第1話
その朝、空が割れた。
雲一つない晴天に、突然、縦に亀裂が走った。まるで誰かが青い布を引き裂いたかのように。そこから差し込んでくる光は、太陽のものではなかった。白すぎる。冷たすぎる。生き物の肌を照らすべき光ではなく、石の上に落ちる光だった。
村人たちは空を見上げ、動きを止めた。
鍬を持ったまま老人が固まった。桶を抱えた女が立ち尽くした。子供たちだけが、最初は声を上げて笑った。綺麗だと思ったのだろう。だがすぐに笑い声は消えた。大人たちの顔を見たからだ。
誰もが知っていた。この光が何を意味するか。
「来た」
誰かが呟いた。声の主を誰も確認しなかった。そんな余裕はなかった。
亀裂から、神軍が降りてくる。
最初に現れたのは旗だった。金と白で織られた布が、風もないのにはためいている。次に馬。人間の馬ではない。足が四本ではなく六本あり、鬣の色が炎のように赤く、地面に蹄が触れるたびに土が焦げた。そしてその馬に乗る者たちの顔は、人間に似ているが、人間ではない。目に虹彩がない。全部が白い。口元だけが微かに笑っている。ずっと笑っている。表情が変わらない。
神軍は十二騎。
たった十二騎で、この村の四百人を黙らせることができる。それが当然の世界だった。
城の高台から、イワレビコはそれを見ていた。
二十七歳。小国マカツの王。父が死んで三年、この地を治めてきた男だ。背は高く、肩幅は広く、顔には既にいくつかの傷がある。戦場で刻まれた傷ではない。神軍の馬に踏みつけられた跡。抗議に行った父の隣で、幼い彼が受けた傷だった。
彼は黙って見ていた。
村の広場に、神軍が整列していく。村長が進み出て、頭を下げる。深く、地面が見えるほど深く。神軍の先頭に立つ者が、人間の言葉で、しかし感情のない声で告げる。
「今期の供物を受け取りに来た」
村長がもう一度頭を下げ、何かを答えた。聞こえなかった。聞こえなくても、イワレビコには内容がわかった。
準備しております、と言っているのだ。
間もなく、村の中から人が連れ出されてきた。縄で繋がれているわけではない。檻に入れられているわけでもない。ただ、歩いてくる。うつむいて、足を引きずって、歩いてくる。今期選ばれた者たちが、十五人。老人が二人、女が八人、男が五人。年齢も体格もばらばらだ。神軍が選ぶ基準を、人間は知らない。
供物。
その言葉が、イワレビコの口の中で転がった。苦かった。鉄の味がした。
連れ去られた人間が神の国でどうなるか、誰も知らない。帰ってきた者はいない。伝わってくるのは噂だけだ。神の宮殿を建てるための労働力にされる、という話。神が食べる、という話。ただ死ぬのを見て楽しまれる、という話。どれが本当かわからない。本当かどうかより、全員が帰らないという事実のほうが重かった。
十五人が、神軍の後ろに整列した。
その中に、イワレビコは一人の顔を見つけた。
タカクラジ。幼馴染。子供の頃、毎朝この城の丘を一緒に駆け上がった男。去年、子供が生まれたと笑っていた男。
タカクラジは空を見ていた。城の方向を見ていた。イワレビコがいることに気づいていたかもしれない。気づいていなかったかもしれない。ただ、空を見ていた。
神軍の馬が動き出す。
亀裂はまだ空に開いていた。十五人がその光の中へ吸い込まれていく。タカクラジの背中が、白い光の中に消えていく。
イワレビコは石の欄干を握った。
砕けそうなほど、握った。
夕方、城の一室でイワレビコは一人だった。
杯に酒が注がれていたが、飲んでいない。ただ机の上に置かれたまま、ずっとそこにあった。窓から見える村は静かだった。あの光が消えた後、誰も声を出していない。泣いている者もいない。泣くことも、もうずっと前に諦めたのかもしれない。
扉が開いて、老臣のオオクメが入ってきた。
「殿」
「わかっている」
イワレビコは振り返らずに言った。
「何も言うな」
「しかし」
「何も言うなと言った」
沈黙。
オオクメは長く仕えた家臣だ。イワレビコの父の代から仕え、この国のあり方を誰よりも知っている老人だ。彼が今、何を言おうとしているか、イワレビコにはわかっていた。これが現実だ、と言おうとしている。神に逆らうことは死だ、と言おうとしている。先代の王も、その前の王も、皆それを受け入れて生き延びてきたのだ、と言おうとしている。
全部、本当のことだった。
だからこそ、聞きたくなかった。
「タカクラジの子は」
イワレビコは訊いた。
「生後八ヶ月にございます」
「母親は健在か」
「はい」
「家に不自由がないよう、城から手当てを出せ」
「承知しました」
またオオクメが何か言いかけた。イワレビコはそれより先に言った。
「今日で何度目だ」
「殿?」
「俺が物心ついてから、供物が連れ去られるのを見たのが、今日で何度目だ」
オオクメは少し間を置いてから、答えた。
「三十一度目にございます」
三十一度。
イワレビコは目を閉じた。
三十一度、あの白い光を見た。三十一度、誰かの背中が消えていくのを見た。三十一度、自分は高台に立って、何もできなかった。父がそうしたように。父の父がそうしたように。
「神を、殺せると思うか」
声に出るとは思っていなかった。気づいたら、言葉になっていた。
オオクメが息を飲む音がした。長い沈黙。
「……なりません、殿」
老臣の声は、叱責でも懇願でもなかった。ただ、悲しそうだった。
「人間には、できぬことにございます」
イワレビコは答えなかった。
杯の酒を見た。水面が、かすかに揺れていた。
できぬことだと、彼も知っていた。知っていた。今日の今日まで、骨の髄まで知っていた。
だが。
タカクラジは笑っていた。去年の秋、子供を抱いて、どうしようもなく不格好に笑っていた。神に選ばれるとわかっていたなら、もっと違う顔をしていたはずだ。もっと絶望した顔を。でも彼は知らなかった。来年の秋に自分がいなくなるとは思わずに、笑っていた。
その笑顔が、白い光の中に消えた。
「下がれ、オオクメ」
「殿」
「下がれ」
足音が遠ざかり、扉が閉まった。
イワレビコは立ち上がり、窓枠に手をついて夜の村を見下ろした。灯りが少ない。いつもより少ない。今夜は誰も外に出たくないのだろう。
風が吹いた。
遠くで、子供が泣いているような声がした。あるいは獣かもしれない。
イワレビコは目を細め、空を見上げた。亀裂はもう閉じていた。青黒い夜空に、星だけが光っている。静かだった。何事もなかったかのように静かだった。
静かであることが、許せなかった。
彼は長い時間、空を見ていた。
そして夜が深まった頃、ゆっくりと、口を開いた。
誰に聞かせるでもなく。神に届くはずもなく。ただ、自分の中で燃えているものを、言葉にした。
「必ず」
風が止んだ。
「必ず、殺す」
星が、瞬いた。




