第75話
「光」が消えた戦場は、底なしの泥濘へと変貌していた。
**木花咲耶**を奪われ、アメノワカヒコが霧の中に消えた瞬間、マカツ軍の統制は完全に崩壊した。シタテルヒメの放つ黒髪の針山が、逃げ惑う兵士たちの背中を容赦なく貫いていく。
「……、……ッ! サクヤ……、……あ、ああああッ!!」
ニニギは、最愛の者を失った喪失感から、盾を握る力さえ失い、泥の中に膝をついていた。彼の背中には無数の針が深々と突き刺さり、そこから「黄泉の穢れ」が神経を侵食し始めている。
「……、……。……立ちなさい、ニニギ。……無様よ」
その絶望の壁となって立ちはだかったのは、イワナガヒメだった。
彼女は重厚な鎧など身につけていない。風にたなびく無骨な衣の隙間から見えるのは、白銀の光を反射することさえない、どす黒い岩石のような質感に変貌した「肌」だった。
――特異体質・【金剛硬化】。
シタテルヒメが放った数千の針が、イワナガの胸元に、顔に、喉元に直撃する。だが、それらは肉を貫く音を立てる代わりに、硬質な岩に弾かれた火打石のような火花を散らし、空しく地面に落ちた。
「……、……。……無駄よ。……私の肉体には、……変化という『隙』はない」
彼女が拳を握ると、皮膚の節々から「ミシミシ」と大地の軋む音が響く。
イワナガは、針の雨を真っ向から受け止めながら、泥まみれのニニギの襟首を、岩のように硬い手で掴み上げた。
「……、……。……姉貴……、……サクヤが……」
「……分かっているわ。……だからこそ、……今ここで死ぬことは許さない。……王を連れて、……一度引きなさい」
前方では、イワレビコが舶来槍を杖にして、タケミナカタの追撃を重力で逸らし続けていた。だが、王の左腕の小手も、過負荷により黒い蒸気を噴き上げ、限界を告げている。
「……、……。……磐井! ……全軍、……撤退だッ!! ……比良坂の出口まで押し返せッ!!」
磐井造が算木を投げ捨て、残された弩を連射して殿を支援する。
イワナガヒメは、最後尾で独り、出雲の軍勢を正面から見据えた。
「……シタテルヒメ、……タケミナカタ。……妹を泣かせた代償は、……この岩の拳で、……いつか必ず『清算』してあげる」
彼女の全身がさらに黒く、さらに硬く変質し、比良坂の入り口を物理的に塞ぐ「生きた壁」となる。
神殺しの軍勢は、誇りと光を失い、冷たい雨の降る出雲の原生林へと、一時的な敗走を余儀なくされた。




