01:アカデミーへ
――三年前――
ルゼオン帝国の"東の剣"と名高いロートレック伯爵家。
騎士の名家である伯爵邸には広い演習場があり、朝から金属音と号令が響いていた。
活気づいた演習場の隣には、バラをメインに造られた庭園。その中央の道をひとりの女性が歩いていた。
彼女の名前はフィオナ・ロートレック、十六歳。伯爵家の長女である。
「姉さん!」
そしてその後ろを追いかけてきたのは三つ下の弟、アンリ・ロートレック。
ふたりが血の繋がった姉弟であることは、同じ亜麻色の髪と薄紫色の瞳を見れば一目瞭然だった。
「……」
フィオナは足を止めて振り返り、周囲に人影がないかを確認する。
「見送りなんてしたら侍女長に叱られるよ」
「平気だよ。それより、その……」
アンリはもじもじと指先を擦り合わせる。
「長期休暇には帰ってくるよね?」
「……」
遠慮がちに見上げてきたアンリの視線から逃げるように、フィオナは瞼を少し伏せた。
「わからない」
「そ、そっか……」
アンリも視線を右下に泳がせる。姉弟の会話にしてはぎこちない雰囲気が漂っていた。
「元気でね」
「姉さんも……」
フィオナが手を伸ばした、その時。
「坊ちゃん! 授業が始まりますよ」
甲高い女性の声がふたりの間に割り込む。
フィオナの指先がピクリと動き、その手を引っ込めた。
「風邪をひいたらいけませんわ。早く戻りましょう」
駆けつけた吊り目の中年女性はアンリの肩に羽織りをかける。
背中を押されたアンリは名残惜しそうにフィオナを振り返ったが、視線が交わることはなかった。
「まったく……坊ちゃんが呪われたらどうしてくれるのよ」
去り際に侍女長がボソリと呟いた言葉は、冷たい秋風に乗ってフィオナの耳にも届いた。しかしフィオナの表情は変わらなかったし、反抗する素振りも見せなかった。
「……」
フィオナは眉を下げるアンリに向けて薄く笑みを作ってから踵を返す。その瞳はまっすぐと前を見据えていた。
***
「……フィオナ・ロートレックさんですか?」
「はい。よろしくお願いします」
門を出たフィオナを迎えたのは、紺色のジャケットに太陽のバッジをつけた若い男性だった。歳は二十代前半だろうか。焦茶色の前髪は短く切り揃えられ、丸みを帯びた鼻の上には目立たないそばかすがあった。
「荷物はそれだけですか?」
「はい」
男性は門の向こう側を確認するが、見送りの姿はどこにもない。
(ひとりで……?)
古びた鞄ひとつを手にやってきた令嬢に思わず首を傾げる。
「乗っていいですか?」
「あ、はい」
フィオナが馬車に近づくと、毛並みの良い馬がブルルと鼻を鳴らした。
「荷物をお預かりしますよ」
「? 自分で持てます」
男性がエスコートの手を差し出すが、フィオナは当然のように自力で馬車に乗り込んだ。
貴族令嬢らしからぬ態度に男性は呆気にとられ、口を小さく開ける。
(機嫌を損ねたか……?)
続いて馬車に乗り込んだ男性はフィオナの顔色を窺う。
しかしスカートの皺を整えるフィオナから怒りの感情は読み取れなかった。
「皇宮外務官のハドリー・ブレイアムです」
「フィオナ・ロートレックです。よろしくお願いします」
「詳しい説明はベアトリクス卿をお迎えしてからしますね」
「はい」
馬が動き出し、小さな振動とともに車輪が砂利を踏む音が聞こえ始める。
(ロートレック伯爵家の長女は精神病を患ってると聞いたが……噂は噂、か)
ハドリーは密かに胸を撫でおろす。
(……絵画みたいだ)
静かに外の景色を眺めるフィオナの横顔は凛としながらもどこか儚げで、浮世離れした雰囲気を纏っていた。
***
「フィオナ!」
「レナルド、久しぶり」
銀髪の青年が馬車に乗り込むと、フィオナの表情がふわりと柔らかくなる。
彼の名はレナルド・ベアトリクス。ロートレック伯爵領のすぐ隣に領地を持つ侯爵家の次男で、フィオナとは幼い頃から面識があった。
「久しぶり。元気だった?」
「うん」
レナルドはフィオナの隣に腰を下ろす。
ふわふわの銀髪と温かみのあるエメラルドグリーンの瞳からは柔らかい雰囲気が伝わってくる。彼には「育ちの良いお坊ちゃん」という表現がよく似合っていた。
「では、今回の留学について説明しますね」
向かいに座るハドリーが、軽く咳払いをして話し始める。
「おふたりにはルゼオン帝国を代表して、ロイフォード王国のイメンスアカデミーに三年間通ってもらいます」
皇室の紋章が付いたこの馬車が向かうのは北西に隣接するロイフォード王国。二人は留学生として、これから異国で三年を過ごすことになる。
「学費は国から支給されますが、卒業後は皇宮に勤めていただき、その半額を返済していただきます」
イメンスアカデミーを卒業するということは、将来を約束されたも同然である。
そのため毎年多くの志願者が募るが、その門は非常に狭い。今年度の帝国内の合格者はフィオナとレナルドニ名のみだった。
「僕も留学した身です。二年くらいで返済できますよ」
「え、先輩だったんですね! じゃあ質問いいですか?」
「ええ、どうぞ」
レナルドは前のめりになって目を輝かせる。
「食堂のごはんって美味しいんですか?」
「はい。特に魚料理がオススメです」
「アカデミーから海は見えますか?」
「見えませんが……課外授業で行く機会はありますよ」
「おおー!」
レナルドは少年のように声を弾ませ、ハドリーは先輩として得意げに胸を張る。
(海……)
フィオナは窓の外へと視線を落とす。
見たことのない海の色――それがどんな青なのかを、胸の奥で想像していた。
***
「今日はここに泊まります」
日が沈み始めた頃、馬車はロイフォード王国の国境手前、セルベーニュ公国の宿場町で停車した。
ハドリーが案内した宿泊施設は豪華なホテルとまでは言えないが、それなりに格式のある佇まいだった。
「部屋はもう使っていいそうです。僕は一階で飲んでるので、食事の時は声をかけてください」
「「はい」」
中へ入ると一階はレストランになっていて、貴族らしき客たちがグラスを傾けながら談笑している。
手続きを済ませたハドリーから鍵をひとつずつ貰い、ふたりは階段を上った。
「僕は六号室だから……一番奥だ」
絵画や花で装飾された廊下を進んでいき、ふいにフィオナは五号室の前で立ち止まる。
「……レナルド」
「ん?」
そして六号室のドアをじっと見つめたまま、前を歩くレナルドの服の裾をそっとつまんだ。
「部屋、交換してもらえないかな」
「奥の部屋がいいの?」
「うん」
彼女のことをよく知らない者が聞けば、ただの貴族令嬢のワガママだと呆れたかもしれない。
しかしレナルドは、すぐにこの言動の意味を察したようだ。
「まあまあ、ちょっと入ってみようよ」
「あ……」
レナルドは柔らかい口調でフィオナを五号室へと促した。
「……視えるの?」
扉を閉めた後、レナルドは真剣なトーンで尋ねる。
「うん」
フィオナは静かに頷いた。
「六号室の扉の前に、男の霊がいる」
フィオナには“人ならざるもの”が視える。
部屋の交換を求めたのは、その霊の存在を察したからだった。
「なるほど……」
レナルドは顎に手を当て考える。
「霊がいる」と聞いてレナルドが驚いていないのは、フィオナの特異能力に理解があったからだ。そして、彼自身も微弱ながら似たような能力を持っていた。
「僕に視えないってことは、ヤバいヤツではないのかな」
「多分……」
ただ、レナルドにはフィオナの言う男の霊は視えなかったようだ。
「見た目はちょっと怖かったけど」
「どんな?」
「スキンヘッドで、頬に大きな傷があって、筋肉質で……」
「なんか霊っぽくないな……」
「膝を抱えて座ってた」
その口ぶりから、フィオナは霊の身体的特徴まではっきりと視えていることがわかる。
「よくリアクションせずにいられたね……」
「慣れてるから」
「……そっか」
レナルドは眉を下げて苦笑する。
「そういうことなら、部屋は変わらなくていいよ」
「でも……」
「大丈夫だよ」
心配そうに見上げてくるフィオナを安心させるように、レナルドは柔らかく微笑んだ。
「僕だって少しは耐性あるし……ほっとけば害はないんだろ?」
「うん……」
「なら僕が六号室を使うよ」
「……わかった」
フィオナは渋々頷いた。
「何かあったら、私の部屋に来ていいからね」
「えッ」
レナルドの肩がびくりと跳ね上がる。
一般的に、結婚前の男女ふたりが同じ部屋で過ごすのは「いかがわしい」と非難されることである。お年頃のレナルドが意識してしまうのは当然だった。
「う、うん。ありがとう」
しかしフィオナの表情を見れば、そこに他意がないことは明らかだった。
「ご飯食べに行こうか。荷物置いてくる」
「うん」
レナルドはほんのりと赤く色づいた頬が見えないように、鞄ニつを持って部屋を出ていった。
(霊は……)
続いてフィオナも廊下に出て六号室の前を覗く。
(いない……)
霊がいなくなっているのを確認して、フィオナはほっと息をついた。
「いなくなったよ」
「そっか、よかった」
レナルドが戻ってきた、その時――
ガシャン!
「「!」」
食器の割れる大きな音が鳴り響いた。
「一階からだ」
フィオナとレナルドは顔を見合わせて階段を駆け降りる。
「酔っ払いよ」
「見苦しいわ……」
レストランには人だかりができていて、彼らの視線は窓際のテーブルに集中している。
「ここに座って酒を注げと言っているんだ!」
「こ、困ります……」
赤い顔の貴族男性が、ウェイトレスの手首を乱暴に掴んでいる。
「あ……」
酔っ払いの挙動に注目が集まる中、フィオナは彼の隣を注視していた。
『ミアちゃんに近づくんじゃねぇ……!』
先ほど部屋の前に座り込んでいたスキンヘッドの霊が、ものすごい形相で男にガンを飛ばしている。
「どうしよう、警備の人は……」
「……大丈夫」
「え?」
狼狽えるレナルドに対して、フィオナは落ち着いた声で呟いた。
「さっさと……」
「や、やめてください……!」
「うぐっ!!」
抵抗して女性が腕を引いたその瞬間――……男の身体が椅子から転げ落ち、ドスンと鈍い音を立てる。
「え……え??」
女性はパチパチと瞬きをして、自分の腕を不思議そうに見つめる。どう考えても成人男性より力があるようには見えない、華奢で細い腕である。
「なんだ、気絶してるぞ」
「自分で転んだんじゃないか?」
「警備隊呼ぶか」
周囲の人は彼を、酔っ払って椅子から落ちた滑稽な男だと嘲笑った。
(彼女を守ってるのね……)
フィオナはすっと目を細め、薄く笑みを浮かべる。
この空間でただひとり、フィオナにだけ、真実が視えていたのだ。




