02:フィオナの過去
*
*
十四年前
*
*
「ママ!」
二歳のフィオナが、小さな足でトテトテとソファに向かって歩く。
「なあに?」
そこに座る栗色の髪の女性は刺繍の手を止め、ふわりと笑った。
薄紫色の瞳を細め、優しげにフィオナを見つめている。
彼女の名はエディット。フィオナの母親である。
「……アナ!」
続いてフィオナは、部屋の掃除をしていた金髪の女性を見上げてそう呼んだ。
「はい! 私の名前まで覚えてくださったなんて……!」
アナは感激したように目を輝かせた。
その様子に満足したように、フィオナは誇らしげに笑う。
「……」
次に、フィオナはソファの奥に目を向ける。
たどたどしい足取りでソファの裏にまわると、空を見上げてこう言った。
「パパ!」
しかし――そこには誰もいない。
「この子ったら……何で急にパパだなんて……」
エディットとアナは顔を見合わせ、小さく首を傾げた。
「パパ!」
フィオナは空を指差し、もう一度呼ぶ。
しかし、やはりそこには誰もいなかった。
「パパに会いたいのかしら……」
「フィオナ様のお父様は今、お仕事で遠いところに行ってるんです。きっともうすぐ会えますよ」
「?」
フィオナは不思議そうに小さな頭をこてんと傾けた。
***
「フィオナお嬢様、またおかしな独り言言ってたわよ」
「またぁ?」
廊下の隅で、メイド二人がひそひそと話していた。
一人は箒、一人は雑巾を持っているが、動いているのは口ばかり。
話題は四歳になるフィオナのことだった。
「きっとアンリ坊ちゃんばかり可愛がられるから、構ってほしいのよ」
「無駄口叩いてないで手を動かしなさい」
「「!」」
突然の声に、メイドたちはびくりと肩を揺らす。
背後に立っていたのは、侍女長のアナだった。
「も、申し訳ございません……!」
深く頭を下げる二人を、アナはキッと睨みつける。
「中央階段が汚れてたから、そっちを掃除して」
「は、はい!」
「すぐに!」
メイドたちは逃げるように去っていった。
アナは小さくため息をつき、廊下の先へと視線を向ける。
「……」
曲がり角の壁から、淡い黄色のドレスの裾がはみ出ていた。
アナは切なそうに眉を寄せ、ゆっくりと歩み寄った。
「フィオナ様」
そして、優しく声をかける。
「アナ……」
隠れていたフィオナがアナを見上げた。
薄紫色の瞳は潤んでゆらゆらと揺れていた。
「お久しぶりです」
「っ……」
アナがにっこりと笑ってみせると、フィオナは力いっぱいアナに抱きついた。
「どこいってたの?」
スカートに顔を押し付けたままフィオナが聞く。
か弱く、震えた声だった。
「実家に帰っていたんです」
アナはフィオナの頭を優しく撫でながら答えた。
「もういかない?」
「はい」
アナがはっきりと頷いた瞬間、フィオナの表情がパァっと明るくなる。
「あのね、アンリ、もうちょっとであるけそうなの。フィオナといっしょにれんしゅうしたんだよ」
「そうなんですね」
「それでね、あのね……」
「はい」
「フィオナもね……」
フィオナの口から次々と言葉が溢れ出てくる。
アナはしゃがんで目線を合わせ、一つ一つ優しく受け止めた。
「つみきでおっきいおしろつくれるようになったの……」
「すごいじゃないですか! 見せてくれますか?」
「うん!」
両手を合わせ嬉しそうにするアナのリアクションを見て、フィオナは満面の笑顔を浮かべた。
「……」
そして、アナの顔をじいっと見つめる。
「アナ、ないちゃった?」
「!」
「おめめあかいよ」
フィオナの言う通り、アナの目尻は赤みを帯びていた。
「……はい」
アナは苦笑しながら頷く。
「私の母が……お空に行ってしまったんです」
アナはしゃがんだまま、窓の外を眺めた。
「口うるさい人でした。『働くならもっと近くにしなさい』とか、『二人目は産まないのか』とか。最後に会った時も、私……反抗して酷いことを言っちゃったんです」
フィオナは心配そうにアナを見上げた。
アナの話した内容を全て理解したわけではない。
ただ、アナが悲しんでいることだけは感じとっていた。
「アナのママ、おこってないよ」
アナの手に、フィオナの小さな手が重なる。
少ししっとりとしていて、温かかった。
「にこにこしてるよ」
「……!」
アナは一瞬息を呑み、周囲を確認した。
「……フィオナ様」
そして真剣な顔つきでフィオナに向き直った。
「私の母が……見えるんですか?」
「えっと……」
フィオナは視線を泳がせる。
その反応が答えを示していたが、アナはフィオナの言葉を静かに待った。
「フィオナのこと、きらいにならない……?」
フィオナはもじもじと指先を擦り合わせ、探るようにアナを見上げた。
「なりません。絶対に」
アナはまっすぐフィオナを見据えた。
フィオナは安心したようにほっと息をつき、一度だけ小さく頷いた。
「どんな人が見えるんですか?」
「かみのけがみじかいおんなのひと。おはなのよこにおっきいほくろがあるよ」
「!」
アナが息を呑む。
フィオナが話した特徴は、アナの母と確かに一致していた。
「ごめんなさい……」
震えるフィオナの声にアナはハッとし、慌てて表情を繕った。
「フィオナ様、大丈夫です……悪いことじゃないんですよ」
ぎゅっとフィオナを抱きしめ、とん、とん、と優しいリズムでフィオナの背中をさする。
「アナにはみえないの?」
「はい。他の人も多分……見えないと思います」
「なんでフィオナはみえるの?」
「……わかりません」
「フィオナもみえなくなりたい」
フィオナが零した切実な願いに、アナはぐっと奥歯を噛み締めた。
しかし、決してその胸の痛みは顔に出さなかった。
「私は……母が笑っていることを知れて、嬉しいです。ありがとうございます」
「……うん」
フィオナの表情がふわりと緩んだ。
「でも……見えることは私たちだけの秘密にしましょうね」
アナは口元に人差し指を立てる。
するとフィオナはこくこくと頷き、同じ仕草を真似した。
「うん、ひみつ」
「ああ、なんて可愛らしいんでしょう……!」
アナはたまらずフィオナをむぎゅっと抱きしめた。
子ども特有のぷっくりとした頬がアナの胸によって潰されるが、フィオナは嬉しそうに目を細めた。
(絶対に、守らなくちゃ)
アナが心の中で決意した、その矢先――
「侍女長!」
顔を真っ青にした侍女が駆けつけた。
「奥様が……!」
***
六年後――
コンコン、と小さなノックの音が、エディットの部屋に響いた。
「お母さま、入るね」
十歳のフィオナが、本を胸に抱えて入ってきた。
「あら……」
エディットはベッドに横になったまま、困ったような笑みを向けた。
「今日は護身術のお稽古じゃなかったの?」
「上手にできたから早く終わってくれたの」
フィオナはサイドテーブル上の薬を横目に、まっすぐとベッドへ近づき、そばにあった椅子に腰をかけた。
「そう……」
エディットは毛布をめくり、ベッドに手をついた。
しかしその手はひどく痩せていて、身体を支えることすら難しそうだった。
「寝たままでいいよ! 今日はローズ姫のお話読んであげるね!」
フィオナは起きあがろうとするエディットを慌てて止め、椅子をもう少し近くに引き寄せた。
「ありがッ、ゴホッ」
「っ……!」
エディットが咳き込んだ瞬間、フィオナは反射的に立ち上がった。
膝の上の本がバサッと音を立てて床に落ちたが、フィオナは見向きもしなかった。
「お医者さん呼ぶ?」
ベッドに手を置き、心配そうにエディットの顔を覗き込む。
「大丈夫よ……ありがとう」
エディットは微笑んだが、その顔はいつもより青白く見えた。
「でも、診てもらった方が……」
「いいの」
動きかけたフィオナの腕を、エディットが掴んだ。
十歳の子どもでも簡単に振り払えそうな、弱々しい力だった。
「フィオナ……」
エディットはふう、と深く息を吐き、娘の名を噛み締めるように呼んだ。
「今日は本じゃなくて、フィオナとお話がしたいな」
「……うん!」
フィオナは嬉しそうに頷き、再び椅子に座った。
「フィオナは……大きくなったら、何をしたい?」
「うーん……えっとね……」
指先を絡め、足をぶらぶらと揺らしながら考え込むフィオナを、エディットは優しく見守った。
「海に行きたい!」
「!」
フィオナがそう答えた瞬間、エディットは息を止めた。
優しく包み込むような深い青色が、記憶の底から溢れ出す。
「お母さまは、行ったことある?」
「ないけど……どんな色かは、知ってるわ」
エディットは窓に顔を向ける。
雲ひとつない青空を見つめるその瞳は、まるで何かに恋焦がれる少女のように揺れていた。
"必ず迎えに来ます"
低くて柔らかい声。清涼感のある香り。
そして――海のように深く、光をも飲み込むような神秘的な、青い瞳。
心の奥底にしまい込んだ記憶が、蓋を開け、エディットの胸を満たしていった。
「何で、行ったことないのに知ってるの?」
首を傾げるフィオナに、エディットはゆっくりと振り返った。
エディットの鎖骨の上をネックレスが滑る。
小ぶりのオパールが一瞬だけ、ピンク色に輝いた。
「……初恋の人がね、青い瞳だったの」
エディットは困ったように眉を寄せ、薄く笑みを浮かべた。
(青い瞳……)
フィオナは息を飲み、ちらりと隣を見上げる。
そこには、黒髪の若い男性が静かに立っていた。
エディットを見下ろすその瞳は、神秘的な青――
「……そこに、誰かいるの?」
「!」
フィオナの視線を辿ったエディットが、優しく尋ねた。
フィオナは小さく肩を揺らし、スカートの布をぎゅっと握った。
「教えて……お願い」
エディットは力なく笑った。
か細い声から、切実な思いが伝わってきた。
「……いるよ」
フィオナはごくりと息を飲んでから、一度だけ頷いた。
黒髪の男性の霊……彼は、フィオナが部屋に入った時にはすでにそこに立っていた。
今日だけではない。フィオナが物心ついた頃からずっと、エディットのそばを離れなかった。
「ずっと前から、お母さまのそばに」
「そう……」
エディットは驚きも、畏れもしなかった。
ただ静かに天井を見上げ、すっと目を細める。
西陽に照らされた塵が、ひらひらと舞っていた。
「ラウル……ありがとう」
エディットはそのまま瞼を閉じた。
浅い呼吸の音が、部屋に響く。
「お母さま……?」
フィオナの声が震える。
エディットは目を開いたが、薄紫色の瞳は霧がかっているように見えた。
ガタッ――
椅子が倒れる。
「わ、私、お母さまと一緒に……、海に、行きたい……っ」
フィオナは床に膝をつき、ベッドに縋りついた。
「フィオナ……」
エディットの細い指がフィオナの頬をなぞる。
「――――……」
乾燥した唇からは、掠れた息が漏れただけだった。
「なあに……? もう一回言って、お母さま……」
問いかけるが、返事はなかった。
頬を滑り落ちていく細い腕を、フィオナが慌てて受け止める。
「お母さま……お願い……お願い……ッ」
冷たいエディットの手を、祈るように両手でぎゅっと握った。
大粒の涙がこぼれ落ち、シーツに滲んでいく。
エディットの瞼も、指先も、胸元も――ぴくりとも動かなかった。
「ねえ……!」
フィオナはシーツを強く握り、隣を見上げた。
「お母さまの病気を治してよ……」
霊からの返事はない。わかっていたことだった。
ただ、深い青色の瞳はしっかりとフィオナを見据えていた。
「お母さまを元気にしてよ……!」
霊は静かに首を横に振った。
「っ……」
フィオナは唇を強く噛み締め、もう一度エディットに目を向ける。
穏やかな表情だった。
わずかに開いた唇からはもう、呼吸の音は聞こえない。
「うわあああん」
母の死を、受け入れるしかなかった。
『……』
泣きじゃくるフィオナの頭を霊が優しく撫でる。
実際に触れるわけではないのに、それでも霊は手を止めなかった。
『フィオナ』
「……!」
初めて聞いた霊の声に、フィオナはハッと顔を上げた。
その青い瞳を見つめると、何故か涙が溢れ出て止まらなかった。
『"愛してる"』
「え……」
その言葉に、エディットの声が重なったような気がした。
『"祝福"を、受け取って』
「!?」
霊が控えめに微笑んだ瞬間、眩い光がフィオナを包み込んだ。
(あったかい……)
霊が触れている頭から、心地よい温もりが全身に伝っていった。
フィオナは目を細め、脱力する。
光がフィオナの身体に染み込んでいくのと同時に、霊の足元がさらさらと崩れていった。
フィオナの頭がベッドに沈む。
傾いたエディットの青白い手が、その髪に優しく触れた。
慈愛に満ちた青い瞳を最後に、霊――ラウルの姿は光に溶けるように、消えていった。




