婚約破棄5 おまけの後日談
大変お待たせしました。まさかここまで間をあけることになるとは思いもしませんでしたが、これにて完結です。
「おまえとのこんやくははきさせてもらうからな!」
わたしはお茶を淹れるためのポットを手に持ちながら、外から聞こえてきたそんな子供の声に一瞬遠い目をしてしまいました。
「アイナ様、お気遣いなく。わたくしにお茶など結構ですわ」
そんな声かけにわたしははっとして、慌ててカップに紅茶を注ぎました。
「い、いえ。こんなものしかお出しできなくてこちらこそ申し訳ありません。しかも近所の子供の騒ぎ声が煩いでしょう? わたしはいつものことなので気にならないのですが、本当に申し訳ありません……」
そう言いながら紅茶の入ったティーカップを差し出すと、ぺこりと頭を下げた。
目の前にいる淑女はリリノア・フォルスターゼ公爵令嬢様。
本来はこんな貴族というよりは平民に近い生活を送っている男爵家でお茶などされる方ではないのです。
最近子供達の流行りになっている婚約破棄ごっこの声が頻繁に聞こえてくる壁の薄い家になんかいるはずのないお方なのですから。
優雅な仕草でわたしが淹れたお茶を飲むリリノア・フォルスターゼ様。
同性であるわたしの目から見ても、完璧な美しさを持つ最高のレディ。
思わずうっとりと見つめてしまいます。
「あの……、何か?」
リリノア様がわたしの凝視に、軽く首を傾けてそう尋ねてきました。
はっ!
いけないいけない、本当に綺麗過ぎて同じ人間とは思えないばかりについ見過ぎてしまいました。
「た、大変ご、ご無礼を……」
「そんな、恐縮しないで。頭を下げなければならないのはわたくしの方なのですから」
ぺこぺこ頭を下げるわたしに、リリノア様はそう仰ってスッと立ち上がられました。
「あなたには大変申し訳なく思っております。わたくしの身勝手であなたにガルス様を押しつけてしまったようで心苦しく思っていたのです。ぜひ一度、直にお会いしてお詫び申し上げたかったのですわ」
そして、これぞ礼の見本かと思われるような綺麗なお辞儀を……。
「っって、ええええー! リリノア様、お顔を上げて下さい! そ、そそそそんな恐れ多い……!」
うっかり見惚れてしまいましたが、ハッと気がつき慌てて立ち上がりそれを制止しました。
将来の王妃様という立場からも、現時点での公爵令嬢という立場からもわたし如きに頭を下げさせるなんてあってはなりません。
そんなわたしをみて、リリノア様はくすりと笑みを漏らした後、その表情に影を落としました。
はわあ、笑顔も陰りのある表情も本当に綺麗です。同じ人間とはとても思えませんねー。
「アイナ様は、本当にお優しい。……ですから、本当に申し訳なく思っているのです。わたくし、あの時アイナ様はガルス様の仰るようにガルス様と想いを通じていらっしゃるとは思えませんでした」
あの時。
婚約破棄現場の時のことですね。
確かにあの状況は寝耳に水の状態でした。
「ですが、わたくしあの時において他にこんな絶好の機会はないと思ってしまったのです。アルフォンス様にこの気持ちを伝え、この想いを成就させる機会は、と……」
ああ確かに。
あの時のリリノア様は随分と積極的でいらっしゃれて、そんなリリノア様もキラキラされてとても美しかったです。
まあ、その時にそこまで考える余裕はなかったので後から思い返せば、ですが。
「そんな自身の身勝手な想いを優先させ、困惑されていらっしゃであろうアイナ様を気遣うことができなかったわたくしに、自分でも嫌気がさしてしまいますわ……」
そ、そんな気遣いを……。
リリノア様、本当に公爵令嬢なのですか?
本来身分の上の方ってそこまで下の身分の者のことを考えない輩ばかりですよ?
さすがパーフェクトの冠を頂いている方ですね。
容姿も性格も性能も身分もすべてが完璧って、この方の何が嫌だったのかガルス様の考えはわたしにはまったく理解できません。
もしわたしがガルス様の立場だったら、絶対にこんな女性離すことはないと断言できますよ?
ハッ!
うっかりまた見惚れてしまいました。
リリノア様の心の憂いを晴らして差し上げなければ!
「そ、そんなお顔なさらないでください。それに、お優しいのはリリノア様の方です。わたしは全然優しくなんかありません」
どっちかというと流されてるかもなだけで。
「それに、ガルス様もそんなに悪い方ではないです。最近はきちんとこちらの話も聞いてくれるようになりましたし」
前もきちんと話を聞いてくれてはいたんですが、解釈が明後日の方向だったんですよね。
「ですから、リリノア様が気にされることは何もありません。大丈夫です。だから、そんなお顔をしないでください。……ね?」
「アイナ様……」
ふわっとリリノア様が微笑まれました。
あうっ、眩しすぎて目が潰れそうです……!
美の化身、美の女神がここにいます……!
「……本当に可愛らしくて心が綺麗なアイナ様。わたくし、あなたと義理の姉妹になれること、本当に嬉しく思いますわ……」
そう仰って、わたしの手をぎゅっと握られるリリノア様。
手が! 手も同じ人間のものとは思えない美しさ……!
「どうぞ、これからもわたくしとよろしくしてくださいませね?」
そう微笑まれるリリノア様に、わたしは曖昧な頷きを返すのがやっとでした。
そう、いつの間にか流れに流されて、わたしはガルス様の婚約者という立場になっていたのです。
何故に。
「兄上、こちらの手配はこれで完了しています。次はこの案件を……」
「うんうん、ありがとうガルス。本当にガルスは手際がいいねー。ご褒美は何がいいかな」
「そんな、その兄上の言葉だけで十分です」
リリノアとの婚約破棄騒動の後、王位継承を放棄した俺は、俺の代わりに次期王座の地位に就いた兄上の補佐をすることとなった。
王である父にも、王妃である母にも見放された俺を、兄上が引き上げてくれたのだ。
兄上がいなければ、馬鹿なことをしでかした王子と、遠方の地へと追いやられていてもおかしくはなかったというのに。
また、実際に兄上の補佐について気がついたことがある。
兄上は執務能力や武術の腕前こそ俺には劣っていると評されていたが、人の適正を見出す能力は桁外れのものがあった。
兄が発令した人事異動により、結果としては前よりも様々な面で動きやすくスムーズになったと評判である。
雑務は誰にでも時間をかければ出来ることだが、最適な場所に最適を人物を割り当てる。
それが出来る人間は非常に少ない。
それが容易に出来る兄上こそ、本当は王座に相応しかったのだと、今の俺は心底そう思うようになったのである。
兄上は、「僕だと貫禄がなくてねえ」と謙遜されるが、兄上の真価はそんなところにあるのではないのだから。
確かに以前、あまり接点のなかった頃の兄上は空気すぎてうっかり視界に入らないことも多々あったことは事実だが。
こうして一緒にいると、何だか温かい陽だまりのそばに身を置いているようで、非常に居心地が良いのである。
それに、兄上に褒められると何だか心が温かくなる。
リリノアが兄上を慕う点も恐らくここにあるのだな、と痛感する。
正直リリノアは未だに苦手だ。
婚約していた当時は、自分より能力が上の彼女が煙たくて仕方がなかった。
比較されることも苦痛であった。
まるで、婚約者よりお前の方が出来が悪くて劣っているのだと暗に言われているようで。
今の立場になってからは、どちらが兄上の役に立てるかで競いあう関係にある。
目障りなのは同じだが、彼女が有能であればあるほど兄上の為になる。
そう思えば、以前感じていた苦痛はどこかに吹き飛んでいた。
男女の差も、立場の差もある。
俺の方がより兄上の役に立ってみせると発奮する材料にもなったくらいだ。
こう感じられるようになった原因は、すべて兄上と……、彼女、アイナのおかげである。
アイナはこんな俺を見放さず、突き放さず、話を聞いてくれた。
何度も求婚をした結果、やっと婚約を承諾してくれた。
兄上とアイナのそばにいる時は、楽に呼吸ができる。
優しい空気に包まている感じがする。
俺は本当に幸せ者だ。
「ああ、そうだ。ここのところ忙しかったから、リリノアとアイナ嬢を招いてお茶会でも催そうか。ガルス、何かお菓子の希望はあるかい?」
幼子に対するように、優しい声色でそう尋ねてくる兄上。
他の者にされたなら、馬鹿にするのかと腹が立ちそうなものだが、兄上は別だ。
「いいえ、何も」
そう、何もいりません。
兄上と、アイナが傍にいてくれれば俺はそれで充分なのです。
そんな想いを込めて兄上にそう返すと、兄上はにっこりと微笑んで頷いてくれた。
まるで、お前の気持ちがすべてわかっているよ、と言ってくれているように。
「今日わたくし、アイナ様のところへ行ってまいりました。初めてお話させて頂きましたが、とても良い方でしたわ」
城に戻ると、わたくしはアルフォンス様の所へ真っすぐと向かいました。
アルフォンス様はまだ執務の最中でしたが、手を止めてわたくしの話を聞いて下さいました。
そのお優しいお顔を見ているだけ心が癒されるようです。
「わたくし、彼女とでしたら仲良くやっていけると思うのです。義理の姉妹となれば、色々とご一緒させて頂くことも多くなるかと思われますし」
どこか、アイナ様はアルフォンス様へ通じるものがありましたわ。あのオドオドされた所を、アルフォンス様の泰然とされたご様子に変えればもっと似てくるに違いありません。
「うんうん、仲良きことは良いことだよね」
そう言ってアルフォンス様は微笑まれました。
ああ、このアルフォンス様の笑顔を眺めていられるだけで、わたくしの心は春の風が吹いてくるようですわ……。
「アイナは、あなたと違っておっとりしているんです。無理をさせてもらっては困りますね」
む。
わたくしが楽しくアルフォンス様とお話していたのに、余計な口を挟んでくるのは……。
「まあ、ずいぶんな仰りようですわね、ガルス様。わたくしが彼女をいじめるとでも?」
婚約者、という括りが外れてわたくしへの言葉遣いは丁寧なものになったけれど、失礼なことを言ってくる所は本当に変わりありませんわね。
キッと目尻を吊り上げるとわたくしはガルス様を睨みつけました。
こうすると、もとからきつめの顔だちが更にきつくなってしまうので、出来ればアルフォンス様にはお見せしたくはないのですが、泣き寝入りは致しません。
「そのようなことは言っていないだろう。俺はただ、あなたの規格外の言動にアイナを付き合わせては彼女がかわいそうだと言っただけだ。アイナは本当に普通の女性なんだ。やることなすことその辺の男の上を軽くいくあなたと一緒にされては困る」
呆れたように言うガルス様に、わたくしは眉を顰めました。
「わたくしが普通の女性ではないと?」
「普通ではないだろう。そうだろう? パーフェクト・リリノア」
「わたくしはパーフェクトなどではありませんわ。その呼び名はおよしになって下さいませ」
「はいはい、そーこーまーで」
睨みあうわたくしとガルス様の間に、両手を広げたアルフォンス様が入ってこられました。
「兄上」
「アルフォンス様」
「仲良くなったのは僕も嬉しいけど、まだ執務中だからね。続きは後でねー」
「仲良くなんかなってません!」
「仲良くなんてなっておりません!」
ガルス様と仲良くなっただなんて、いくらアルフォンス様のお言葉でも心外甚だしいですわ。
「だって君達、だいぶ自分の思ってることそのまま相手に伝えられるようになったでしょ。前みたいに溜めこむんじゃないから健康的だよ、うん」
「前みたいに、ですか?」
「健康的、ですの?」
「うん。子供の頃から思ってたんだよね。もっと素直にお互い心を開けばいいのになーって。でも第三者が指摘しても拗れるだけかなとも思ったし。将来王と王妃になるんだから、それはそれでそんな関係もありなのかななんても思ったりして。ほら、僕も子供だったわけだしさ。でもちょっと反省もしてるんだよね。僕がもっと二人に関わっていけば何か違ってたかなって。その結果あんなことになったわけだし。だけどまあ今はいい関係に落ち着いたみたいだから良かった良かった」
何てこと!
アルフォンス様はずっとわたくしのことを見ていてくれたのですね。
あとついでにガルス様のことも。
嬉しくて気が遠くなりそうです……。
しかしそれはガルス様も同様だったようで。
「あ、兄上……。俺はずっと兄上についてまいります……!」
感極まった様子でそんなことを仰いました。
まあ、わたくしより宣言を先に行うなんて、ガルス様ずるい!
「わ、わたくしもずっとアルフォンス様のおそばにおります!」
「うーん、何か受け止め方の方向が違う気がするけど。うん。やっぱり君達よく似ているよ」
その言葉には釈然としないものが残りますが、アルフォンス様の優しい笑みを見られて、わたくしは今日も幸せを噛みしめるのでした。
「あ、あ、あ、あの、お止めしなくてよろしいのでしょうか……」
オロオロと狼狽えたようにそう声をかけてくるのはアイナ嬢。
場所は城内の花爛漫のサロン。
今日は普段頑張るガルスのご褒美としてお茶会を開いたのだ。
といっても準備をしてくれたのはリリノアだけどね。
参加者は僕とガルスとリリノアとアイナ嬢。
身内だけのものなんだから気軽にねーと言ったのに、さすがパーフェクトリリノア、手抜かりなしだよ。
僕としてはお茶とサンドイッチとお菓子と果物もってその辺の芝生に転がって、でもまったく問題ないんだけど。まあレディ同席にお茶会でそれはないか。
昔はよくしてたんだよねー、それ。それでよく王子らしくないって言われたもんだよ、うん。
で、今の状況なんだけど、城に招かれてコチコチのアイナ嬢を何とかリラックスさせようとみんなであれこれ話しかけ、ようやく緊張が解けてきたところでお茶会開始となったわけなんだけど……。
リリノアとガルスが喧嘩し始めちゃったんだよね。
最近では日常のことなんで、僕としてはのんびり眺めていたわけなんだけど、アイナ嬢はそうは勝手が違ったみたい。
止めるに止められず、あわあわしだしちゃったよ。
「まあ、あれがあの二人のコミュニケーションってことだから、しばらくは放っておいて大丈夫だよ。いよいよになったら僕が止めるしね。その間僕とちょっとお話してよっか」
「は、はい……」
素直に頷くアイナ嬢。
うん、この娘は良い子だ。
こんな子妹に欲しかったんだよねー。
まあ義妹になるからいっかー。
「大丈夫? ガルスのこと。もし無理をしてるんだったら言ってね? 僕は弟であるガルスの幸せを願ってはいるけど、そこに誰かの気持ちを押し殺させるようなことがあってはならないからね」
「は、はい。あ、い、いいえ。突然でびっくりしましたけど、あの、無理、ということは……。これも運命かなって、思いますし……」
「運命かー」
確かに、王子? と言われていたような僕がリリノアに望まれて次期王座の地位にあるのも何か運命って感じなのかもね。
「母も、これで済むならお前は随分いい方だと……、い、いえ! これは何でもありませんが」
ん? いい方って何かな。
でも言葉濁したしここは無理に聞き出さなくてもいっか。また後で機会あったら聞いてみよう。
「まあ、何かあったらいつでも遠慮なく言って? 本当のお兄ちゃんだと思ってさ。僕の力は微力だけど、話きくだけならいつでもどんとこいだしねー」
「は、はい。ありがとうございます……」
そんな会話を交わしながら、アイナ嬢とにこにこと笑みを交わしていると、いつの間にか言い合いをやめたガルスとリリノアがどよーんとした空気を纏ってこちらを見ていた。
「やはりアルフォンス様はわたくしのように可愛げのない女よりアイナ様のような可愛らしい方をお望みなのかしら……。きっとそうですわ……。アルフォンス様に捨てられたらわたくし、わたくし……」
「アイナ……、あんなリラックスした様子で……。やはり兄上のような方の方が……。だがしかし、いやだが……」
そして何かブツブツと陰気に呟いている。
うーん、この二人、やっぱり似た者同士なんだよねー。
出来が良い所とか、器量が良い所とか、人の話をあまり聞いてない所とか、負けず嫌いで張り合う所とか、変な所でネガティブになる所とか……。
「リリノア―? ガルスー? 君達二人が僕らを放っておいて仲良く喧嘩してるから、寂しくって僕達も二人でお話してただけだからねー? もういいなら皆でおしゃべりしよっか。ほらガルス、これ美味しいよ。食べてごらん。何なら僕が食べさせてあげよっか? リリノアもお茶でも飲んで喉潤わせなね? 乾燥させると喉に悪いからね。その小鳥のような美声に何かあったら大変だ」
「あ、兄上! 兄上達を寂しがらせるつもりは……。アイナも、放っておいてすまなかった」
「そんな、アルフォンス様。わたくしの声を小鳥のようだなんて……。嬉しくって倒れてしまいそうですわ……」
うん、二人ともぐいっとテンション上昇だね。
あまりにも簡単過ぎてお兄ちゃんちょっと心配。
「す、すごいです……。あのお二人をこんなあっさりと……」
アイナ嬢も何か感動したような瞳でこっち見てるし。
うーん、僕にはすごいところなんてないんだけどなー。
ただ弟も、幼馴染な婚約者も、将来の義妹も、みんな大事に思ってるだけなんだけど。
こくり、と手にしたカップからお茶を飲む。
うん、お茶の好みも僕ピッタリ。
さすが、リリノア。僕の嗜好をよく理解してるね。
思わず零れた笑みのまま、皆を見つめる。
一時はギスギスになったこともあったけど、本当に良かった。
終わりよければ恙なし、すべてよし。
僕はうんうんと頷くと、にっこり笑ってみんなに声をかけた。
「じゃあ、楽しいお茶会を続けようか」
今後もこの楽しい時間がずっと続くことを願いながら……。
どうもありがとうございました。