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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
フュルナの境界

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10. 映らぬ星の夜

夜は、ひどく静かだった。


人々の気配も、塔の鐘も、すでに遠ざかり、名残だけが空気の底に沈んでいた。

それは消えていくというよりも、もとより存在しなかったかのように、静かに、滲んでいた。


街の外れ。草は夜露を吸い、石段の先は夜の呼吸に溶けていた。

街灯の光は届かず、その片隅には、まだ名前の与えられていない静寂が、淡く息をしていた。


「お仕事に戻らないといけないから、ごめんね」

リンカはそう言い残し、夕闇へと姿を沈めた。


ほんの短い時間の出会いだった。

けれど、耳の奥にはまだ、彼女の声の余韻がかすかに揺れていた。


温もりがそっと引いていったあと、

胸の内には、静かな空洞だけが、残されていた。


足音のない夜は、ひどく広く、そして異様に静かだった。

石壁にもたれたまま、あなたは自分の手の温度を確かめた。


そこにはもう、リンカの体温も、パンのぬくもりもなかった。


見上げた空には、星が淡くまたたいていた。

その光の粒は、どこか観測塔の灯に似ていた。

けれど、塔の光があなたを照らすことはなかった。

星たちはただそこにあり、記録も測定もされることなく、夜の中に浮かび続けていた。


──「観測不能。祝式記録なし。登録不可」


その言葉だけが、胸の奥で、鈍く、幾度となく反響していた。


あなたは、誰でもなかった。

誰かになることも、誰かに成り代わることもできなかった。


名前を与えられても、微笑みを交わしても。

それは、“記録”にはならなかった。


目を閉じると、ミレナの顔が浮かぶ。

あの日、儀礼台で──冷たい石に触れたとき、

隣にいたミレナは、あなたの手を、言葉の代わりのように、そっと包んでくれていた。


「記録されなかった」と告げられても、

彼女は言葉を返さず、ただ微笑みだけを残した。


“記録されなくても、あなたはあなた”


きっと、ミレナはそう伝えたかったのだ。


けれど、世界は違っていた。

観測されなければ、存在しない。

祝式がなければ、名乗ることも、証を持つこともできない。


──あなたには、祝式炉さえ、ないのかもしれない。


星の光が、地面にこぼれていた。

けれど、そこに、あなたの影はなかった。


光と闇のあわいに溶けていく痕跡のように、

空と地の境を失いながら、ひとしずくの存在が、そっと夜に滲んでいく。


街の灯りの残響すら届かぬ場所で、

時間だけが、静かにあなたの輪郭を削っていった。


──何かが、夜の沈黙に抗っていた。


寒さも空腹も、意識の底へと沈んでいく。

それは眠気のようでいて、しかし眠るには、何かが重すぎた。


──そのときだった。


乾いた石を踏む、足音。

夜風とは異なる、確かな質量を持つ音だった。


あなたは、思わず身を縮めた。

けれど、その足音は遠ざからず、すぐ目の前で止まった。


「……お前、こんなところで何してる」


声は低かったが、冷たくはなかった。

その響きには、言葉の外にある微かな温度が宿っていた。


ゆっくりと、あなたは顔を上げる。

星の光の下に、ひとりの青年が立っていた。


背には剣。黒い外套。

肩口の刺繍が、風に揺れて、ほのかに光っていた。

それは、観測官の装いによく似ていた。


けれど、あなたには答えられなかった。

名前も、理由も、もう言葉にはならなかった。


青年はしばらく黙ってあなたを見ていたが、

やがてふと視線を逸らし、ぽつりとつぶやいた。


「……泣いてないのか」


それは、あなた自身も気づいていなかったことだった。


「何もないって顔してるけど、目はちゃんと生きてる」


その声には、深く静かな重みがあった。

それは、何もなかった時を知る者の声だった。


あなたは、ほんのわずかに、うなずいた。


──それが、カインとの最初の会話だった。


そしてその夜、あなたははじめて思った。

映らない光も──きっとどこかに、届いているのだと。

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