第13夜 嘘吐き少女と夏の宿題
長々とスピーカーから繰り返される校長の言葉に、思わず欠伸を浮かべる。
蝉の音とクーラーの音が、どことなく弛緩した空気を産みだす中で、ふと窓の外を見上げてみる。
まだつき先輩の名前すら知らなかった頃から、つい二か月ほど前までずっと見上げていた、その視線の先。
ただ一方的に見つめるだけだったあなたは、私のことを見止めるとどこか楽しそうな表情で手を振っていた。……そんな顔してたら、よそ見がバレますよ、なんて言っても届かないけど。
手を振れば、振り返される。少し変なことをすれば、怪訝そうな顔をされる。
それがなんだかどうにも不思議な感じだ。二月前のあなたは、私が何をしようとこちらを見ることもせずに、ただ何かを憂うような顔をしているだけだったのに。手が届かない遠くの存在だったはずが、今ではなんだかすごく楽しそうにこちらを見ている。
返事があるはずのない人から、返事がある。まるで、本物の月とお喋りできているような、そんな違和感。
でもまあ、先輩がご機嫌ならそれでいいのでしょう。
そう想いながらため息をついて。
ふっと気を抜いた一瞬に。
手首に巻いたリボンに意識がふと向いた。
熱い。
溶ける。
濡れる。
そんな感覚が蘇る。
あの日、先輩の口に差し出した指。
開かれた唇と牙、そしてその奥の感覚が。
――――これで、あと1回。
ハッとなって、顔を上げると、気付けば担任が明日からの連絡事項を喋っていた。校長の話はいつの間にか終わっていて、肘をついていた頬が少しずれ落ちる。
…………触れた頬が、信じられないくらい熱くなっている。あと、誰に見られてるわけでもないのに、なんか恥ずかしい。淫らな夢を見ていたような、そんな気まずささえある。
……いや淫らな夢っていうのも、あながち間違いでもないのかな。というか、あの非現実的な夢のような体験と、今のありふれた日常が地続きだというのが、いまいち信じられない。
本当は、初めて出会った日、つき先輩の手を取ったあたりから、ずっと夢を見てるんじゃないかと思わなくもない。
ただ、夢でない証拠に、私の左手には小さな噛み跡と、あの黒いリボンが残ってるけど。
はあと、ため息をついて、日直の号令と共に立ち上がる。
さっさと帰ろう、今日はなんだか気分が落ち着かないし。落ち着かない原因は、一体どこの先輩なのか、わかったものじゃないけれど。
そんなこんなで、さっさと鞄を片づけていた、そんな頃。
ぽん、と肩に手が乗った。
自慢していうことではないけれど、私に対して、こんな風に接触してくる人はうちのクラスにはいない。
だから、つき先輩かなって最初は思ったから。
「なんですか……つき先輩」
と、ちょっと拗ねたような口調で口をきいてしまった。
それが、まあよくはなかった。
なにせ振り返った先に居たのは、つき先輩じゃなかったから。
「―――なにって、サボり魔の部員を捕まえにきたんだけど?」
あとついでに言うなら、その時に「げ」と口から漏れたのもよくなかったかな。
何とも言えない私に向かって、美術部の副部長は震えた頬を引きつらせていたのだったとさ。
はあ、これはお説教コースかなあ…………。
※
私が、一応、所属している美術部は、夏明けすぐの文化祭で発表した作品を、そのままコンクールに出すという習わしがある。
で、夏休みに大半の部員は、その作品作りに取り掛かって、学期明けにその途中経過を部長に報告することになっている。
そしてその報告会が、今日、美術室であったのだけど。
「うんうん、凄くいいと思う、明るい色使いが作品の雰囲気を華やかにしてくれてるね。今のままでも十分いいけど、右側黄色の部分のコントラストをはっきりさせるともっとよくなるかも、うん、頑張って!」
そんなこと、私はもちろん覚えていなかった。嘘だけど。ナチュラルかつニュートラルに、それとなくバックレてなあなあにするつもりだった。
「はい、じゃあ次でラストかな。譎さん、進捗どう?」
そうしてとうとう私の番がやって来た。尋ねてくる部長の温和で慈しみに溢れた笑顔が、とても心に痛い。その隣で副部長が露骨に、機嫌悪そうにガンくれてるし。
副部長に無理矢理、列の最後尾に突っ込まれたあたり、まあ進捗はバレている気がするけれど。
「今回のテーマは、『虚無』と『空白』にしようかと思いまして」
「そうなの? すっごく哲学的でいいと思うよ!」
「……要するにまだ白紙だって言いたいんでしょ?」
温厚な部長が、無邪気に私の言葉を信じて爛々と眼を輝かせる隣で、副部長の視線が出刃包丁くらい鋭くなる。図星をつかれた私は、とりあえずあらぬ方向に眼を逸らすばかり。
「………………あと、作品は家に忘れてきまして」
「そ、そうなの? 写真とかでもいいよ? 進捗さえわかればいいし……」
「だから、結局、何一つも描いてないんでしょ?」
そのまま出刃包丁みたいな視線で、めった刺しにされるかのように追い詰められる。くそう部長は結構ぽわっとしてるから、一学期は誤魔化せたのに、副部長の方はさっぱり騙されてくれない。まあ、こんな嘘で騙されてくれる方が、珍しいけどさ。
「…………えと」
「と、とうこちゃん? ほら進捗は人によってムラがあるし……りこちゃんもやる気がないわけじゃないんだし……」
「あのね、私はこいつが一学期に出した『未完成』っていうタイトルの、ただの下書き、未だに認めてないから。あれ、審査員にも直接、文句言われたし」
そうやって剣呑な視線を私に向ける副部長を、部長はおろおろしながらなだめようとしている。でもまあ、副部長の言っていることは、正直100%正論で、逆の立場だったら私でもそう思う。
どう考えても悪いのは私なのだ。いい訳の余地などどこにもない。バイトが忙しかったなんて、私の都合でしかないわけだし。そもそも描く時間が全くゼロだったわけじゃないのに、実際、描けてないわけだし。
「………………」
「…………とうこちゃん」
「そもそも、あんたが変なのだしたら、部全体の評判に関わるってわかってる? やる気ない奴一人いるだけで、部そのものの雰囲気がだらしなくなるの。キャンバスや画材だって部費で買ってる。タダじゃないの。やる気ないなら辞めれば? そもそもそんなんで、どうして入ったのよ」
ただの惰性です。絵から離れる勇気がなかったから、入っただけです。……なんて本当のことを言っても火に油を注ぐだけだろうなあ……。
「すいません…………」
「り、りこちゃん、謝らなくていいんだよ? 上手く描けないことは誰にだってあるし……」
「描けないんじゃなくて、描く気がないんでしょ。見てたらわかるわよ、いつもくだらない嘘ばっかりついて、もっと真剣になりなさいよ。それができないなら、辞めなさい。あんたみたいなの、いるだけ邪魔だから」
……副部長の言ってることは、正論だ。くだらない嘘を挟む余地すらない。実際、私自身ですら、この場所にいることに、多少なり違和感は感じてた。
絵の一つも描けない、何を描いたらいいのかすら分からない。そんな奴が、美術部にいる意味なんてどこにもない。その癖、口だけはいっちょ前に芸大に行くとか、バカらしい。
胸の奥がじんわりと、冷えるように固まっていく。まるで心臓も肺も動くことを諦めてしまったみたいに。
「…………」
「…………とうこちゃん! 言いすぎだよ!」
「言いすぎ? どうだろね、あんたが一番よくわかってんじゃないの。今の自分がどんだけ半端者か」
ああ、耳が痛いな。痛すぎて血が流れ出そう。嘘だけど。
部長は怒ってくれてるけど、正直、副部長の言ってることの方よっぽど正しい。この場所で私のことを擁護する方が間違いだ。
「とうこちゃん! それ以上言ったら、怒るよ?!」
「はいはい、で、あんたどうすんの。もう文化祭も近いけど、そんなんでどうやって作品出すわけ?」
出すあてなんて、ないですよ。描くものすら決まってないし。
しばらく何も言えないまま、視線を逸らす。窓の外では相変わらず熱気にうだる青い空の下、蝉の音ばかりが響いてる。
「……来週までに下描き出します」
嘘だけど。
「わ、わかったよ。待ってるね! なにか困ったことあったら、何でも言ってね!」
「はあ……また嘘じゃないといいけどね」
また嘘ですよ、残念ながら。
だってこんなところに居ても、一円にだってならないんだから。
そうしてどことなく心配そうな部長の視線と、あきれ果てた副部長の視線を背中に受けて、私は美術室を後にした。
誰もいない廊下で、遠くに響く運動部の声だけが、どこか曖昧に聞こえていた。
※
「あ、りこ、いた」
職員室に寄ってから、昇降口についたら、もう誰もいないその場所で、つき先輩は何気なく私のことを待っていた。
「…………待ってたんですか? 別に待ち合わせもしてないのに」
視線を合わさないように、声の震えを悟られないように、淡々と言葉を続ける。
「うん、りこのクラスに寄ったんだけど、部活の用事だって言うから、ここで待ってたの。りこは……部活? 美術部入ってるんだっけ、明日もある?」
「いえ、明日からは帰宅部です」
「え」
「…………嘘ですよ」
そんな嘘を吐く。
「りこ…………」
こういう場合、あなたにはどういう風に感じられるのだろう。わからないけど、今はあまり心を見せたくない。だから、何気なく、すぐに会話が終わるように、さっさと靴を履き替える。
「………………」
それから、さっさと、歩く。歩く。そのまま振り切れてしまえばいいのに、と思いながら。歩く。
「りこ」
歩く。
「りこ」
歩く。
「りこ…………こら」
正門を出たあたりで、肩を掴んで止められた。
振り向かずに、口を動かす。
「なんですか……?」
バレないで、気づかないで。
「どうしたの、なんか変だよ。……嫌なことでもあった?」
「ありませんよ、何も」
そう、何もあるはずがない。そんなこと言う資格もない。
ポケットの中に入れた退部届をぎゅっと握りしめる。紙がぐしゃっと歪んでいく感触がする。
「こら、強情娘。そんな匂いさせて何言ってんの」
「何もないって言ってるじゃないですか」
そう言いながら先輩の手を振り解く。先輩はいつもあえて私の手を強く握らないから、簡単に振り解けた。
「りこ、……待ってよ」
「ほっといてください、先輩には関係ないことですから」
そうだ、先輩には関係ない。これは私の問題、私の責任、私の罰。
結局、私みたいな半端者は、何所にいたって邪魔にしかならないんだから。
―――だから、仕方がないんだ。
「…………………………」
「………………………………」
歩く。歩く。歩く。
「……………………はあ」
「……………………」
先輩のため息が響く、それだけでまた胸が痛い。わかってる、わかってる。今自分が、関係のないつき先輩に当たり散らしてるだけなのも。どこまで行っても、私の自業自得なのもわかってるんだ。
わかってるから、どうしようも、ないっていうのに……。
「ねえ、りこ」
「………………なんですか」
先輩の顔は見えない。見れない、こんな自分知られたくない。こんな私のこと見ないで欲しい。
「辛いことあった?」
「…………」
言えない。
「話聞いた方がいい?」
「…………」
言えないよ。
「…………ここから逃げたい?」
「………………」
言えないのに。
「―――そう、わかった」
あなたは言葉にならない、私の想いすら拾ってしまう。
私が零して捨てて、落とした想いを、あなたは何でもないように見つけてしまう。
まるで全部わかってるみたいに。
何も言えない私の手が、そっと取られる。
そのまま、周りに人がいないことを軽く確認して、つき先輩は私の身体をそっと抱き上げた。まるでいつかの夜に、そうしたみたいに。
熱い日差しが降り注ぐ中、暗い路地の中でくんっと、つき先輩の身体が一瞬、沈み込む。
それから。
ぐんッ と。
上へ。
上へ。
上へと。
―――跳んだ。
どうしようもない現実も、あてのない痛みも、やるせない感情も。
全部、全部、流れる風と、どこまでも広がる青い空の向こうへと飛ばしてしまうかのように。
あなたは私を連れて、跳んでいた。
そんな私たちの視界の向こうで、入道雲が遥かそびえるように立ち上っていた。
ねえ、つき先輩。
私は嘘吐きだから、何を言っても、もう誰にも信じてもらえないんです。
それに嘘を吐きすぎて、私だってもう自分の気持ちが何なのか、わからなくなる時だってあるんです。
なのに、そんな私の気持ちを、あなたはなんでもないように見つけてしまう。
暗くて小さい部屋の隅っこで、失くしたものを、あなた何気なく見つけてしまう。
それがどれだけ大事なことだったのか、きっとあなたは知らないけれど。
いつかあなたに言える日が来るのかな。
もう少しだけ、素直になれたらいいのにな。