第一話「線香の煙」
夕暮れが新宿の路地を朱く染める頃、堂島剛道は本堂の雑巾がけをしていた。
古い板張りの廊下は、いくら拭いても黒ずみが取れない。それでも毎日拭く。やることがあるうちは、余計なことを考えずに済む。
門の外に人影があることに気づいたのは、日が完全に落ちてからだった。
◆
老婆だった。七十は超えているだろう。小さな体で、大きな風呂敷包みを胸に抱えている。門柱にもたれたまま動かない。行き倒れかと思って近づくと、目は開いていた。ただどこも見ていなかった。
「どうしました」
声をかけると、老婆はゆっくり顔を上げた。皺の深い顔に、泣いた跡はない。もう泣き尽くしたような目をしていた。
「ここ、お寺ですよね」
「そうです」
「骨を、納めてもらえますか」
風呂敷の中に骨壺があった。
◆
堂島は老婆を庫裏に上げ、茶を出した。老婆は骨壺を膝の上に置いたまま、茶に手をつけなかった。
「息子さんですか」
老婆が小さく頷く。
「歌舞伎町でホストをしていました。三週間前に死にました」
「葬儀は」
「できませんでした。お金がなくて」
堂島は何も言わなかった。余計な言葉は要らない場面というものがある。
「墓も、ないんです。私が死んだら、この子はどこへ行くんだろうと思って」
老婆の手が骨壺をそっと撫でた。
「ここに置いてもらえれば、それでいいんです。お金は、少しずつ払います」
「いくら持ってますか」
老婆が顔を上げた。値踏みされると思ったのかもしれない。
「今日は三千円しか」
「それで結構です」
◆
その夜、堂島は骨壺を本堂の隅に安置した。
老婆は泊まっていくよう勧めても首を振った。「近くに住んでいますから」と言って立ち上がった。
帰り際、老婆がぽつりと言った。
「息子とは、十年以上口をきいていませんでした。高校を出てすぐ家を飛び出して、それきり。勘当したのは私のほうです」
堂島は黙って聞いた。
「死んだと聞いたとき、足が動かなくて。許しに行くつもりだったのに、とうとう行けなかった」
夜風が境内の木を揺らした。
「あの子を、許せますか。私は」
老婆が堂島を見た。答えを求めているというより、ただ声に出したかったように見えた。
堂島は少し間を置いてから言った。
「許すのはあんたが決めることだ。俺はただ、手を合わせるだけだ」
老婆は何も言わなかった。ただ深く、深く頭を下げた。
空の風呂敷を抱えて、老婆は夜の路地に消えていった。
◆
堂島は本堂に戻り、骨壺の前に線香を立てた。
名前も知らない。どんな顔をしていたかも知らない。それでも手を合わせる。
煙が細く、真っ直ぐ上がっていった。
風のない夜だった。
第一話 了




