第12話 図書館での調べ物
勇雄達は、夕食の時間までに戻れない可能性を考え、講義室を出た足でまずは食堂へと向かった。
夕食にはまだ早い時間帯だったため、広い室内では数人の職員が静かに夜の仕込みをしている最中だった。勇雄が「先に夕食をすませたい」と告げると、職員は快く数枚のパンと干し肉、それに冷たい飲み物を用意してくれた。それらを受け取り、目的地である図書館へと移動した。
図書館は、施設の東側にひっそりと位置していた。
重い木製の扉を押し開けると、特有の古い紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。現地の街にある伝統的な図書館をそのまま再現した造りなのだと、事前に職員から聞いていた。天井まで届く大きな本棚が整然と並び、大きな窓からは傾きかけた午後の柔らかな光が差し込んでいる。室内には、勇雄とミカの他には誰もいなかった。
勇雄はさっそく、並んだ本棚の背表紙を確認していった。
分類を記した見出しはすべて異世界の文字で書かれていたが、不思議と自然に頭の中に意味が飛び込んでくる。歴史、地理、術式、医療、生物、民俗。そして一番端の薄暗い場所に、哲学の棚を見つけた。
ミカが勇雄を見ながら小さく手を挙げた。
「武藤くん、探し物手伝いますよ。どうしたらいいですか?」
「すまない。早速だが『記憶』の分野に関する本を探すのを手伝ってくれ」勇雄は周囲に響かないよう静かに言った。
「分かりました。手分けして探してみますね」
ミカは小さく頷くと、すぐに棚へと向かった。細い指先で本の背表紙をなぞりながら、真剣な眼差しで順番に文字を追いかけていく。
……彼女は今、ごく普通に異世界の文字を読んでいる。
ミカも、自分と同じようにこの世界の言語を完全に理解できているようだった。勇雄は手を止め、ミカに近づいた。
「その文字が読めるんだな」
「……あ、はい。なんでだろうって自分でも不思議なんですけど」ミカは一冊の本に触れたまま、少しだけ首を傾げた。「なぜか、最初から意味がちゃんと頭に浮かんでくるんですよね。……そう言えば、武藤くんも普通に読めていますよね?」
「俺の場合は、あの白い鳥……神が俺の脳を調節して、読めるようにしたと言っていた」
「脳を調節……ですか?」
ミカはさらに首を傾げ、怪訝そうな表情を浮かべた。
「ああ。具体的にどういう仕組みなのかは、俺にも分からないが」
「……」
ミカは天井を見上げるようにして、しばらく何かを深く考え込んでいた。何かを言いかけようとして唇をわずかに動かしたが、結局はそれを飲み込み、それ以上の追及はしなかった。
♢
勇雄とミカは気を取り直し、手分けして調査を開始した。
哲学の棚、民俗の棚、そして医療の棚を、一冊ずつ丁寧に当たっていく。
静寂の中で時間だけが静かに流れていき、窓から差し込む光の角度が少しずつ長くなっていった。
やがて、目的の毛色に近い本が数冊見つかった。記憶について書かれた古い文献や、記憶と魂の相互関係について独自の考察がなされた専門書だ。
それらを中央の大きなテーブルに積み上げ、勇雄はページをめくり始めた。
その中の一冊に、気になる記述があった。ただ記憶に関することではなく、魂についてだった。
勇雄は息を潜め、その一節をじっくりと読み進めた。
それは、過去に実在したという「一つの魂が二つに分裂した事例」に関する古い記録だった。何らかの干渉によって、本来一つであるはずの魂が二つに割れてしまう現象。引き裂かれた魂はそれぞれ別の肉体へと宿り、完全に独立した別の人間として、まったく異なる人生を歩み始めるのだという。
仮にどちらか一方が命を落としたとしても、それだけで魂が自然に元に戻るわけではない。
しかし、特定の条件が揃った時、二つの魂は再び融合し、一つへと戻ることがある。その際、二つの人格がそのまま混ざり合うのではなく、どちらか一方の人格だけが表面に残り、選ばれなかった方の魂と記憶は、意識の最深部へと深く眠りについてしまうと言われている。どちらが表に残るかは、より「強い魂」を持った側が優先される、と文献には記載されていた。
勇雄は、その文章を何度も繰り返し読み返した。
胸の奥で、確固たる違和感がひたひたと波打つ。
まだこれだけで明確な結論を出すには早すぎる。しかし、バラバラだったパズルのピースが、頭の中で静かに繋がりかけているのを感じていた。
「……一つ、質問してもいいか」
勇雄は本から視線を上げないまま、低い声で切り出した。ミカは近くの医療の棚の本を見ていた。
「はい、何ですか?」
「『望月美香』という名前に、何か心当たりはないか」
ミカは手を止め、口に手を当てた。少しの間の後に答えた。
「武藤くんが私と勘違いした人ですよね?」
「そうだ」
「……いえ、わからないです。聞いたこともない名前です。その人って、どんな人なんですか?」
「実はここへ転移してくる前、元の世界で出会った女子生徒だ。入学式の時、俺のすぐ隣の席に座っていた。その後の写真撮影が終わった後、廊下で突然姿を消したんだ」勇雄は淡々と事実を重ねた。「直後に神が現れて、俺に『あの少女を助けたいか』と聞いてきた。だから俺は『助けたい』と答えて、この世界へ来ることを選んだ」
勇雄は静かに本を閉じた。そして、まっすぐに彼女を見つめる。
「その望月美香という子が、お前と瓜二つだったんだ。」
ミカは言葉を失い、静まり返った。何かを頭の中で整理するように、じっと考え込んでいる。
「……その人のために、わざわざこんな危険な場所へ来た、ということですか?」
「そうだ」
ミカはそっと自分の口元に手を当て、驚きを隠せない様子で呟いた。
「古賀くんにはそんな話、一言もしていなかったのに」ミカは不思議そうに目を揺らした。「どうして、私にはそんな大切なことを話してくれるんですか?」
勇雄は少し考えてから答えた。
「説明はできない。ただ、君になら話しても構わないと思った。」
「入学式から写真撮影の間って……知り合ってから、たったの数分間ですよね? その人のために、自分の人生を左右するような大事な決断を下すなんて」ミカは呆れたような、でもどこか感心したような複雑な声を漏らした。「……私には真似できません」
「分かっている」
「分かっていて、どうしてそんなことができたんですか?」
「その理由が自分でも分からないから、知りたいと思っている」
ミカは勇雄の顔をじっと見つめた。
それから、ふっと小さく笑った。少しだけ呆れたニュアンスを残した、優しい笑みだった。
「武藤くんって、本当に変わっていますね」
「よく言われる」
「……私は、そういうところ、嫌いじゃないですけど」
♢
しばらくの間、心地のよい沈黙が部屋を満たした。カサリ、と本のページがめくられる微かな音だけが、等間隔で響く。
勇雄は積まれた山から別の本を引き抜き、新たなページを開いた。近くでパタンと音がした。ミカが本を閉じたようだ。腕を伸ばしリラックスしていた。
勇雄は意を決して話かけた。
「少しいいか」
「はい、何でしょう?」
「俺は、君の過去について知りたいと思っている」
ミカがハッとしたように顔を上げた。
「その代わりに、まずは俺の過去の話をしよう」
「……本当に、いいんですか?」
「情報の交換だ」
勇雄は本に視線を落としたまま、抑揚のない声で語り始めた。
「俺は、昔から出来が悪かったんだ」
自分の過去を、まるで他人の歴史であるかのように淡々と告げる。
「勉強も運動も、何をやらせても人より遅かった。物覚えが悪くて、他人の何倍もの時間をかけて同じ事を繰り返さなければ追いつけなかった」
次のページをめくる。
「俺がまだ幼い頃に、母親が家を出ていった。世間一般でいう離婚だ。詳しい理由は教えられていない。ただ、彼女がいなくなる前に、『出来損ない』と言われたような記憶がある」
「……武藤くん」
「ただの事実だから、同情する必要はない。気にするな」
「……ごめんなさい」
ミカは痛ましそうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わずに静かに耳を傾けた。
「そんな俺にも、一人だけ親友と呼べる奴がいた。小学生の時に知り合った。そいつは俺とは真逆で、何でも最初から完璧にこなせる天才肌だった。それでも、そいつは俺のことをバカにせず、いつも対等な友人として扱ってくれたんだ」
勇雄は、かつての記憶を反芻するように少しだけ間を置いた。
「高校は別々の場所に進んだ。離れる前に、そいつから何度か尋ねられたことがある。『お前はなぜ、そこまでボロボロになりながら努力を続けられるんだ』と。その時は答えられなかった。……実は、今でも正確な理由は分からないままだ」
「……本当に、努力をしてきたんですね」
「俺にとっては、ただ単に『回数が足りないだけ』だと思っていた。才能がないのなら、回数でその溝を埋めればいい。ただそれだけの、単純な繰り返しだ」
ミカは、じっと勇雄の横顔を見つめ続けていた。
「だから」ミカは消え入りそうな小さな声で言った。「その、望月さんという人のためにも、迷わずに大きな決断ができたんですね」
勇雄の手が、ピタリと止まった。
「……自分では、そういう風には捉えていなかった」
「でも、私はそう思います。あなたのその真っ直ぐな強さが、その人を救うための力になったんですよ、きっと」
勇雄はそれには答えず、ただ黙って本に目を戻した。彼女の指摘は、勇雄自身の思考の範疇を完全に超えていた。自分がこれまでの人生で「欠落」を埋めるために必死に培ってきた執着心が、巡り巡って他者を救い出すための莫大なエネルギーへと変換されたという解釈。それは、奇妙な納得感を伴って勇雄の胸に突き刺さった。
ただ勇雄自身もここまで話すつもりはなかった。まだミカに会ってから数時間……何故ここまで自分をそうさせているか、わからなかった。
ミカは静かに、膝の上で自らの両手を重ね合わせた。
「……約束通り、私の話もしますね」と、彼女はぽつりと言った。
「聞こう」
「と言っても、私の家は両親ともにすごく仲が良くて、本当にごく普通の家庭で育ったんです」ミカは遠い目をして語り始めた。「ただ……とにかく、お金がなかった。ずっと、ずっと貧しかったんです。だから、私は高校へ進学することができませんでした。とても、そんな経済的な余裕がある状況じゃなかったんです」
窓から入る夕陽の光がミカを照らしていた。
「そうか……話してくれてすまない。」
「いえ、武藤くんの話に比べたら全然です」
「……それで、高校には、行っていないのか」
「ええ、行っていません。だから、この施設の生活が、まるで憧れていた高校生活を送っているみたいで、実は少しだけ楽しんでいるんです」ミカは自嘲気味に微笑みながら、さらに声を潜めて言った。「こんな大変な状況ですから、不謹慎だって怒られちゃうかもね。他のみんなには、絶対に秘密にしてくださいね」
「あいにく、俺には言い触らすような友人は一人もいないが」
「あ、確かにそうでしたね」
ミカは楽しそうに声を抑えて笑い、勇雄もまた、その言葉に口元をわずかに緩めた。
ミカは高校に通っていない。しかし、自分が最初に出会った望月さんは、確かに入学式の場にいた。この決定的な事実の相違は、ミカと望月美香がまったく異なる背景を持つ、別の人物である可能性を示していた……。
♢
その後も、勇雄たちは黙々と本を読み進めた。
室内の光はさらに赤みを帯び、床に伸びる影が長く引き伸ばされていく。気づけば、数時間が経過していた。多種多様な書物に目を通したが、先ほどの「魂が二つに分裂した事例」の記述以外には、目新しい有益な情報は得られなかった。
勇雄は、これまでに得た不確実な内容を頭の中で整理した。
二つに引き裂かれた魂。そして、望月美香とミカの二人は、外見が瓜二つであるという事実。
現段階では、何の確証もない。
しかし、脳内に一つの明確な仮説が立ち上がっていた。望月美香とミカは、本来は同一だった一つの魂が二つに分かれた存在なのではないか。そして、何らかの条件によって、二つの魂が再び一つに統合された。その結果、現在はミカの人格が表面に現れ、望月さんの人格と記憶は、彼女の意識の奥底で深く眠らされている状態にあるのではないか、と。もちろん、偶然容姿が似ているだけという可能性もある。
ただ、今の自分にはそれを証明する術が何一つ存在しない。
現時点での推論はここまでが限界だった。しかし、勇雄はこの仮説を決して棄てず、胸の奥に深く留めておくことに決めた。
ふと、向かいに座るミカの様子を伺った。
彼女の手元には、中級から上級レベルの高度な魔法教本や、複雑な医学の専門書が山のように積み上がっていた。今はどうやら、神の教義が記された経典のようなものを読んでいるらしい。その眼差しは、周囲の音が聞こえなくなるほど真剣そのものだった。
彼女が何をそこまで調べているのか、内容が少し気になったが、プライバシーを尊重してあえて尋ねることはしなかった。
何気なく彼女の手元にあるノートに目をやると、そこには日本語ではなく、異世界語の羅列でメモが取られていた。この世界の術式や医学を学ぶ上で、日本語に翻訳する過程での解釈のズレをなくすためだろう。彼女のそのやり方は、驚くほど合理的で無駄がなかった。
♢
施設内に夜の放送が流れ込んできた。
施設の職員によるたどたどしい日本語のアナウンスだった。
『……あと一時間で、館内は消灯時間になります。転移者の皆様は、速やかにご自身の部屋にお戻りください』
それを聞き、同時に立ち上がった。
広げた本を、一冊ずつ元の正しい棚へと戻していく。
今日はここが限界のようだ。図書館は広くまだ、見ていない本や文献があるので明日も来る必要がありそうだ。
静まり返った図書館を出る直前、扉の手前でミカが不意に足を止め、声をかけてきた。
「武藤くん。……あの、白い鳥の姿をしたもの、今も見えていますか?」
勇雄はミカの目をじっと見つめた。
「ああ、見えている。……君にもあの姿が見えるのか?」
「はい、はっきりと見えています。……一体何者なんですか、あれは」
勇雄は少しの間、どこまで開示していいものか思考を巡らせた。
「あの鳥は、自分を神の一柱であり、名は『ツル』だと名乗っている」
「神様……」
「本当に信用に値するかどうかは、俺にもまだ判断がつかない。ただ、超常的な能力を持っていることだけは確かだ。さっき話した言語の調節もそのツルが行ったことだし、何より、昼食を取る直前まで俺の体に憑依していた」
「憑依……」ミカは驚いたようにその大きな目を丸くした。「それで、その神様は、今はどこに?」
「俺の身体からはすでに出ていった。ただ、同行すると言っていたんだが……」
「でも、今は近くにいないですよね」
「……そうだな」
勇雄は開けた扉の隙間から、薄暗い廊下を見渡した。しかし、あの不格好なアヒルの気配は感じられない。
講義室を出たあの瞬間から、ツルの姿を見ていない。彼女はあの時、古賀理人の去りゆく後ろ姿をじっと見つめていた。その後何をしているか全くわからない。
「どこへ行ってしまったんでしょうね」
「分からない」
分からない、と言葉にしながら、勇雄はその事実に対して言い知れぬ引っかかりを覚えていた。
ひっそりと静まり返った廊下は、まるで生物の息遣いが途絶えたかのように冷ややかだった。
この広大な施設のどこかで、何かが不穏にうごめいているような、そんな嫌な予感が皮膚をかすめていく。根拠は何もなかった。
勇雄は思考を振り払い、静かに歩みを進めた。
ミカがそのすぐ隣に、当然のようにピタリと並ぶ。
ミカは本当に別人なのか。それとも━━。勇雄は胸の奥に浮かんだ仮説を押し込め、暗い廊下を歩き続けた。
第12話を読んで頂きありがとうございます。
図書館の場面、雰囲気は伝わりましたか。勇雄が過去を話す場面、感情を表に出さない人がそれでも話すことを表現しました。
勇雄とミカ、2人の距離が少し近づきました。この2人の関係は私の物語のテーマの一つです。
次話は夜の密会です。ツルとあの神との対話です。お楽しみ下さい。




