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宝神の勇者 I  作者: 三竦 慎太郎
序章 
1/10

第1話  入学式の前の違和感

 目が覚めたのは、アラームより三分早かった。

 武藤 勇雄(むとう いさお)は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。特に理由があったわけではない。ただ、起き上がる必要をまだ感じなかった。

 窓の外から光が入ってきている。カーテンの端が白く滲んでいた。

 アラームが鳴る前に止めた。


 ♢


 洗面台の鏡に映った自分の顔を確認した。黒髪の短髪、顔立ちは悪くないが、小柄な体格が全体のバランスを損ねていた。本人はひどく気にしているが、こればかりはどうしようもない。

 体つきは三年間中学時代に剣道をしていたので、ある程度引き締まっている。だが、才能がない。地区大会ですら勝ち星を挙げられないまま、中学生活は終わった。

 勇雄はリビングへ向かった。

 父がテレビの前に座っていた。スーツ姿で、コーヒーを飲んでいる。画面にはニュースが流れていた。


「おはよう」


 父が言った。

 勇雄は軽く頷いた。


 テレビのアナウンサーが話している。

 ━━本日の東京は朝から快晴。最高気温は二十一度の見込みです。スカイツリーも青空の下、くっきりとその姿を見せています━━


 勇雄はソファの横を通り、テーブルの前に立った。

 そこにケーキがあった。

 白い箱が開いた状態で置かれていて、中にフルーツケーキが収まっている。イチゴ、ブドウ、ミカン。色は鮮やかだった。


「お母さんから…」と父が言った。「入学祝いだってさ。昨日届いた」


 勇雄はケーキを見た。母の顔を思い浮かべたが遠い過去…胃が痛むような嫌な感じがして考えをやめた。


「……そうか」

「食べないのか」

「後で」


 椅子を引いて座ったが、手はつけなかった。食欲がなかった。

 正確には━━食べたくない理由が見当たらないのに、食べようという気が起きなかった。

 おかしい、とは思わなかった。ただ、事実として胃が何も要求していなかった。


 父がテレビに目を戻した。画面の中で気象予報士が晴れマークを指している。


 ♢


 制服に着替えながら、勇雄は考えた。

 今日から高校が始まる。東京の公立高校、東和高校。それ自体は問題ではない。環境が変わることも、想定の範囲内だ。

 問題は、親友の塩野 或人(しおの あると)がいないことだった。


 小学校から付き合いである。きっかけははっきり覚えていないが…確か困っているのを助けてくれたのを覚えている。

 或人はスポーツ、勉強、芸術、何でも出来た。そんな彼は努力しても出来ない勇雄に興味を持ったのか、理由はわからないがよく一緒に遊び仲良くなった。

 中学校に入ってからも仲が良く、剣道部に一緒に入部しお互いに切磋琢磨した。或人は剣道の才能もあって中学三年の時には、全国大会にも出た。手の届かない存在……。

 彼とは別々の高校になった。

 勇雄は特に何も言わなかったし、或人も「しょうがないな」と笑っていた。正しい反応だと勇雄も思う。感傷的になる意味はない。


 意味はない。


 分かっている。

 鞄を持って部屋を出た。


 ♢


 玄関で父が言った。


「ケーキは夜食べるか」

「分からない」


 父は少し間を置いた。


「……緊張してるのか」

「してない」


 勇雄は靴を履いた。緊張、という言葉が正確かどうか考えた。違う。緊張ではない。

 もっと輪郭のぼやけた何かだ。自分でも説明できない。不快、とも言い切れない。ただ、何かがずれているような感覚が朝から続いていた。


 昨日からか。それより前からか。

 分からない。


「行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 ドアを開けると、光が入ってきた。


 快晴だった。空は澄んでいて、遠くに薄くスカイツリーの輪郭が見えた。穏やかな春の朝だ。何も問題のない、普通の景色。


 勇雄はしばらくそれを見た。


 問題はない。何も問題はない。

 それでも、足を踏み出すとき、胸の中に説明のつかない何かが残った。朝から続いている、あの感覚。


 ケーキには手をつけなかった。


 勇雄は歩き始めた。


 ♢♢


 横断歩道の手前で、信号が赤に変わった。

 勇雄は立ち止まり、対岸を確認した。特に急ぐ理由もない。時間には余裕がある。

 隣に人が来た。

 老人だった。小柄で、背がひどく丸く曲がっている。杖を両手で握り、信号を見上げていた。見上げる、というより━━画面全体を確認しているような視線だった。横断歩道を、道路を、それから空を。

 まるで初めて見るような目つきで。


 信号が青に変わった。

 老人は動かなかった。

 勇雄は一秒待った。二秒待った。老人の足が、わずかに前に出て、止まった。


「一緒に渡りましょうか?」


 勇雄が言った。老人が顔を上げた。

 皺の深い顔だった。目だけが妙に静かで、年齢に見合わない落ち着きがあった。


「ああ」と老人は言った。「頼めるかの」


 勇雄は老人の隣に並び、ゆっくりと歩き始めた。老人の歩幅に合わせた。合理的な判断だ。急かしても意味がない。


 渡り切る直前、老人が口を開いた。


「入学式かの」

「そうです」

「緊張しとるか」

「してないです」


 老人は小さく笑った。声ではなく、顔で笑う笑い方だった。


「そうか」


 歩道に上がった。勇雄は老人から離れようとした。


「選ばれるのは大変じゃ」


 老人が言った。

 勇雄は足を止めた。振り返る。


「だが、選ぶのはもっと大変じゃ」


 老人はすでに前を向いたまま、杖をつき直した。こちらを見ていなかった。独り言のような口調で、……確かに勇雄へ向けて言っていた。


「……何の話です」

「さあの」老人は薄く笑った。「年寄りのたわごとじゃ」


 勇雄はその顔を見た。その表情からは何もわからなかった……。


「行きなさい」と老人は言った。「遅刻するぞ」


 勇雄は一拍置いて、歩き始めた。


 ♢


 桜並木に入った。


 通学路の両側に並ぶ桜は、今がちょうど満開だった。薄紅の花びらが枝を埋め、風が吹くたびに少しずつ空へ散っていく。地面には昨日落ちた分が積もり、白と薄紅の境目が曖昧になっていた。


 勇雄は歩きながらそれを見た。


 “きれい“だとは思わなかった。正確には“きれい“という判断が出る前に、別の感覚が先に来た。


 今年もこれを見るのか、という感覚ではなかった。

 もう見ないかもしれない、という感覚に近かった。


 おかしい。


 来年もここを通るはずだ。根拠のない感傷だ。無意味だ。

 分かっている。それでも足が少し遅くなった。

 花びらが一枚、肩に落ちた。払わなかった。


 “風が止んだ“


 静かになった、と思った瞬間


 “空の色“が変わった。


 さっきまで青かった空が、気づけば白く塞がれていた。雲が出たのではない。光の質が変わっていた。柔らかく、均質で、奥行きのない白さだった。


 “最初の雨粒“が、頬に落ちた。


 勇雄は立ち止まった。

 雨だ。予報は晴れだった。スカイツリーが見えるほど澄んでいた空が、いつの間にか消えていた。いつ変わった。どの時点で。横断歩道の前にはまだ晴れていた。桜並木に入ってから? 老人と話していた間?


 雨脚が強くなった。

 桜の花びらが濡れて、重くなって、地面に貼りついていく。さっきまで宙を舞っていたものが、動かなくなっていた。

 勇雄は濡れながら、しばらくそこに立っていた。


 違和感があった。雨が降ったことではない。もっと根本的な何かだ。世界の手触りが、少し変わった気がした。空気の密度か。音の反響か。うまく言語化できない。

 ただ、さっきまでと同じ場所に立っているのに、同じ場所ではないような感覚だった。


 老人の言葉が、頭の中で反響した。

 選ばれるのは大変じゃ。だが、選ぶのはもっと大変じゃ。


 勇雄は来た道を振り返った。


 老人はいなかった。


 横断歩道まで視線が届く距離だ。どこにも姿がない。曲がれる路地もない。

 消えた。

 という表現しか出てこなかったが、その表現を採用することを勇雄は一度拒んだ。

 見落としだ。見ていなかっただけだ。


 もう一度確認した。


 “いない“


 雨が降り続けていた。桜はすでに半分、花びらを落としていた。


 勇雄は前を向いて、歩き始めた。

 この違和感は、分からなかった。

第1話を読んで頂きありがとうございます。

第1話は主人公は高校入学という環境変化がありますが、それとは違う“違和感“を全面に出しています。異世界転移の物語なのにまだ何も起きていなくてすみません。ただ、ストーリー上必要な内容です。

一言:フルーツケーキはこの物語のテーマであり象徴です。フルーツケーキを見ればこの物語を思い出せるような物語を書けたらいいなと思います。

この謎の老人は作中の重要な人物で忘れた頃にまた出てきます。

この物語は長編です。何話になるか現段階ではわからないですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

次は高校入学式の様子からで、異世界転移もします。お楽しみ下さい。

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