44:灯りのともる家
まどろみの中、小鳥のさえずりが微かに聞こえる。
カーテンに滲む柔らかな朝日が、とても心地よかった。
シャッ――
「ん……」
カーテンが勢いよく開けられ、フィオナはベッドの中で身じろいだ。
「フィオナお嬢様、朝ですよ」
優しい声に、ゆっくりと瞼を上げる。
朝日を受けた淡い金髪が、ガラス細工のように繊細な光を返していた。
「……もうちょっと寝たい」
フィオナはブランケットを口元まで引き上げ、甘えたような声を出した。
「いけません」
アナは笑顔で、容赦なくブランケットを剥ぎ取った。
「昨夜、アンリ坊ちゃんとボードゲームで夜更かしをするからですよ」
「うん……」
フィオナは上体を起こし、テキパキとブランケットを畳むアナをじっと見つめた。
(前も、こうやって起こされてたな……)
幼い日を思い出して、ふにゃりとはにかむ。
「さあ、こっちですよ」
アナがフィオナの手を引き、ドレッサーへと促した。
そこには化粧品とアクセサリーがきらきらと並んでいる。
椅子に座ると、締まりのない顔と、ぴょこんと跳ねた前髪が鏡に映った。
「今日は忙しいんですから!」
「?」
フィオナの背後で、アナは眉をキリッと吊り上げ、袖を捲っていた。
***
三十分後――
「か、可愛い……!」
フィオナの部屋を訪れたダフネは、口を押さえ、目を輝かせた。
フィオナがダフネに顔を向けると、耳元でムーンストーンのイヤリングが小さく揺れた。
身にまとっているのは、淡い緑を基調とした外出用のドレス。
襟や袖口、スカートの裾にはふんだんにレースがあしらわれていて、フィオナの身体を可憐に縁取っていた。
「ダフネ、どうしたの?」
「あっ! お手紙が届いていました」
フィオナの声でダフネは正気に戻り、手紙を手渡した。
「クラリス・ジェルベーズ……?」
聞き覚えのない差出人の名前に、フィオナは首を傾げる。
「セルベーニュ公国の公女様ですね。お友達なんですか?」
「ううん、知らない」
「知らない……?」
不思議そうに目を丸くするアナとダフネを脇目に、フィオナはパキンと紫色の封蝋を割った。
そして、甘い香りがほのかに漂う便箋に目を通す。
"貴女のおかげで、先日の舞踏会はとても楽しめました"
文面を読んでも、疑問は増すばかりだった。
舞踏会の日、クラリスとは挨拶も交わしていなければ、その姿を見た覚えもない。
"ぜひ、お友達になってくださらないかしら"
フィオナの容姿と振る舞いを褒め称える言葉が続いたあと、最後はそう締めくくられていた。
「公女様は何て……?」
「……友達になりたい、って」
フィオナは戸惑いながら答えた。
便箋を持つ指先に、わずかに力がこもる。
笑顔の裏に悪意が潜んでいることもあると、フィオナはよく知っていた。
「一度お会いするのもいいと思いますよ」
花飾りがついた帽子を手に、アナが言う。
「気が合えばお友達になればいいし、万が一嫌な思いをしたら……旦那様に言えばいいんです」
「……うん」
フィオナが頷くと、アナとダフネはにこりと笑った。
「でも、お返事を書くのは帰ってからにしてください。もう出発しなくちゃ」
アナはフィオナの頭にぽん、と帽子を乗せ、顎下で紐を結んだ。
輪郭に触れるサテンの生地が、少しだけくすぐったかった。
「ベアトリクス領まで一時間はかかりますからね」
「えッ……ベアトリクス領に行くんですか!?」
「? ええ」
アナが何気なく言った言葉に、ダフネが大きく反応した。
「や、やっぱり私も一緒に行きたいですっ」
「ダメよ」
同行を申し出たダフネを、アナはばっさりと切り捨てた。
「こっちで任せた仕事があるでしょう?」
「……はい」
ダフネは弱々しく頷いた。
アドルフとはまた別の、アナの圧には逆らえなかったようだ。
***
「アナ、私も持つよ」
「いえ、大丈夫ですよ。それより、すごく賑わってますね」
ベアトリクス侯爵領に到着して一時間。
大体の買い物を終えたフィオナとアナは、大通りを歩いていた。
両脇には出店が立ち並び、革製品や陶器、衣類など、日用品から少し変わった品まで、いろいろな物が売られている。
「綺麗……」
そんな中、フィオナはガラス細工が並ぶ店の前で足を止めた。
「気に入った物は全て買いますからね!」
背後のアナが張り切って財布を構えたのがわかった。
フィオナは身を屈め、商品をまじまじと見つめる。
動物を模した置き物に、花をモチーフにしたアクセサリー。
その精巧な造りに、感嘆の息が漏れた。
「これは……」
小さな商品が並ぶ中、手のひらサイズの丸い置物が目に入った。
「そちらはペーパーウエイトです」
店主の男性が教えてくれた。
「持ってみてもいいですか?」
「どうぞ」
手に取ってみると、ずしりと重たかった。
「海をイメージして作ったんです」
「海……」
球体を太陽の光にかざしてみると、透き通った青の中にチカチカと白い光の粒が見え隠れした。
神秘的な青を瞳に映しながら、フィオナはルイスの顔を思い浮かべる。
ふと、ガラスの中に小さな緑色が見えた。
「フィオナ……?」
同時に、背後から男性の声が聞こえる。
「あ、レナルド」
振り返ると、レナルドが立っていた。
「この前、大丈夫だった?」
レナルドは心配そうに眉を下げ、駆け寄ってきた。
フィオナはガラス細工を棚に戻し、レナルドに身体を向けた。
「うん。お父様、もう元気だよ」
「そっか……よかった」
柔らかなフィオナの笑顔を見て、レナルドは優しく目を細めた。
そして、ベストのボタンを指でもぞもぞと弄る。
「今日は買い物?」
「うん」
「……すごく可愛いね」
ほんのりと頬を染めながらも、フィオナをまっすぐと見つめて伝えた。
「ありがとう」
アナは少し離れた場所で、二人の様子を静かに見守っていた。
「お店いっぱいだね」
「あ、うん。"クラフトホリデー"っていって、毎年この時期に職人さんたちの出店を集めるんだ」
「へえ……」
フィオナは好奇心に目を輝かせ、くるりと周囲を見渡す。
ふいに吹いた風で、帽子の下の前髪がふわりと揺れた。
「坊ちゃん。ご令嬢に、出店をご案内してみてはいかがですかな?」
レナルドの後ろで控えていた年配の執事が、一歩前に出た。
「フィオナがよければ……」
「うん、お願いしたい」
「!」
フィオナが頷くと、レナルドの表情がぱあっと輝いた。
「フィオナお嬢様、私は馬車に荷物を置きに行きますね」
「わかった」
アナはフィオナにそう告げたあと、レナルドに向かって頭を下げた。
「ベアトリクス卿……よろしくお願いします」
「はい」
信頼の言葉の裏に、ほんの少しの警戒が含まれていた。
それを感じとったのか、レナルドは背筋を伸ばし、真摯に返事をした。
「私は腰が痛いので、そこのベンチで休んでおります」
年配の執事は長い顎髭を撫でながら去っていった。
腰が痛いと言った割に、その足取りは軽やかだった。
「えっと……あの店を見てほしいんだ」
レナルドは赤みを帯びた首に手を置き、反対の手で二軒先の出店を指差した。
フィオナは頷き、レナルドの隣に並ぶ。
「実は、フィオナのプレゼントを選んでて……」
「え?」
「もうすぐ誕生日だよね?」
「あ……うん」
フィオナの誕生日は、八月一日。
アナが去ってからは、弟のアンリだけがこっそりと祝ってくれていた。
(今年も……お父様は狩りに行くのかな……)
ちょうど皇室主催の狩り大会と日程が被っているため、アドルフと共に過ごした記憶はない。
フィオナは少し俯き、帽子の紐をきゅっと締め直した。
「こういうの、フィオナ好きそうだなって思ったんだけど……どうかな?」
レナルドが足を止め、フィオナはハッと顔を上げる。
案内された出店には、刺繍でできたアクセサリーが並んでいた。
どれも一般人ではとても真似できない、複雑で繊細な作品だった。
「うん、素敵」
興味津々に刺繍を覗き込むフィオナに、レナルドの口元が緩んだ。
「こっちかこっちで迷ってたんだ」
レナルドは二つの髪留めを指差した。
一つは、紫色のライラックの刺繍。
もう一つには、緑色のクローバーの刺繍が施されていた。
「フィオナはどっちが好き?」
「どっちも可愛い……」
「じゃあ……僕が似合う方を選ぶね。髪にあててみていい?」
「うん」
フィオナは顎下の紐を解き、両手で帽子を抱えた。
編み込まれたハーフアップの髪型が露わになり、レナルドの胸に衝撃が走る。
「……?」
「あ……ごめん、ちょっと触るね」
レナルドは断ってから、フィオナの耳の上の髪を優しく整えた。
亜麻糸のように細い髪が指を滑る感触が、やけにはっきりとわかった。
「……」
街の喧騒が、一瞬にして遠のく。
心臓の音が鼓膜を支配する中、レナルドはまずライラックの刺繍をフィオナの髪にあてた。
「……うん」
小さく頷き、次はクローバーの刺繍をあててみる。
亜麻色の髪に乗った緑色を見て、レナルドはきゅっと唇を結んだ。
「……どう?」
見上げてくるフィオナの視線から、何故か少しだけ逃げたくなった。
「……こっちがいいかな」
レナルドが選んだのは、ライラックの髪飾りだった。
「このまま渡していい?」
「うん」
レナルドは丁寧な手つきで、フィオナの右耳の上に髪飾りをパチンと留める。
「ありがとう」
フィオナははにかみ、指先で刺繍をなぞった。
レナルドはもう一つの髪飾りを、さりげなく売り場へ戻した。
「……うん、似合ってる」
いつもと同じように微笑む。
儚さと強さを併せ持った不思議な色――幼い頃から揺るがない、レナルドの好きな色だった。
***
「フィオナお嬢様、着きましたよ」
「うん……」
アナに優しく肩を叩かれ、フィオナは目を覚ました。
ふわふわした感覚が残る中、馬車を降りると――
「フィオナ」
玄関前にアドルフとアンリが立っていた。
アドルフの手には手綱。そして、その先には白い馬がブルルと鼻を鳴らしていた。
「この馬を贈る」
「え……」
「俺の馬と同じ血統だ」
突然の贈り物に困惑しつつも、フィオナは静かに馬に近寄った。
馬の長い睫毛が揺れ、潤んだ瞳がフィオナをじっと見つめる。
フィオナもじっと見つめ返し、馬の背中を優しく撫でた。
「誕生日おめでとう、フィオナ」
「!」
アドルフの優しい声が降り注ぎ、フィオナは顔を上げる。
「二日後には狩り大会に行かなければならない……当日祝えなくて、すまない」
アドルフは申し訳なさそうに太い眉を下げた。
「いえ……ありがとうございます」
「僕はいるからね!」
明るく言うアンリに、フィオナは笑みを零した。
誕生日当日に父がいないとわかっても、不思議と寂しくはなかった。
「もう一つ、受け取ってほしいものがある」
アドルフは左手に持っていた木箱をフィオナに差し出した。
装飾のない、素朴な箱を開ける。
中にはシンプルなネックレスが一つだけ入っていた。
「お母様の……」
小ぶりのオパールを見て、エディットの遺品だとすぐにわかった。
「フィオナが持っている方が、エディットも喜ぶだろう」
心の奥底にしまい込んでいた、母の最期の日の記憶が溢れ出てくる。
胸が痛む。ただ、脳裏に蘇ったのは母の慈愛に満ちた笑顔だった。
震える手で掬い上げたオパールは、夕陽を受けて柔らかな赤色を放っていた。
"愛してる――"
掠れた息に埋もれたあの日の言葉が、エディットの鈴の音のような声で響いた。
見上げると、アドルフが優しく目を細めていた。
「今度……家族で出かけよう」
アドルフの大きな手のひらが、頭の上に触れた。
「……はい」
フィオナはにっこりと笑い、深く頷く。
あどけなさの残る、年相応の笑顔だった。
「さあ、今夜はご馳走様ですよ。中に入りましょう」
アナがフィオナの背中にそっと手を添えた。
伯爵邸の窓から、暖かな灯りがこぼれていた。
フィオナはネックレスを優しく握り締め、一歩踏み出す。
その隣には、父と弟がいた。
第4章:ロートレック伯爵家 - fin -
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
書き直し&5章以降のプロットを練るため、しばらく更新ストップします。




