作戦
カルロ氏の誕生日会に忍び込むには、まず招待状が必要となる。
スラム街に住む唯の少女である私に、それを用意することなど出来る筈がなかった。
けれど、それを用意出来る人間に心当たりはある。
「ってことで、私社交界見てみたいなぁー!」
「俺がんなもんに誘われるわけないだろーが。」
こいつ大丈夫か、みたいな目で見てくるダグリスの足を机の下で踏みつける。
痛みで悶える彼の横で、カープ先生がふぉふぉふぉと笑っている。
「どうやらイスト嬢は、知っているようじゃぞ?」
「こいつがぁ!?」
嘘だろ、という顔でこっちを見るダグリスに淑女の笑みでもって応える。
前世貴族舐めるな。
「うふふ、国立学院の各クラスの成績上位者を、毎年ファンファーニ卿が誕生日会に招待してるんだよね?ね?」
「…期待した目で見るな。」
心底迷惑そうな顔をしているけれど、引くつもりはない。
前世で毎年、カルロ氏は私に学生を紹介してくれた。各クラスの成績上位者で、優秀な若者だと。基本社交界は同伴者がいるのが普通なので、皆女性を連れていた。
きっとそれは、今も変わっていないだろう。そう信じたい。
「ね?」
「ね?じゃねえよ。無理。無理。」
「何で?」
「何でって、そりゃ俺成績優秀者じゃないし。」
そんなの想定の範囲内だった。
でもダグリスは馬鹿じゃない。教えていた私が言うんだから間違いない。
「そんなこと分かってるわよ。だから、頑張ってって言ってるの!」
「はあ!?」
「確か、成績上位者ってのは一年に一回のテストで決まるのよね?」
「その通りじゃよ、イスト嬢。」
笑うカープ先生を恨めしげに睨むダグリスの肩を、がっしり掴む。
痛そうに顔を顰めた彼が、私を睨んだ。
「ってぇ!何すんだ」
「うるさい!そのテストいつ!?」
こちらは命がかかってるのだ。
がくがく揺らせば、ダグリスが顔色を青くして「二週間後」と掠れる声で答えた。
「分かったわ。二週間後までに、貴方を鍛えるからね。」
「…なんで俺が…」
「いいでしょ、成績上がるんだから!」
「っつっても今更なぁ…。二週間しかないんだぜ?」
「それだけあれば十分よ。」
二週間、死ぬ気になればどうにかなる。
何も一位になる必要はないのだ。上位に食い込めばいい。しかも、ダグリスのいるクラスはそもそも、兵士になる為のクラスなんだから、勝ち目はある。
「やるわよ、二週間。」
「…どうせ拒否権ないんだろ?」
「もっちろん。」
私たちを微笑ましそうに見ているカープ先生が、言う。
「楽しそうじゃのう。」
「楽しくなんてないんだけどな…。」
「はいはい!いいからやるわよ!時間が勿体無い!」
今日から!?と素っ頓狂な声を上げたダグリスの前に、昨日作った必勝プリントの束をバンッと置く。かなりの高さだ。
「勝つわよ、絶対何としても。」
にやり、と笑った私に、ダグリスの頬が引き攣った。
二週間、私とダグリスは血を吐くような努力をした。
カープ先生もなんだかんだで手伝ってくれたし、ダグリスの学力もぐんぐん伸びてくれた。
そして、今日はテスト当日。
ダグリスは、死にそうな顔で学院へ向かった。
そもそも彼は寮生で、今回だけは戻って来て貰っていたんだけれど、兄たちの視線が痛かった気がする。私に、というよりダグリスにだけど。
彼は私の熱意と兄たちの冷たい眼にと二重苦を感じていたに違いない。どんまい。
「さて、これで安心かね?」
「…何のことですか?」
今私は、小屋でカープ先生とお茶を楽しんでいる。
優雅なものだ。今頃必死なダグリスに比べて。
「ダグリスのことを考えて、こんなことをしたんじゃろう?」
問う形だけど、確信しているらしい。
正直、バレるとは思わなかった。
そう、今回のこと、実はダグリスを利用するなんてまどろっこしいことしなくても良かったりする。
カルロ氏は、誕生会に学生を呼ぶ。
でも、学者も呼ぶ。というか、優秀な者ならば呼ぶ。
優秀な人なら、今私の目の前にも居る。
「君にしたら、わしでも良かった筈じゃ。いや、わしの方が確実じゃろうに。なのに君はダグリスを選び、成績優秀者まで押し上げた。」
「まだ成績優秀者と決まったわけじゃないですよ。」
「時間の問題じゃろうな。」
私もそう思う。彼は才能ある人間だ。
今までサボっていた分、こんがらがってしまっただけで。
それを直し、ある程度まで押し上げれば、その後は独りでに成長してくれる。そんな子だ、ダグリスは。
「しかし、ただ成績を上げろ、と言っても彼はやる気にならんじゃろう。でも君の望みの為となれば、ダグリスはやる気になるじゃろう?それを君は利用した。」
ダグリスは、私に甘い。
だからそれを利用した。
「まあ、このまま学院で彼が馬鹿にされ続けるのも癪だったんですよ。」
彼の生まれで陰口を叩かれるなら仕方ないにしても、学力で馬鹿にされることは回避出来ることだ。
でもダグリスは、そこそこ出来ればいいという考え方の人間だから、入学できてしまってから今まで、きっとそこそこの成績だったんだと思う。
学院は、よくも悪くも実力主義だと聞いた。
だから、学力さえ高ければ、ダグリスの地位は約束されるだろう。
やっかみは、あるかもしれないけど。
でも、彼が学院に入学して二年。
彼の通うクラスは、三年で卒業な筈。
テストは一年に一回。今回ので成績上位者となれば、もう安泰と考えてもいいだろう。
「君は…、いや、何も言うまい。」
少し寂しそうな顔をした先生に、多分この人は何もかもお見通しなんだな、と思った。
私が、もう居なくなってしまうかもしれないということを。
今回の兄さんたちのことが失敗したら、確実に私は終わる。
だから、せめて最期に。
そう思ってしまったことは、嘘じゃない。
「大丈夫ですよ、絶対に。」
ダグリスのことを言ったのか、私自身のことを言ったのか。
もう、分からなかった。
この数日後、テスト結果が発表された。
見事ダグリスは、クラス順位一位。
それと同時に、カルロ氏の誕生日会への招待状がプレゼントされた。
全て、上手くいったと言ってもいいと思う。
成績の報告をしたダグリスを、素直に褒めたら変な顔をされた。
褒めたのが意外だったらしい。私だって褒めます。
問題のパーティーの準備だが、考えてみればドレスを持っていないことに気付いたけれど、それはカープ先生がどうにかしてくれた。もう頭が上がらない。
そして兄たちだが、問題の日が近付くにつれ硬い表情をよく見せるようになった。
ルー兄さんは、いつもの微笑みもどこか儚いし、リオン兄さんは、時々思い詰めたような顔をする時がある。
私を見る目も、どこか申し訳なさを含んだもので、正直気持ちがいいものではなかった。
でもこれも、今日までだ。
「行くわよ、ダグリス。」
「りょーかい。」
学院の制服を着たダグリスは、結構な男前だった。
その腕に手をやり横に並ぶ私も、先生から頂いたドレスを身に纏っている。
前世は金髪だったので、割かし何色でも着ていたけれど、今生は茶髪なので、薄緑色のドレスを着ることにした。
歳もまだ十五なので、大人っぽいものではなく、露出の少ないものだ。
「しかし、馬子にも衣装だなぁ。」
「うるさいな、貴方もね、ダグリス。」
この会話、実はこっそりと行われていたりする。
迷子になりそうな彼を、さり気無く誘導して辿り着いたのは、貴族街のカルロ氏の屋敷。
ファンファーニ家本家。
ここで開かれる茶会に、よく参加していた。
「(懐かしいなぁ)招待状を門にいる人に渡せばいいんだよね?」
「ぁ、ああ、多分。」
どうやらダグリスは、このスケールの違いに呆然としているらしい。
そりゃそうか、いくら学院で慣れて来たとはいえ、貴族の屋敷なんて初めてだろうし。
門の前で使用人が、一人一人の招待状を確認していた。
私たちも無事に通り抜け、屋敷内に入る。
扉の向こうは、完全な社交界だった。
煌びやかな世界。絢爛豪華というに相応しく、そして、綺麗とは程遠い世界。
人々の思惑が入り混じった、複雑な世界。
「…凄いな。」
感嘆しているのか、侮蔑しているのか分からない声音だった。
でもその表情は、どこか蔑んでいるように見える。
「…うん。」
前世の自分もここの一人だったと思うと、心が痛かった。
会場の隅で、何ともなしに周りを見渡していると、向こうの方から男の人が走って来た。
どうやら、ダグリスの知り合いらしい。
「おい、こっちに来てくれ。カルロ氏に挨拶しなきゃいけないらしいんだよ。」
どうやら学院の人らしい。
ダグリスは、曖昧に微笑んで私を見た。
私も行かなきゃいけないらしい。
好都合だったので、頷いて彼の腕に手を置いた。
呼びに来てくれた人と私たちで、人混みの中心部へと向かう。
多くの人に囲まれて笑う、初老の男性が見えた。
老いても尚、威厳を失わない人。
カルロ・ファンファーニ氏だった。
彼が、こちらに気付く。
「おや、来たみたいだね。よく来てくれた。わしが、カルロ・ファンファーニだ。」
懐かしい顔だった。
十五年も経っているというのに、全然変わらない。
懐かしさに、思わず目を細める。
「君が、ダグリスくんだね。隣の可愛いお嬢さんは、恋人かな?」
好々爺とした言葉と態度に、周りの人たちから笑いが湧く。
隣のダグリスも、少し緊張が解けたようだ。
「あ、いえ、その彼女は…」
答えに窮するダグリスを見兼ねて、一歩前に出る。
ドレスの裾を摘んで、昔通りに礼をした。
「お初にお目にかかります。ダグリスとは、教え子と教師という関係を続けさせて貰っています、イストと申します。」
「これはこれは、素敵な先生だね。」
一瞬目を細めたカルロ氏が、微笑んで私を見る。
その瞳からは、何を考えているのかは分からなかった。
彼を見て思う。
確かに無知だった昔と今とで、印象が変わった。
昔は、優しいお爺さんだと思っていた。
面白くて、センスのある人だと。
でも今はどうだろうか。
こんなに大きなパーティーを開き、自分の権威を誇示している。
表情は変わらず笑顔で、ルー兄さんの処世術のようだ。
裏がありそうに見えてしまうのは、私が捻くれたからなんだろうか。
それとも、本当に彼には裏があるのか。
ユーグさんの言葉を思い出して、瞼を伏せた。
どちらにしろ関係ない。
私は、死にたくなんかない。
何より、兄さんたちを失いたくない。
この国のありようには疑問を持っているけれど、でも、こんな強硬手段を取るなんて間違っていると思う。
もっと他に方法がある筈だ。変えていく方法が。
「では、どうか楽しんでいってくれ。失礼するよ。」
そう言ってカルロ氏は、次のペアへと去って行く。
隣から安堵の溜息が聞こえて、少し笑えた。
「楽しんでいってくれってさ。どうする?」
踊るか?なんて、いつもの調子に戻ったようで、茶化したように提案してきたダグリスに笑い、首を横に振る。
「出来もしないこと言わないの。とりあえず美味しいものでも食べよう?」
「だな。」
立食形式だから、お皿を貰ってテーブルを周る。
スラムの子供たちに食べさせてあげられないことが、残念だった。
「ちょっと他のテーブルのも見てくるから、どこかで食べてて。」
そう言って一旦ダグリスと別れ、兄たちが行動を起こすのが分かるように、さり気無く視線を会場に巡らす為に扉の傍の壁へ寄りかかる。
ここからは、周りがよく見えた。
綺麗なドレス姿と、扇子で口許を隠して談話する淑女たちを見る。
なんだか気持ち悪く見えた。
何と無く見ていたくなくなって、少し視線を横に逸らした時だ。それが見えたのは。
「(あれ…?何でここに?)」
解放されていた、庭に面する窓へ、見覚えのある子供が知らない子供と一緒に向かうのが見える。
確かめる間もなくあっという間に子供たちは人混みを抜けて、庭へと出て行った。
スラムで授業を教えている子に似ていたと思ったんだが。
「(ま、気のせいだよね)」
こんな場所にいる筈がない。きっと、他人の空似だろう。
飲み物を勧めて来た使用人からグラスを貰い、口をつける。
軽いとはいえ、久々のアルコールが体に染みた。
会場に変わったことは見られない。
長い時間壁の花と化しているのも飽きて来た。
時々声をかけてくる男性を軽くかわすのも疲れる。
事情を話してダグリスでも連れて来ようかとも思ったけれど、彼は花たちに囲まれて笑っていたので止めた。
なんだかんだで楽しんでいるみたいだ。ダグリスのくせに。
また暫くすると会場に流れていた曲が、ダンスの為の曲へと変わった。
次第に会場の中央から人が引き、円形の空間に男女のカップルが踊り出る。
勿論私はカルロ氏を目で追う。
彼も身近な女性を誘って、ダンスを楽しんでいた。若々しいことだ。
どこか遠い世界を見ているように感じていると、花たちと談笑していたダグリスが小走りで戻って来た。
「どうしたの?」
「どうしたじゃねーよ。ほら、踊ろうぜ?」
ほら、と差し出された手とダグリスの顔を交互に見比べる。
今、踊ろうとか言ったんだろうか?ダグリスが?
自然と口に出た疑問は、当然のことだと思う。
「踊れるの?」
「失礼だなお前。一応学院で習うんだよ、必修で。つか、逆にお前踊れないだろ?俺がリードしてやるから気にしなくていいぜ?」
今度は強引に手を取られ、中央へと引きずられた。
あまりの強引さに着いて行けず、前のめりになって連れられる。
やっと手を離してくれた、と思った時には、遅かった。
「手出せ。」
誘い文句は最悪だけど、格好だけは紳士らしい。
それにもう中央へと立ってしまっている。
断れる筈がなかった。
「はいはい、じゃリードお願いしますねー。」
「お前絶対信用してないだろ…。」
差し出された手に自分の手を重ね、一礼する。
リズムに合わせてダグリスが動くのに私も合わせた。
十五年ぶりのダンスにちょっと体はぎこちないかもしれないけど、段々慣れてくるとダグリスのリードが慣れたものであることに気付く。
どうやら本当に学院で習っていたらしい。まあそうか。
「で、何の為にここに来たんだ?」
「……なんのこと?」
動揺してダンスが乱れるなんてみっともないことだけは避けたくて、必死に平素を装う。
でもダグリスは騙されてくれなかったようで、ムスッとした顔で私を見下ろした。
「お前、やっぱりこういうとこに喜ぶタイプじゃないし。現にお前喜んでないだろ?」
「喜んでるよ。わあ、嬉しい。とても楽しいわぁ。」
「………。」
「…分かったから、そんな目で見ないで。」
引きました、とアリアリ書かれた顔をされたのは堪えられなかった。
それに多分、ごまかしても彼には分かってしまうんだろう。
伊達に付き合いが長いわけじゃないし、今は離れているとはいえ彼もスラム出身者。きっとなんとなく分かってるんじゃないかとも思う。
ぎゅっと、ダグリスと繋いでいる手に力が入る。
「…今日、兄さんたちがカルロ氏に何かするらしいの。」
聞かれたらまずいので、微かな声で伝える。
内容が内容に、ダグリスの表情も険しいものに変わった。
「…本当なのか?」
「…うん。兄さんたち、裏組織の人だったんだ。」
「クソッ、マジかよ…」
乱れがちになったダグリスのリズムを、フォローするようにステップを踏む。
一度ターンしたところで、彼も持ち直した。
「わりぃ。…でもお前、どうするつもりだったんだよ?」
ぐさりと来る言葉だった。言外に、お前に出来ることなんてないだろ、と言われているのが分かる。
「第一、何かするのがお前の兄貴である可能性も低いだろ。知らない奴だったら、カルロ氏に近付いても分からないだろ?」
「いや、そこは分かるよ。」
ダグリスが怪訝そうな顔をする。自分でも何言ってるんだって、彼の立場なら思うだろう。
でも私には、前世の経験がある。
「どうしたって、こういう場所に慣れてない人って、見ていて浮いてるのが分かるんだよ。ああ、あの娘はデビューなんだな、とかね。」
「マジかよ…俺のも分かるのか?」
「似たようなのには数回出てるけど、ここまで大きなパーティーは初めてって感じかな。」
「当たってる…」
ダンスといい、会場での立ち居振る舞いといい、彼は確かに慣れていた。
でもそれは彼が学院の生徒だからだ。普通のスラム住民は、いくら堂々と振る舞ってみせても、どこかぎこちないように見えるだろう。
伊達に前世で友人と、そういう人を見付け合い競い合って遊んでいたわけじゃない。
「(今考えると、失礼な遊びだよね…)」
でも、毎度あまり変わり映えしないパーティーを楽しむのには、これが一番だった。
「で、見分けられたとしてどうするつもりだったんだ?」
「それは……説得するとか」
「つまり何も考えてないんだろ?」
何も言えなかった。その通りだ。
とにかく止めなきゃって焦っただけで、実際どうしたらいいのか考えていない。
「最悪、自分が間に飛び込もうとか考えてたんじゃねーだろな?」
思わずダグリスの足を踏むところだった。
「…違うよ。」
「嘘つくな。分かってんだよお前の考えなんか。」
更に畳み掛けるようにダグリスは続ける。
「お前馬鹿だろ?そんな上手くいく筈ないし、もしかしたら直接的なことじゃないかもしれねえし、ルーたちがお前を騙した可能性だってあるんだぜ?」
ただリードされるままに動く。
分かってる、そんなこと。
でも、兄さんが嘘ついたなんて思いたくないし、じっとこの日を何もしないで過ごすなんて嫌だった。
それに、最悪何もできなくても、その現場を見届けることくらい出来る。
関係のない場所で過ごし、あったことだけを告げられるなんて嫌だ。
だから、私はここへ来た。
じわり、と涙が滲むのが分かる。
必死にそれを堪えて、彼に合わせてターンした。
ふわり、とドレスの裾が広がる。
「なあ、もういいだろ?」
優しい声だった。
「お前は何もしてねえんだ。何も知らなかった。それでいいだろ?」
いい筈がなかった。
でも彼が私のことを考えてくれているのだけは分かった。
「それに俺だって、弱ってる奴見捨てられなくて、泣き虫で意地っ張りで強がりな女くらいだったら、一生くらい面倒見てやれる。」
はっとしてダグリスの顔を見上げた。
どこかで、聞いたことのある言葉。
「お前のこと考えないで勝手やる奴らなんて、こっちから捨ててやれ。」
完全に体の動きが止まった。
合わせて、ダグリスの動きも止まる。
二人してダンスフロアの一角で立ち止まったことに、周りの怪訝そうな視線が集まった。
「なぁ、俺と逃げちまおう?」
―――なぁ、俺と逃げよう…?
その瞬間、確かに私は思い出していた。
十五年も前のことだし、今世は今世で生きるのに精一杯だったから、あまり思い出すこともできなかった前世での恩人を。
とても優しい人だった。
いいお別れの仕方じゃなかったけれど、あの人は今どうしているんだろうか。あの時のことを気にせず、幸せに生きていてくれればいいと願う。
でも、ここまで思い出してしまうと、芋ずる式にどんどん前世の思い出が甦って来て、私の目頭を熱くさせた。
ああ、もう駄目だ、と思った瞬間、涙腺が緩んだ。
ぽたり、とドレスに涙が落ちる。
一度それを許してしまえば、自分でも止められなかった。
「お、おい、イスト…?ちょ、な、泣くなって!」
うるさい、と反抗する余裕もなかった。
こんなに涙が溢れるのは、何年ぶりだろう?
生まれてから今まで、生理的なもの以外あまり泣かないで生きてきた。
もしかしたら、意識的に前世の記憶を思い出すことをセーブしていたのかもしれない。忙しいとか、必死だからとか言い訳をして。
慌てるダグリスを笑うことも出来ず、ただ悲しくて寂しくて、声を上げずに泣く私を宥めたのは、予想できない人物だった。
「あら、女を泣かせるなんて、男の風上にもおけなくてよ?」
気品漂う、大人の女性の声。
ふわりと香る、上品な香水が鼻孔をくすぐったと思えば、肩に誰かの手が置かれたのを感じた。
「大丈夫かしら?」
横に立ったその人を視界に映した瞬間、私は目を見開いた。
綺麗な女性だった。
生まれ持った気品と、積み重ねた年齢を感じさせない美しさ。
輝く長い金髪を綺麗に結い上げ、知的で切れ長な瞳が青く煌めく。
この国の女性の頂点に立っていると言っても過言ではない人。
カルロ氏の孫娘にして、一児の母。
そして、“あの人”の妻で、私の大親友。
「……お、王妃殿下…」
ダグリスの掠れた声での呟きに、はっと我に返る。
信じられない思いで見詰めれば、それに気付いた彼女が微笑んでくれた。
忘れもしない、その気丈な微笑み。
前世ではそれが羨ましくも、誇らしかった。だって、一番の親友だったから。
懐かしさと再会の喜び、そして驚きで、涙なんてとっくに止まっていた。
「御機嫌よう。その制服は学院の生徒のものね?」
「は、はい、ゲブラー(峻厳)の二年です。」
「あら、じゃあもう直ぐ三年なのね。ふふふ、でも学院では女性に対する接し方を教えてはくれなかったようね。」
王妃、マリア殿下の言葉に、流石の飄々としたダグリスも僅かに赤面していた。
雲の上の人間だと思っていた王族を目の前にして、冷静でいられる一般市民なんていないだろう。
「えっと、大丈夫です王妃様。これは嬉し涙ですわ。」
嘘じゃない。
前世の思い出に涙したけれど、ダグリスの言葉はとても嬉しかった。ただ、今の私には優し過ぎただけで。
「とても…とても優しい言葉を貰ったんです。」
私の微笑みに、マリア殿下は目を瞠り、そして笑った。
それはもう嬉しそうに。
あれ、何か嫌な予感がするぞ。
「あら、それは…。お邪魔したのね私。ごめんなさいね。そうとは知らず口を挟んで…。歳は取るものじゃないわね。」
おほほ、と上品に笑うマリア殿下は、完全に勘違いしている。
「それでは、後は若いお二人で楽しんで行って頂戴な。お詫びになるか分からないけれど。」
「あ、いえ!彼女も疲れたでしょうし、もう失礼します。な?」
そうお茶目に笑う殿下に、すかざずダグリスは言った。
急な展開に何も言えずにいる私の腕を掴み、紳士的な一礼を披露した彼が殿下に背を向ける。
引っ張られた私は、未練がましく殿下を振り向いた。会場はまだ、終わる気配は見せない。
そして彼女は、王妃の顔で微笑んで手を振ってくれていた。
「また会えるのを、楽しみにしているわ。」
優しい台詞。社交辞令だということは分かっていた。
でも、私もそうなればいいと願う。
私も、また会いたい。貴女に。
もうイストワールではないけれど、イストとして会えた。
こんな奇跡二度とないだろうけど、でも。
だから、私は小さくなっていく殿下に大きな声で言った。
「是非、またっ」
ないかもしれない、二度目の再会を願って。
扉を抜け、私たちは会場を後にした。
屋敷を抜けて門を出た所で、ダグリスは立ち止まった。必然的に、私の足も止まる。
「どうしたの?」
「…悪かったな、無理やり。」
ぽつり、と零された謝罪に、私は目を丸くする。
「あの言葉も無責任だった。悪い。」
真摯な謝罪だった。
そんなダグリスの様子が、おかしくておかしくて。
私は、何もかも吹き飛ばすように笑った。
「っはははは!!何それ!?ダグリスらしくない!くくくっ」
「わ、笑うんじゃねえよっ!何だよ気にしてるかと思ったのによ!!」
「気にしてないと言えば嘘ですけどー、ダグリスらしいっちゃダグリスらしかったし?今日はもう引き際だったし?」
あれで出て来て良かったと思う。
会場全体を見渡したけれど、怪しい人は居なかった。
どの人も身分ある人だったし、学者にしても、生前見たことのある人ばかりだったし。
寧ろ、怪しいのは私だっただろう。
社交界を楽しむでもなく会場を警戒し、踊ったと思ったら泣き出し、いきなり退場しちゃうんだもの。
きっと、そんなおかしな私を、マリアは注目していたんだろう。警戒半分、心配半分で。
あれ以上いても仕方なかったと思う。
「だからもういいよ、帰ろう。」
「……ああ。でも爺さんとこ寄ってからじゃないとな。」
「あー、そういやそういう設定だったよね。」
兄たちに怪しまれないように、彼らにはカープ先生の所にお邪魔するから遅くなるって、話してたんだ。
実際お邪魔してドレスを借りた上に準備までしてくれたわけだし、このドレスを返さなければならない。
「お礼言わなきゃね。」
「あの爺はお節介好きなんだよ。」
「そういうこと言わないの。」
「ハイハイ。」
とりあえずこの場を離れようと歩き出す。
先生のお宅までそこまで遠い距離ではない。歩いて二十分くらい。
「ねえ、ダグリス。」
ん?と少し前を歩いていたダグリスが振り返る。
「ありがと。」
瞬間、ダグリスの頬がさっと赤く染まった。
居心地悪そうに目を逸らし、前を向いてしまう。
何だか可愛らしいその態度に、笑って小走りで横に並び、腕に腕を絡ませる。
「ちょっ、おまっ」
「いいじゃんいいじゃん。私たち、殿下の前で誓い合った仲じゃないの。」
「あれは王妃の勘違いだろ!」
「いやん、あの言葉は嘘だったのねっ」
「お前な…」
呆れるダグリスは、でも私の腕を振り解こうとはしない。
優しい人間に、私は恵まれ過ぎているように思う。
兄たち、ダグリス、子供たち、カープ先生、近所の人、ユーグさんたち…。
イストワールが死んでしまって、悲しかったし辛かったけれど、イストが生きている今が嬉しいし、楽しい。
だから私は、今を守りたい。
「兄さんたちを止めるの、私諦めないよ。」
「…ああ、そうしろ。」
力強いダグリスの言葉に、私は改めて決意した。
この後、あんなことが待っているとは知らずに。