第74話
空を埋め尽くした黒髪の針が、大気を、大地を、そして戦士たちの視界を漆黒の格子に閉じ込めていた。
シタテルヒメの叫びと共に降り注ぐ「穢れの雨」は、ニニギの盾を削り、イワナガヒメの岩肌を腐食させ、戦場を阿鼻叫喚の地獄へと変えていた。
「……、……っ! くるなッ!! サクヤ、……俺の手を離すなッ!!」
ニニギは、盾を捨て、自らの肉体を屋根代わりにして**木花咲耶**を庇っていた。彼の背中には無数の針が突き刺さり、そこから流れ出す黒い血が、足元の泥濘を不気味に染めている。
だが、その混沌こそが、出雲の「狩人」が待っていた絶好の獲り場だった。
「……やれやれ。……泥の中で必死に『花』を守る姿は、……滑稽で、……そして、とても美しいね」
音もなく、風さえ動かさず。
アメノワカヒコが、ニニギの背後の「死角」へと滑り込んだ。
彼は黄金の弓を放り投げ、懐から取り出したのは、神々を眠らせる禁忌の「香」。
「……、……ッ!? どこから……ッ!!」
ニニギが振り返るよりも早く、アメノワカヒコの掌がサクヤの口を塞いだ。
瞬時に立ち込める甘い死の香り。サクヤの瞳から光が消え、彼女の華奢な身体がアメノワカヒコの腕の中に崩れ落ちた。
「……返せッ!! サクヤを……、……サクヤを返せッ!!」
ニニギが咆哮し、アメノワカヒコに掴みかかろうとする。だが、シタテルヒメの髪の針が、まるで意思を持っているかのようにニニギの両足を大地に縫い付けた。
「……あははッ! 泥の騎士様、……お姫様は僕が預かっていくよ。……黄泉の国なら、……花は枯れずに『永遠の標本』になれるからね」
アメノワカヒコはサクヤを抱きかかえると、霧の中へと跳躍した。
彼の姿は一瞬でかき消え、残されたのは、サクヤが持っていた桃色の花弁が、黒い泥の上に一ひら、寂しく落ちた光景だけだった。
「……、……。……サクヤ……ッ!!!」
前線でタケミナカタと対峙していたイワレビコが、その悲鳴に反応した。
彼の舶来槍が、動揺により僅かに軌道を逸らす。
「……、……。……ほう。……王ともあろう者が、……『女一人』で剣筋を乱すか」
タケミナカタが、吹き飛ばされた十握剣を重力で引き寄せ、不敵な笑みを浮かべた。
「……、……。……アメノワカヒコは、……一度狙った獲物は絶対に逃がさぬ。……お前たちの『光』は、……今、……出雲の深淵に呑み込まれたぞ」
勝利の目前で、最愛の「希望」が奪われた。
マカツ軍に走ったのは、敗北以上の、底知れぬ絶望の冷気だった。




