Spin off 彼女と彼の天皇賞(下)
灰色の牝馬が持つ能力を滝沢以上に見抜いた人物の運命を、テンプテーションは大きく変えた。
去年の秋、エリザベス女王杯出走へ何とか漕ぎ付けたテンプテーション陣営は、女王杯に騎乗予定のない有力騎手を探し回ったが、ことごとく空振りに終わった。
そんな彼らに声を掛けたのは滝沢昇。
『カトリーヌが空いてるはずですよ』
かくしてテンプテーションにはカトリーヌ=ヴェイユが跨る事となった。
そして彼女を推挙した滝沢を深く後悔に追い込む勝利を、カトリーヌはしてみせた。
出遅れたにも拘らず直線で豪快な末脚を見せ差し切ったテンプテーション以上に、それを成し遂げたカトリーヌは持て囃された。
ヴェイユマジック
魔女カトリーヌ
カトリーヌが見せた大胆な騎乗はそう呼ばれ、女王杯を機に彼女への騎乗依頼は一気に増えていくこととなる。
しかしカトリーヌは自身に舞い込んだ騎手冥利よりも、灰色の彼女が持つ強烈な末脚に魅了されていた。
女王杯でロックブーケを破る大金星をあげたテンプテーション。それに浮かれる調教師に、カトリーヌは更なる進言をしてみせた。
『この子、ジャパンカップやグランプリでもやっていけるわよ』
グランプリとは年の暮れに行われる競馬の総決算、有馬記念のこと。
エリザベス女王杯もG1レースと呼ばれる格の高いレースだが、ジャパンカップや有馬記念は更にその上を行く。そんなレースに、カトリーヌは出走を提案したのだった。
疑い半分の調教師や馬主を説得し、女王杯から二週間後に行われるGIレースジャパンカップへの出走を決意させたカトリーヌは、女王杯と同様テンプテーションを最後方に控えさせ、直線で強烈な追い込みを見せた。
勝つことこそ出来なかったが、十一番人気ながら並み居る強豪たちを相手に二着と大健闘した事実は勝利に値するもので、
『カトリーヌ、次も乗ってくれるか?』
気を良くした馬主や調教師から、彼女は絶大なる信頼を勝ち取った。ジャパンカップの一ヵ月後に行われる有馬記念での騎乗も依頼されるほどに。
だが、彼女が暮れのグランプリに乗ることは叶わない。
『とても魅力的な話ね。でも残念ながら今週で三回目が終わったのよ。ごめんなさいトシゾウ』
カトリーヌが滝沢や藤北と決定的に違う事実、それは外国人であること。
中央競馬の規定により、外国人騎手には年に三回まで短期免許が発行され、そしてその免許を持っている間のみ騎乗が許可される。その期間は一回につき一ヶ月と決められていた。
カトリーヌはその短期免許を所持している一ヶ月間のみ、滝沢や藤北と同じように一般騎手として扱われる。そして三回の短期免許を使いきってしまえば、海外在籍馬に騎乗する際の来日や海外騎手招待レースでもない限り、中央競馬での自由な騎乗は許されなかった。
つまりカトリーヌにとってテンプテーションに騎乗する機会は、短期免許を取得できる合計三ヶ月間に限られる。
その年の十一月末で三度目の短期免許を使いきったカトリーヌは、十二月の有馬記念に騎乗することが出来なかったのだ。
乗りたくても乗ることが叶わない、その事実に寂しく笑うカトリーヌへ、名伯楽とも呼ばれる調教師が思わぬ一言を掛けた。
『カトリーヌ、お前の言うようにテンプテーションは牡馬とやりあっていける。だがな、あいつはお前じゃないとダメなようにワシは思うんじゃよ』
そしてテンプテーションを管理する藤北寿造は子供のように笑いながらこう言った。
『どうだ? 来年の春の天皇賞、こいつに乗りに日本へ来んか?』
この一言が、カトリーヌの運命を大きく変え始めた。
約束どおり今年、年三回しか取得を許されない短期免許の一回を使いカトリーヌは春の天皇賞でテンプテーションに騎乗するためだけに来日することとなる。
そんな彼女を出迎えた藤北寿造はこう言った。
『疾風の馬鹿にお灸を据えてやってくれ』
藤北疾風の父である彼は、あえて息子に苦行を与えろとニッカリと笑ったのだった。
ハネダクラウンをも管理する彼は、滝沢にも言わなかった台詞をカトリーヌにしてみせたのだ。それはスプリングノベルに勝つのはハネダクラウンではなくテンプテーションだと、暗に指摘していた。
その指摘は間違ってはいなかった。事実ハネダクラウンは壮絶な叩き合いの末スプリングノベルに競り負け、既に力尽きているのだから。
――最高の出来よトシゾウ! この勝負、私達が貰ったわ!
そして内で叩き合っていた二頭をこれから、灰色の誘惑と魔女が纏めて飲み込もうとしているのだから。
深く沈みこむように四肢を一杯に伸ばし、そしてグッと縮め、緑一色の芝を大きなストライドで疾駆する灰色の牝馬。
女性らしからぬ力強い手綱さばきで馬を追い、そして女性らしく”しなやか”に鞭を振り下ろす青一色の女性騎手。
しならせながら振り下ろすカトリーヌ=ヴェイユの右鞭の一発が。
空いた右手で馬の首を前に押し込む”追い動作”の一回が。
確実にテンプテーションを前へと駆り立てていく。
――ノボル、貴方の負けよ! 覚悟なさい!
内で火花を散らしていた本命馬と対抗馬など最初から相手にしていなかったかのように、一頭だけ明らかに違う脚色で突き抜ける灰色。
内で争っていた名手とホープを嘲笑うかのように、愛馬を外目一杯に驀進させる青。
――悔しいがテンプテーションにはカトリーヌがお似合いだな
ハネダクラウンの背中で、滝沢は再び溜息をついた。
そして同じ頃、正面スタンドの悲鳴が飛び交う中、先頭を走っていたはずの藤北もようやく気付く。
「て、テンプテーション!」
最大のライバルだと思っていた本命馬ハネダクラウンと、それに唯一肉薄できる存在だったはずの愛馬スプリングノベル。
それらが一蹴されるほどの圧倒的なスピードの差を見せ付けるのはテンプテーション。
先ほどまで自分と滝沢が繰り広げていた名勝負すら、彼女達の為の前座にしか見えないほどの逆転劇。
大きく離れた外目一杯を灰色の誘惑が駆け抜ける。
黒い大観衆を青一色のフランス令嬢が虜にする。
京都競馬場がテンプテーションとカトリーヌ=ヴェイユに魅了されていく。
「す……すげぇっス」
当の藤北でさえ、カトリーヌとテンプテーションに見惚れるほど。
大観衆を魅了する灰色の誘惑が、藤北疾風をも飲み込みながら更にグングンと差を広げていく。
そしてカトリーヌが追うのを止め、身体を起こしながら鞭を持った左手を天に突き上げたのと同時に、
『春の天皇賞を制したのは何と五歳牝馬、テンプテーションです!』
テンプテーションがゴール板を先頭で通過した。
『女王杯に続き、またしても京都競馬場にヴェイユマジック炸裂ーっ!』
カトリーヌとテンプテーションは、場内放送すらも魅了した。
* * *
ゴールを終えた各馬が少しずつ速度を落としながら、第二コーナーへと駆け抜けていく。
「カトリさん」
馬場の一番外、外埒沿いをゆっくりと走っていたテンプテーションに愛馬を近づけながら、藤北は悔し紛れに言った。
「宝塚記念では負けないっスよ」
けれど勝ったはずのカトリーヌは少し寂しげに藤北へと顔を向ける。
「残念ねフジキタ。ワタシは春のグランプリじゃこの娘に乗れないわ」
流暢な日本語で返すカトリーヌのその言葉には哀愁が漂っていた。
「あ……」
そして迂闊なことを言ったと藤北もようやく気付く。
カトリーヌは六月下旬に行われる春のグランプリ宝塚記念の際には、恐らく来日しないだろう。
であればテンプテーションの鞍上には、カトリーヌではない別の誰かが乗っているに違いない。
春の天皇賞のリベンジを果たそうにもテンプテーションにカトリーヌが乗っていないのでは意味がないのだ。
そして秋の天皇賞でもカトリーヌは騎乗しないであろう。
なら……と言葉を捜す藤北に声が掛かる。
「疾風、勝負は秋だ。ジャパンカップで借りを返せばいい」
事情をよく知る滝沢は笑いながら、藤北にそう声を掛けた。
「そうっスね。次は絶対に勝ってみせますから」
藤北もあえてレースを限定せず、漠然とした”次”という言葉でリベンジを誓った。
「覚えておく。楽しみにしてるわね。ハ・ヤ・テ」
カトリーヌがゴーグルを外しながらウインクして見せると、赤く顔を染めながら藤北は滝沢に今聴いた言葉を確認する。
「の、ののの昇さん! かかかかカトリさんが今俺のこと」
「疾風! あれはリップサービスだ。お前も真に受けるなよ!」
「何っスか昇さん! そんなあっさり言わなくったって良いじゃないっスか!」
「事実を言ったまでだ!」
普段は物腰穏やかな滝沢がムキになって反論するその姿に、きっと嫉妬でもしてるんだろうと藤北は軽くいなす。
「さては昇さん、俺に妬いてるんっスね?」
「馬鹿を言うな疾風!」
男二人のやり取りを見つめながら、カトリーヌは満足げな顔を浮かべていた。
そして思い出したかのようにカトリーヌは滝沢に声を掛ける。
「そうそうノボル」
悪戯っぽい笑みを顔一杯に湛えて。
「勝負に勝ったんだから」
ゆっくりと愛馬をハネダクラウンに近づけながら言った。
「約束通り今夜は寝かせないわよ?」
カトリーヌの一言に動揺した滝沢が鞭を落とす。
それと同じくして目を見開く藤北のヘルメットが緑の芝に落ちた。
「ノボル、鞭落としたわよ? フジキタはヘルメット」
声を無くした二人をさもありなんと見つめるカトリーヌは、相変わらずの悪戯っ子顔。
「か、カトリーヌ! お客さんが待ってるぞ!」
何とか意識を取り戻した滝沢はスタンドを指差しながらカトリーヌにヴィクトリーランを促した。
「貴方にしては珍しく動揺してるわね?」
「……お前、そういうことを人前で言うな」
「じゃ、ホテルはノボルに任せたわね。変なところじゃ嫌よ?」
実に艶っぽい言葉を残し、カトリーヌは二人の元を去りスタンドへと逆走をはじめた。
勝者を見送った敗者二名は、しばしフランス令嬢の大胆さに呆気に取られていたが、
「昇さんとカトリさんって……」
「聞くな疾風」
やがて二人とも現実へと舞い戻る。
「昇さん……いつからっスか!?」
「うるさい疾風、検量室行くぞ」
検量室へと馬を走らせるものの耳まで赤く染める天才騎手。それを揶揄しながら若手騎手は後を追った。
「昇さーん! ちょっと詳しく話を聞かせて欲しいっスよ」
「ヘルメット拾って来いよ!」
「昇さんだって鞭落としたじゃないっスか!」
とても敗者とは思えない二人のやり取りは、検量室で職員に注意されるまで続いた。
* * *
『正面スタンドを埋め尽くす大観衆から”ヴェイユ”コールが巻き起こります』
人込みで埋まる京都競馬場の正面スタンドから大歓声が贈られる。
スタンド前を逆走しながら、勝者のみに与えられたヴィクトリーランで観衆を魅了する彼女達。
『牝馬による天皇賞制覇は八年ぶり、同じく牝馬による三千二百メートルの天皇賞制覇は三十年ぶり』
まだもう一周走れるのではないかというほど、ケロッとした表情を見せる芦毛の牝馬。
そしてその背中の上で投げキッスをしながら観衆に応える青い帽子の女性騎手。
『テンプテーションとカトリーヌ=ヴェイユ。大きな、大きな仕事をやってのけました』
大観衆は彼女達に見惚れていた。
しかし。
誰が想像したろうか。
天才騎手滝沢昇と、外国人騎手カトリーヌ=ヴェイユ。
『天皇賞に負けた方が今日のホテルの予約をするのよ? 勿論料金も敗者持ちで。良いわね?』
『あ……ああ。分かった』
伝統の一戦である春の天皇賞の裏で交わされた、二人の間の人には言えないような約束事など。
――今夜はベッドの上で大仕事よ、ノボル
天使のような微笑を顔一杯に湛えるカトリーヌの頭の中は、既に夜の情事の事で一杯だったなど。
――半年もお預けだったんだもの
カトリーヌの微笑が悪魔のそれだと気付いたのは恐らく……滝沢だけだろう。
――空っぽになっても腰が抜けても、絶対に朝までシテやるんだから!
翌月曜日、げっそりと痩せ細った滝沢昇が京都駅新幹線ホームで目撃されたとかされてないとか。
そして半年後、滝沢から天皇賞の事実を聞いた弓削匠は、友人である馬鹿二人に滝沢とカトリーヌを重ねたとか重ねないとか。
それら事実はまた、別の話。
実は当初の予定だとこれを書いていくつもりだったんですよね。
でも騎手の実生活なんて詳しくないから諦めました。
これはこれで面白い話になりそうなのになぁ……。




