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03:"コーディ・ローズ"



ガタンッ


「!」


馬車が大きく揺れた衝撃で、フィオナは目を覚ました。


「ちょっと見てきますね」


ハドリーが慌てて馬車を降りていき、その背中をぼんやりと目で追う。

窓に反射する陽の光が、やけに眩しく感じた。


「怖い夢でも見た?」


レナルドのエメラルドグリーンの瞳が、心配そうに覗き込んできた。


「ううん、大丈夫」


フィオナは笑顔を繕ったが、きゅっと握りしめた手のひらには汗が滲んでいた。


「車輪の軸が折れてしまったそうです」


戻ってきたハドリーが馬車のドアを開ける。


「首都には入っているので、今日はこの辺で宿をとりましょう」

「はい」


レナルドが先に降りて、手を差し伸べた。


「フィオナ、気をつけて」

「大丈夫だよ」


しかしフィオナは、当然のようにその手を取らなかった。

苦笑するレナルドを通り過ぎ、深呼吸をする。


「……いいにおい」


甘く心地よい香りが、鼻腔いっぱいに広がった。


「ロイフォードはバラが有名なんだよ」

「へえ……」


見渡すと、軒先やベンチ脇、至る所にバラが咲いていた。


「品種改良もさかんで、色も豊富ですよ。あ、ちょうどあそこに花屋がありますね」


フィオナはハドリーの指の先に目を向けると、小さく口を開けた。

赤、オレンジ、ピンク、緑――鮮やかな色が、フィオナの瞳に映った。


「さすがに青いバラは置いてませんね」


フィオナの隣に並んだレナルドが呟いた。


「そうですね。青いバラは王室のバラ園でのみ生産されてるので、街には流通していません」

「"コーディ・ローズ"……でしたっけ?」

「ええ。今やロイフォード王室の象徴ですね」


レナルドとハドリーのやりとりに、フィオナは静かに耳を傾けた。


(青……)


青と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、"あの霊"の瞳だった。


「青いバラは五年ほど前にアルフレッド・ファーノンが開発に成功しました。彼はイメンスアカデミーの教授なんですよ」


ハドリーが得意げに説明したのと同時に、道路脇の馬がブルルと大きく鼻を鳴らした。


「さて……僕は修理屋と宿を探してくるので、お二人は観光してきたらどうですか?」

「いいんですか?」


レナルドは思わず声を弾ませた。


「もちろん。ただ、危ないので五番街からは出ないでくださいね」

「やった! フィオナ行こう」

「うん」


レナルドの屈託のない笑顔につられて、フィオナの口角も少しだけ上がった。

フィオナは花屋のバラを横目に見つつ、浮き足立つレナルドの半歩後ろを歩いた。


「見て、バラのアイスクリームだって!」


花屋を通り過ぎてすぐ、目を輝かせたレナルドが振り返った。


「ほんとだ」

「買ってくるから、フィオナはそこに座って待ってて」

「あ……」


レナルドはフィオナをベンチに促すと、小走りで大通りを横断していった。


「……」


フィオナはベンチに腰を掛け、首都、ネオローザの街並みを見渡した。

木造の建物が並び、一階にはカフェや宝石店など様々な店が軒を連ねている。

貴族も平民も観光客も混ざり合い、活気がありつつも落ち着いた雰囲気を纏った街だった。


その時――


「クソッ、見失った……」


花屋の脇道から、一人の青年が現れた。

周囲を見渡した青年がふと、フィオナを向く。


ヒュウ――


強く吹き抜けた風が、青年の長めの前髪をかき分けた。

その青い瞳が、ラウルの瞳と重なる。

深く、光をも飲み込んでしまいそうな、神秘的な青だった。


「……っ」


気づけば、目尻から涙がこぼれ落ちていた。

馬が石畳を蹴る音も、観光客の笑い声も、聞こえない。

ただただ、忙しなく脈打つ心音だけが、大きく響いた。


「!」


青年は、まるで見えてはいけないものを見たかのように目を見開き、後ずさる。

そして踵を返し、小道に引き返してしまった。


「待っ……!」


フィオナは勢いよく立ち上がった。

追いかけようと足を踏み出すが――


「フィオナ!」


その腕をレナルドが掴んだ。

心配そうに揺れるエメラルドグリーンの眼差しを見ていると、少しずつ動悸が治まってきた。


「何か……視えたの?」

「……わからない」


レナルドは青年の姿を見ていないようだった。

単に走り去った後だったのか、それとも、“視えない存在”だったのか――フィオナには判別できなかった。


「……大丈夫?」


フィオナの頬に涙の跡を見つけて、レナルドはハンカチを取り出した。


「あ……うん。ゴミが入っただけ」


しかし、フィオナはハンカチがあてられる前に、自分の手の甲で頬を拭った。


「……そっか」


レナルドは少し寂しそうに眉を下げ、ハンカチをポケットに戻した。


「はい」


そして、左手に持っていたカップをフィオナに差し出す。

冷たいカップの中には、丸く盛り付けられたピンク色のアイスクリーム。


「売り切れで一つしか買えなかったんだ。スプーン二つ貰ってきたから、半分こしよう」

「……ありがとう」


フィオナはスプーンを受け取り、一口分をすくって口に運ぶ。

バラの甘美な香りが鼻に抜けたあと、ミルクの優しい味わいが口いっぱいに広がった。

フィオナはぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「バラだ……」

「本当だ!」


舌の上でとろけるアイスクリームを味わいながら、フィオナはネオローザの色彩をしっかりと目に焼き付けた。



***



翌日、イメンスアカデミー。

ハドリーに続き、フィオナとレナルドは中央のレンガ道を歩いていた。


「わあ……」


正面に聳え立つ大きな校舎に、フィオナは思わず声を漏らす。


「広いね」


レナルドも落ち着かない様子で辺りを見渡した。

両脇には手入れの行き届いた庭園が広がっていた。


「誰だろう?」

「留学生じゃない?」


休日にも関わらず、構内には多くの生徒が出歩いていた。


レンガ道の突き当たりまで進むと、昇降口の前に一人の男性が姿勢よく立っていた。


「ようこそお越しくださいました」


頭を下げても、きちっと七三に分けられた茶色の前髪は微動だにしない。

一番上まで留められたシャツのボタンに、ボルドー色のネクタイの結び目がぴたりとくっついていた。


「ファーノンと申します。学長は学会に出席しておりますので、僭越ながら私が案内をさせていただきます」


ファーノン――その名前に、フィオナはまつ毛を小さく揺らした。


(青いバラを作った人……?)


ファーノンの顔をまじまじと見つめるフィオナの横を通り、ハドリーが前に出た。


「ファーノン教授、お会いできて光栄です。卒業生のハドリー・ブレイアムと申します」


ハドリーは朗らかな笑みを浮かべ、手を差し出した。


「経済学科だったので教授の講義を受けたことはないのですが、教授のいるアカデミーに在学していたことを誇りに思っています」

「……ありがとうございます」


一瞬の躊躇のあと、ファーノンは握手に応じた。


「ですが……私はそんな大層な人間ではありません」

「そんなご謙遜を」

「……」


ファーノンはわずかに眉を寄せ、離した手のひらに視線を落とす。

そしてその手で、乱れてもいないネクタイの結び目を整えた。


「レナルドさんとフィオナさんですね」


ファーノンの切れ長の瞳が二人に向けられる。

フィオナは会釈をし、レナルドは背筋を伸ばした。


「では、僕はこの辺で失礼します。アカデミー生活楽しんでくださいね」

「ハドリーさん、ありがとうございました」

「ありがとうございました」


頭を下げると、ハドリーは気さくに手を振って去っていった。


「中へどうぞ」


ファーノンのあとに続き、校舎に足を踏み入れる。

靴底が床と擦れ、キュッと音が鳴った。


「一階は各学年の教室と食堂、それから医務室があります。一学年の教室は一番奥ですね」


まっすぐと伸びる廊下は、窓から差し込む日光を柔らかく反射していた。


「いい匂いがする……」


レナルドの声につられて振り返ると、東側の廊下の先に食堂が見えた。


「食堂は休日もやっていますので、是非利用してみてください」

「はい!」


食堂から出てきた生徒が横を通り過ぎると、香草の匂いがかすかに漂ってきた。


「上に行きましょう」


ファーノンに続いて階段を上ると、古い木材がぎしりと軋んだ。


「二階は研究室や実験室です。一学年のうちはあまり利用することはないでしょう」


ファーノンは二階には寄らず、そのまま三階へと進んだ。


「三階は図書室と音楽室、あとは学長室があります」


ファーノンの声に耳を傾けながら、フィオナは踊り場の窓から外を見下ろした。

正門から校舎にかけて豪華な庭園が広がっていたのとは対照的に、校舎裏は雑草が生い茂り、素朴な雰囲気が漂っていた。


「……!」


フィオナは足を止める。

――視界の端に、黒髪が映ったような気がした。


「フィオナ?」


レナルドが振り返り、首を傾げた。


「……何でもない」


もう一度窓の外を確認したが、人の姿は見えない。


窓から吹き込んだ初秋のひんやりとした風が、フィオナのスカートをふわりと揺らした。



***



「図書室も長期休暇以外は開放しています。どうぞ中へ」


最後に案内されたのは図書室だった。


「そこまで広くはないので、調べ物なら王立図書館をお勧めします」

「王立図書館はもっと広いんですか?」

「はい。ここの五倍はあります」


フィオナは目を丸くし、図書室を見渡した。

室内には生徒の姿が疎らにあり、時折、ページをめくる音やペン先が紙を擦る音が聞こえた。


「ちょっと見てまわってもいいですか?」

「ええ、どうぞ」


フィオナは年季の入った本棚の間を、ゆっくりと進んでいく。

鼻先をくすぐる古書の香りが心地よかった。


(民族の歴史……)


何気なく目に入った本の背表紙に手をかけた、その時――カーテンが大きく翻った。


フィオナは吸い寄せられるように、窓際に向かった。

風で乱れた前髪を整え、視線を落とす。

鬱蒼と生い茂る草木の中、黒い何かが揺れ動いていた。


(黒髪……!)


フィオナは窓枠に手を置き、身を乗り出した。

青年が立ち止まり、空を仰ぐ。

青い瞳と、フィオナの薄紫色の瞳が交差する。


(青……)


空よりも深い青――

その神秘的な色から目を逸らせなかった。

ざわざわと騒ぐ胸元に手を置く。

飲み込まれてしまいそうで、少しだけ怖かった。


「何かあった?」

「!」


背後から聞こえたレナルドの声に、フィオナは肩を弾ませた。

胸元の服をきゅっと掴み、酸素を求めて息を吸い込む。


「あ、池があるね」


隣に並んだレナルドが呟いた。

フィオナはもう一度窓の外を見下ろす。


(いない……)


青年の姿はなくなっていた。

代わりに、先ほどは気づかなかった池が目に入る。

その水面は濃い翡翠色に濁り、底が見えなかった。


「あの池には近づかないように」


ピリ、と空気が震えた。

振り返ると、ファーノンが鋭い視線を向けていた。


「何でですか?」

「……過去に水難事故があったんです」


ファーノンは伏目がちにネクタイの結び目に触れる。

ボルドー色のネクタイの先は、少しだけ色が落ちていた。


「忘れないうちに学生証を渡しておきます。失くさないように気をつけてください」


ファーノンは小さく咳払いをしたあと、胸ポケットから学生証を二枚取り出した。


「ありがとうございます」


ざらりとした羊皮紙が指先をくすぐる。

そこに埋め込まれた真鍮の校章をなぞると、ひんやりと冷たかった。



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