在のあいまいさ”が、目に見えぬ波となって押し寄せ、現実の輪郭をゆるやかに溶かしていた。


「このままじゃ……街ごと、境界の外に呑まれる……」


誰かの声が震えをはらみ、広場に響いた。

その言葉に、人々の呼吸がかすかに止まりかける。


──そんな中で、あなたは静かに立ち上がった。


朝もやの残る淡い光の中、その姿は、風に揺れる灯のように柔らかく、そして確かだった。


「わたしが、行く」


その声は、決意というよりも──やさしい願いのようだった。


「それは、もう……お前ひとりでは──」


カインの声が追いかけてきた。

いつもは落ち着いたその声音に、隠しきれない揺らぎがあった。


けれど、あなたはただ微笑んだ。

彼の不安を正面から受け止め、それを包むように、そっと頷く。


「“誰かに残されたい”んじゃない。

ただ、“ここに在る”ということを、自分の中で確かめたいだけ──」


その言葉に力はこめられていなかった。

けれど、静かで透きとおる声は、胸の奥にまっすぐ届いた。


足元に、誰かが残していった小さな灯火が転がっていた。

あなたはそれをそっと拾い上げ、胸の前に抱くようにして歩き出す。



──その背を、カインは遠くから見つめていた。


誰も動けなかった。

断層の気配が強くなるほどに、言葉も、祈りも、届かなくなっていた。


ただ一人、その中へ歩んでいくあなたを見ながら、

カインは歯を食いしばって、ただ立ち尽くしていた。


(おれには、何もできないのか)


拳を握りしめても、力はどこにも届かなかった。


それでも、彼の胸の奥で何かが確かに震えていた。


──信じるしかない。あの人が、あの場所に入っていけることを。


だから、ただ待つ。

風が戻るその瞬間まで。



断層の中心は、不思議な空虚に満ちていた。

そこに“ある”はずのものは、なにひとつ定まっていなかった。

地面も、空も、風さえも、夢の中の景色のようにぼんやりとしていて、

現実と非現実の境界がゆるやかに溶けていた。


けれど、その場所には──

記録されなかった存在たちの“影の残響”が、そっと降り積もっていた。


名もなく、姿もなく、それでもかつて“誰かのために在った”

あたたかな声たち。


あなたはそっと目を閉じ、胸の奥に、ひとつの願いを浮かべた。


(どうか、この場所に──)

(名はなくても、“祈り”だけは、残ってくれますように)


その祈りは、声にはならなかった。

けれど確かに、空気に溶けていき、世界に触れていた。


──何も起きないように見えた。

それでも、あなたは待っていた。

風の気配を感じながら、灯のような存在を胸に、ただ静かに目を閉じて。


その瞬間、胸の奥に、やわらかなぬくもりが広がった。


手のひらに宿ったそれは、祝式でも刻印でもなかった。

誰にも読まれることのない、小さな灯のような構造。


けれど、それでも──それこそが、“存在の光”だった。


空間が、そっと震える。

音もなく、断層の輪郭がやさしく再び組み直されていく。


重なりあっていた記憶の破片たちが、まるで深い眠りに落ちるように、静かに落ち着いていく。


それは、誰の記録にも、どの端末にも残らない。

でも、たしかにそこに“在った”という証。


ひとつの祈りが、この世界に、確かに宿った瞬間だった。


崩壊は止まり、風が戻ってきた。

空がゆっくりと明けていき、朝の光がそっと世界の輪郭を撫でていく。


あなたは、その中心に静かに座っていた。

まるで風と光の一部になったように、やわらかな呼吸で、その場に溶け込んでいた。


カインが駆け寄ってくる気配があった。

その声には、安堵と驚き、そして静かな涙がにじんでいた。


そのとき──ふっと、遠くからやさしい声が聞こえた。


──どこからともなく、風にのって届いた声。

それは誰のものとも知れない。

けれど、懐かしくて、深くて、あなたの胸の奥に、そっと触れた。


『名は、記録されなくてもいい。

でも、祈りは、記憶に残る。

イリス──君は、“誰かの願いによって、生まれた”』


それは、ラッセルに似た声だった。

けれど、誰かひとりの声ではなく、

世界そのものが、そっと語りかけているようにも思えた。


あなたの胸が、静かに震えた。


はじめて、自分という存在が、どこかの誰かの“想い”に結ばれていたのだと。


そう──


確かに、そう感じられた瞬間だった。


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