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無縁仏に花を  作者: 八雲 海
第一集 無縁仏に花を

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第一話「線香の煙」

夕暮れが新宿の路地を朱く染める頃、堂島剛道は本堂の雑巾がけをしていた。


 古い板張りの廊下は、いくら拭いても黒ずみが取れない。それでも毎日拭く。やることがあるうちは、余計なことを考えずに済む。


 門の外に人影があることに気づいたのは、日が完全に落ちてからだった。



 老婆だった。七十は超えているだろう。小さな体で、大きな風呂敷包みを胸に抱えている。門柱にもたれたまま動かない。行き倒れかと思って近づくと、目は開いていた。ただどこも見ていなかった。


「どうしました」


 声をかけると、老婆はゆっくり顔を上げた。皺の深い顔に、泣いた跡はない。もう泣き尽くしたような目をしていた。


「ここ、お寺ですよね」


「そうです」


「骨を、納めてもらえますか」


 風呂敷の中に骨壺があった。



 堂島は老婆を庫裏に上げ、茶を出した。老婆は骨壺を膝の上に置いたまま、茶に手をつけなかった。


「息子さんですか」


 老婆が小さく頷く。


「歌舞伎町でホストをしていました。三週間前に死にました」


「葬儀は」


「できませんでした。お金がなくて」


 堂島は何も言わなかった。余計な言葉は要らない場面というものがある。


「墓も、ないんです。私が死んだら、この子はどこへ行くんだろうと思って」


 老婆の手が骨壺をそっと撫でた。


「ここに置いてもらえれば、それでいいんです。お金は、少しずつ払います」


「いくら持ってますか」


 老婆が顔を上げた。値踏みされると思ったのかもしれない。


「今日は三千円しか」


「それで結構です」



 その夜、堂島は骨壺を本堂の隅に安置した。


 老婆は泊まっていくよう勧めても首を振った。「近くに住んでいますから」と言って立ち上がった。


 帰り際、老婆がぽつりと言った。


「息子とは、十年以上口をきいていませんでした。高校を出てすぐ家を飛び出して、それきり。勘当したのは私のほうです」


 堂島は黙って聞いた。


「死んだと聞いたとき、足が動かなくて。許しに行くつもりだったのに、とうとう行けなかった」


 夜風が境内の木を揺らした。


「あの子を、許せますか。私は」


 老婆が堂島を見た。答えを求めているというより、ただ声に出したかったように見えた。


 堂島は少し間を置いてから言った。


「許すのはあんたが決めることだ。俺はただ、手を合わせるだけだ」


 老婆は何も言わなかった。ただ深く、深く頭を下げた。


 空の風呂敷を抱えて、老婆は夜の路地に消えていった。



 堂島は本堂に戻り、骨壺の前に線香を立てた。


 名前も知らない。どんな顔をしていたかも知らない。それでも手を合わせる。


 煙が細く、真っ直ぐ上がっていった。


 風のない夜だった。


第一話 了

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