04:触れた体温
案内が終わったあと、フィオナはレナルドと別れて校舎裏へと向かった。
(この辺りだったはず……)
小さな砂利がザッザッと音をたてる。
先ほどの景色を思い浮かべつつ東側へ進んでいくと、翡翠色の池が見えてきた。
フィオナは足を止め、辺りを見渡す。
「!」
池のそばに立つ青年を見つけ、息を止めた。
(違う……)
しかし、先ほどの黒髪の青年ではなかった。
髪はくすんだ藍色で、休日なのに制服を着ている。
青年は感情の見えない冷めた瞳で、静かに水面を見下ろしていた。
そして、おもむろに一歩、踏み出す――
「あ……!」
『カァカァ!』
フィオナの声と、木から飛び立ったカラスの声が重なった。
(霊……!)
青年が、水の上を歩く。
水面は波紋一つさえ残さず、穏やかな表情を保っていた。
ありえない光景を目の当たりにし、フィオナはゆっくりと後ずさる。
十分に距離を取ると、そのまま走り去っていった。
ザッ――
フィオナの姿が見えなくなったあと、校舎の影から砂利を踏む音が聞こえた。
現れたのは二人の青年だった。
一人は先ほどフィオナと目が合った黒髪青眼の青年。もう一人は金髪で吊り目が特徴的な青年である。
「あの女、挙動が怪しいですね……追いますか?」
金髪の青年が眉をひそめて言う。
「……いや、いい」
黒髪の青年は静かに首を横に振った。
フィオナが去った方に向く青い瞳は、凪いだ海のように落ち着いていた。
***
翌日。
「ルゼオン帝国からの留学生を紹介します」
「レナルドです。よろしくお願いします」
「フィオナです。よろしくお願いします」
教壇の前に立つフィオナとレナルドに、生徒たちの視線が集まる。
男子生徒たちはこぞって頬を染め、女子生徒たちは浮ついた表情で囁き合っていた。
フィオナは居心地が悪そうに指先を擦り合わせた。
「……!」
泳がせた視線の先に黒髪を捉え、指の動きをぴたりと止めた。
一番後ろの窓側の席――そこに、黒髪の青年が座っていた。
長い前髪の下から覗く青い瞳が、フィオナを射抜く。
しかし、目が合うとすぐに窓の方へ顔を向けてしまった。
(レナルドにも見えてるのかな……)
フィオナは、ちらりと隣のレナルドを見上げた。
「ん?」
気づいたレナルドが、優しい笑顔を向ける。
(……巻き込んじゃダメだ)
フィオナは咄嗟に笑みを繕い、「なんでもない」と小声で伝えた。
***
「俺はグレン。よろしく」
「俺はハーマン!」
「よろしく」
最初の授業が終わると同時に、二人の男子生徒がレナルドに声をかけた。
フィオナがその様子を横目で見ると、片方の男子と目が合った。
「あの……!」
顔を赤くした男子は、肩を強張らせて声をかけてきた。
「フィオナさんって、呼んでいいかな」
「……うん」
「ぼ、僕も! いいかな?」
すると、もう一人の男子も割って入るように寄ってきた。
フィオナは戸惑いながらも再び頷く。
「肌がとても綺麗だね」
「か、髪も綺麗な色だと思う!」
「あ、ありがとう……」
フィオナは背を反らし、わずかに眉を下げた。
男性に容姿を褒められた時、どうやって返せばいいのか、よくわからなかった。
(かわいい……!)
初々しいフィオナの反応に、男子たちは頬を緩ませた。
「次は民族学の授業だよね」
見兼ねたレナルドが、さりげなく話題を変えてくれた。
「そうそう!」
「民族学のボルジャー教授、すげー変だからビックリするぜ」
男子たちの注目から逃れたフィオナは、小さく息をついた。
そしてハッと口を開き、後ろを振り返る。
(いる……)
一番後ろの席の黒髪の青年――
その姿を確認した途端、居心地の悪さがすっと和らいだ。
(話しかけたいけど……霊だったらどうしよう)
「あ、教授きた」
男子たちが慌てて戻っていく。
フィオナも名残惜しそうな視線を残しつつ、正面に向き直った。
教壇には、白衣を着た男性が立っていた。
深緑の長めの髪は無造作にうねっていて、伸ばしているというより放置されているという感じだ。
(白衣にマフラー……?)
さらには、十月にしては暑苦しそうなマフラー。
その奇妙な組み合わせを、フィオナは物珍しそうに見つめた。
「うーん……」
民族学の教授――ボルジャーは、灰色のマフラーの先端を弄りながら天井を見上げた。
手はポケットに入れたまま。一向に授業を始める気配がない。
「……」
教室を見渡したボルジャーの視線がふと、一番前に座るフィオナに留まる。
メガネの奥の灰色の瞳は、磨かれる前の原石のようにほの暗く、奥行きが見えなかった。
「サファイアとエメラルド、どちらが良いと思います?」
「え……」
唐突な問いかけに、フィオナは小さく声を漏らした。
(授業と関係があるのかな……?)
フィオナは真面目に考えてみるが――
「いえ、やっぱりいいです。あなたの意見を聞いても仕方がない」
ボルジャーは勝手に自己完結してしまった。
「本当に変わった人だね」
「……うん」
隣のレナルドがこっそり耳打ちした。
ボルジャーは黒板に向かい、何事もなかったかのようにチョークを走らせていた。
「えー、今日からロイフォード王国四大移民の一つ、イータ族についてお話します」
(イータ族……!)
ボルジャーの気だるそうな声が響く中、フィオナは背筋を伸ばし、ペンを持つ手に力を込めた。
「彼らはスザーヌ帝国の南西部で暮らしていましたが、帝国軍の侵略に遭いロイフォード王国へと亡命してきました。二百年くらい前です」
この"イータ族"こそが、フィオナがイメンスアカデミーへの留学を決意した要因の一つだった。
「彼らは死者の魂を信仰し、死者と意思疎通ができると王国史書に記されています。"魔女"と言われる所以ですね」
(アナが言ってた通りだ……)
フィオナはごくりと唾を飲む。
フィオナにイータ族の存在を教えてくれたのは、かつての侍女長、アナだった。
"ロイフォード王国に住んでいるイータ族という民族は、霊視能力があるそうです"
脳裏に蘇った懐かしい声に、少しだけ鼻の奥がツンとした。
「しかし今、我が国で生活しているイータ族に、そういった能力を持つ者は確認できていません」
ズキン、と胸が痛む。
自分と同じ境遇の人に会えるかもしれない――そんな淡い期待を、心のどこかで抱いていたのかもしれない。
ペン先が震え、ノートに小さなインクの染みができた。
「……」
フィオナは一度ペンを置き、拳を握りしめる。
肌に食い込んだ爪の痛みが、胸の苦しさを和らげてくれたような気がした。
***
(どこで食べよう……)
午前の授業を終え、昼休み。
フィオナはサンドイッチを片手に、一人で裏庭を歩いていた。
(魚料理、食べたかったな……)
未だに痛みが残るこめかみに手を添える。
食堂には霊が多いようで、入った途端に頭痛に見舞われ、サンドイッチを受け取るだけで精一杯だった。
(小屋……)
北門の近くまで来ると、小屋を見つけた。
丸太を使った素朴な造りで、ドアの前には小さなベンチがある。
フィオナは窓からそっと中を覗き込んだ。
(誰もいない)
中にはソファと机が置いてあるだけで、人の姿はない。
ガサ――
ベンチにサンドイッチを置いたところで、小屋の裏から草を踏む音が聞こえた。
フィオナは、なるべく足音を立てないよう壁伝いに歩いた。
そして、小屋の影からそっと顔を出す。
「……!」
そこには、草の上に寝転ぶ黒髪の青年がいた。
制服の上着を枕にし、静かに目を閉じている。
動かない瞼をじっと見つめ、フィオナは小さく息を飲んだ。
(触れる、かな……)
人間と同じように霊が視えてしまうフィオナにとって、霊かどうかを判断する確実な方法は"触れるかどうか"だ。
「……」
フィオナはゆっくりと足を踏み出した。
青年に近づくにつれ、胸の鼓動はドクドクと速まった。
青年の隣に膝をつく。
柔らかそうな黒髪へ、手を伸ばしたその時――
「!」
手首を掴まれた。
「……なに?」
低く、警戒を含んだ声が聞こえる。
青年は上体を起こし、フィオナに鋭い眼光を向けた。
(あったかい……)
フィオナは怯むことなく、掴まれた手首をじっと見つめていた。
肌に伝わる体温が、彼が霊ではないことを証明してくれた。
「あ……」
安堵の息をついたあと、フィオナはびくりと肩を揺らした。
"フィオナお嬢様に触ると、呪われるんですって"
名前も知らない侍女の言葉が、脳裏に響く。
掴まれた手首を見て、フィオナは眉を下げた。
「……何か用?」
青年はパッと手を放し、尋ねた。
先ほどより、少しだけ声色が柔らかくなった。
「……」
フィオナは体温の残る手首をさすりながら、控えめに青年を見上げた。
そして、ぽつりと呟く。
「名前……教えてほしい」
その質問が意外だったのか、青年は一瞬目を丸くした。
「ルイス」
青年の背後で、オレンジに色づいた葉がひらひらと舞う。
かさり――
「ルイス……」
落ち葉が地に触れたと同時に、フィオナは噛みしめるようにその名を繰り返した。
「ありがとう」
立ち上がったフィオナは、膝についた葉を手で払い、去っていった。
「いや……何が……?」
一人残されたルイスの呟きは、そよぐ秋風に乗って消えていった。
***
「きみが留学生のフィオナちゃん!?」
校舎に戻ったフィオナに、見知らぬ男子生徒が駆け寄ってきた。
カナリアのような明るい金髪はキラキラと光を反射し、にこやかな口元から八重歯がちらりと覗く。
「俺、二年のジャスパー! 気軽に呼び捨てで呼んでいいよ」
軽やかにウインクを飛ばすジャスパー。
フィオナは小さく会釈だけして横を通り抜けようとしたが、ジャスパーが素早い動きでその進路を塞いだ。
「フィオナさんって婚約者いる?」
「……いません」
「じゃあ俺立候補しちゃおうかな!?」
ぐいっと顔を近づけられ、フィオナは身体を後ろに逸らした。
馴れ馴れしいジャスパーはもちろんだが、それ以上に、その隣の存在から、一刻も早く距離を取りたかった。
(憑いてる……)
桃色の髪の若い女性の霊が、ジャスパーの腕にしがみついていた。
『近づかないでよ……』
女性の霊はフィオナを睨みつけ、低く囁いた。
「ッ……」
強烈な頭痛がフィオナを襲う。
脳を揺らされるような感覚に、思わず足がふらついた。
「大丈夫?」
ジャスパーが心配そうに顔を覗き込み、フィオナの腰に手を添えた。
『離れて! 触らないで!』
その途端、霊の語気が荒くなった。
向けられた憎悪に呼応するように、頭の痛みも増していく。
「う……ッ」
視界が揺らぎ、壁に手をついた。
息苦しくて、呼吸が浅くなっていく。
「え、マジで大丈夫? 抱っこしようか?」
『許さない……許さない……!』
ジャスパーの声も霊の声も、遠のいて聞こえた。
その時――
「!」
強く手を引かれた。
フィオナの身体が後ろに傾き、何かにもたれかかる。
背中に、心地よい体温と規則正しい心音が伝わった。
小さく身じろぐと、清涼感のある匂いがふわりと鼻を掠めた。
(誰……?)
フィオナは目を閉じ、そのまま体重を預ける。
瞼の裏に、ぼんやりと青色が滲んだような気がした。
***
窓から冷たい風が吹き込み、医務室の白いカーテンを柔らかく揺らす。
外から授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえたが、医務室は別世界のように静かだった。
「ん……」
ベッドに横たわるフィオナが、小さく呻き声をあげた。
「……」
ベッドの脇には黒髪の青年――ルイスが佇んでいた。
前髪が風に揺れる。
青い瞳は、静かにフィオナを見下ろしていた。
(フィオナ……)
ルイスにとってフィオナは不思議な存在だった。
初対面で涙を流したこと、
池の近くでの不可解な行動、
そして、名前を教えただけで嬉しそうに微笑んだこと――
これまでのフィオナの行動が、何一つ理解できなかった。
(刺客では……ない)
しかし、警戒心は確実に薄まっていた。
「う……」
フィオナが苦しそうに眉を寄せ、顔を横に向けた。
汗の滲む額に髪が張り付く。
(起こした方がいいか……?)
手を伸ばしかけたその時。
コンコン――
響いたノックの音に、ルイスの指先がピタリと止まった。
そして、ベッドから三歩離れる。
「失礼します」
医務室に入ってきたのはレナルドだった。
「君は……」
レナルドは目を丸くしてルイスを見た。
その瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
「鍵閉め任せていい?」
「あ、うん……」
ルイスはレナルドの手に鍵を乗せ、医務室を出た。
「……」
右手を一瞥して、ズボンのポケットに入れる。
その手のひらは、掴んだ腕の細さと体温を、鮮明に覚えていた。




