表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神を殺す王 ―神武東征ダークファンタジー―  作者: 水前寺鯉太郎
神殺しの始まり

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/75

第1話

その朝、空が割れた。

 雲一つない晴天に、突然、縦に亀裂が走った。まるで誰かが青い布を引き裂いたかのように。そこから差し込んでくる光は、太陽のものではなかった。白すぎる。冷たすぎる。生き物の肌を照らすべき光ではなく、石の上に落ちる光だった。

 村人たちは空を見上げ、動きを止めた。

 鍬を持ったまま老人が固まった。桶を抱えた女が立ち尽くした。子供たちだけが、最初は声を上げて笑った。綺麗だと思ったのだろう。だがすぐに笑い声は消えた。大人たちの顔を見たからだ。

 誰もが知っていた。この光が何を意味するか。

「来た」

 誰かが呟いた。声の主を誰も確認しなかった。そんな余裕はなかった。

 亀裂から、神軍が降りてくる。

 最初に現れたのは旗だった。金と白で織られた布が、風もないのにはためいている。次に馬。人間の馬ではない。足が四本ではなく六本あり、鬣の色が炎のように赤く、地面に蹄が触れるたびに土が焦げた。そしてその馬に乗る者たちの顔は、人間に似ているが、人間ではない。目に虹彩がない。全部が白い。口元だけが微かに笑っている。ずっと笑っている。表情が変わらない。

 神軍は十二騎。

 たった十二騎で、この村の四百人を黙らせることができる。それが当然の世界だった。

 城の高台から、イワレビコはそれを見ていた。

 二十七歳。小国マカツの王。父が死んで三年、この地を治めてきた男だ。背は高く、肩幅は広く、顔には既にいくつかの傷がある。戦場で刻まれた傷ではない。神軍の馬に踏みつけられた跡。抗議に行った父の隣で、幼い彼が受けた傷だった。

 彼は黙って見ていた。

 村の広場に、神軍が整列していく。村長が進み出て、頭を下げる。深く、地面が見えるほど深く。神軍の先頭に立つ者が、人間の言葉で、しかし感情のない声で告げる。

「今期の供物を受け取りに来た」

 村長がもう一度頭を下げ、何かを答えた。聞こえなかった。聞こえなくても、イワレビコには内容がわかった。

 準備しております、と言っているのだ。

 間もなく、村の中から人が連れ出されてきた。縄で繋がれているわけではない。檻に入れられているわけでもない。ただ、歩いてくる。うつむいて、足を引きずって、歩いてくる。今期選ばれた者たちが、十五人。老人が二人、女が八人、男が五人。年齢も体格もばらばらだ。神軍が選ぶ基準を、人間は知らない。

 供物。

 その言葉が、イワレビコの口の中で転がった。苦かった。鉄の味がした。

 連れ去られた人間が神の国でどうなるか、誰も知らない。帰ってきた者はいない。伝わってくるのは噂だけだ。神の宮殿を建てるための労働力にされる、という話。神が食べる、という話。ただ死ぬのを見て楽しまれる、という話。どれが本当かわからない。本当かどうかより、全員が帰らないという事実のほうが重かった。

 十五人が、神軍の後ろに整列した。

 その中に、イワレビコは一人の顔を見つけた。

 タカクラジ。幼馴染。子供の頃、毎朝この城の丘を一緒に駆け上がった男。去年、子供が生まれたと笑っていた男。

 タカクラジは空を見ていた。城の方向を見ていた。イワレビコがいることに気づいていたかもしれない。気づいていなかったかもしれない。ただ、空を見ていた。

 神軍の馬が動き出す。

 亀裂はまだ空に開いていた。十五人がその光の中へ吸い込まれていく。タカクラジの背中が、白い光の中に消えていく。

 イワレビコは石の欄干を握った。

 砕けそうなほど、握った。

 夕方、城の一室でイワレビコは一人だった。

 杯に酒が注がれていたが、飲んでいない。ただ机の上に置かれたまま、ずっとそこにあった。窓から見える村は静かだった。あの光が消えた後、誰も声を出していない。泣いている者もいない。泣くことも、もうずっと前に諦めたのかもしれない。

 扉が開いて、老臣のオオクメが入ってきた。

「殿」

「わかっている」

 イワレビコは振り返らずに言った。

「何も言うな」

「しかし」

「何も言うなと言った」

 沈黙。

 オオクメは長く仕えた家臣だ。イワレビコの父の代から仕え、この国のあり方を誰よりも知っている老人だ。彼が今、何を言おうとしているか、イワレビコにはわかっていた。これが現実だ、と言おうとしている。神に逆らうことは死だ、と言おうとしている。先代の王も、その前の王も、皆それを受け入れて生き延びてきたのだ、と言おうとしている。

 全部、本当のことだった。

 だからこそ、聞きたくなかった。

「タカクラジの子は」

 イワレビコは訊いた。

「生後八ヶ月にございます」

「母親は健在か」

「はい」

「家に不自由がないよう、城から手当てを出せ」

「承知しました」

 またオオクメが何か言いかけた。イワレビコはそれより先に言った。

「今日で何度目だ」

「殿?」

「俺が物心ついてから、供物が連れ去られるのを見たのが、今日で何度目だ」

 オオクメは少し間を置いてから、答えた。

「三十一度目にございます」

 三十一度。

 イワレビコは目を閉じた。

 三十一度、あの白い光を見た。三十一度、誰かの背中が消えていくのを見た。三十一度、自分は高台に立って、何もできなかった。父がそうしたように。父の父がそうしたように。

「神を、殺せると思うか」

 声に出るとは思っていなかった。気づいたら、言葉になっていた。

 オオクメが息を飲む音がした。長い沈黙。

「……なりません、殿」

 老臣の声は、叱責でも懇願でもなかった。ただ、悲しそうだった。

「人間には、できぬことにございます」

 イワレビコは答えなかった。

 杯の酒を見た。水面が、かすかに揺れていた。

 できぬことだと、彼も知っていた。知っていた。今日の今日まで、骨の髄まで知っていた。

 だが。

 タカクラジは笑っていた。去年の秋、子供を抱いて、どうしようもなく不格好に笑っていた。神に選ばれるとわかっていたなら、もっと違う顔をしていたはずだ。もっと絶望した顔を。でも彼は知らなかった。来年の秋に自分がいなくなるとは思わずに、笑っていた。

 その笑顔が、白い光の中に消えた。

「下がれ、オオクメ」

「殿」

「下がれ」

 足音が遠ざかり、扉が閉まった。

 イワレビコは立ち上がり、窓枠に手をついて夜の村を見下ろした。灯りが少ない。いつもより少ない。今夜は誰も外に出たくないのだろう。

 風が吹いた。

 遠くで、子供が泣いているような声がした。あるいは獣かもしれない。

 イワレビコは目を細め、空を見上げた。亀裂はもう閉じていた。青黒い夜空に、星だけが光っている。静かだった。何事もなかったかのように静かだった。

 静かであることが、許せなかった。

 彼は長い時間、空を見ていた。

 そして夜が深まった頃、ゆっくりと、口を開いた。

 誰に聞かせるでもなく。神に届くはずもなく。ただ、自分の中で燃えているものを、言葉にした。

「必ず」

 風が止んだ。

「必ず、殺す」

 星が、瞬いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ