旅立ち
屋敷の中を片付けて、主がいなくてもいいようにタバサやガルムへの言付けも済ませた。
いよいよ子爵領へ向かう五か月の馬車旅が始まる。
昨日は長期旅行に必要な品物の買い出しをして、今朝からは持っていく荷物の準備していたミリアたちだったが、どうも思わぬ客人を迎えることになりそうだ。
その時ミリアは二階の部屋にいて、旅行鞄に詰め込んだ荷物をもう一度点検していた。
階下の玄関で話し声が聞こえていたので、誰か来ていたようだ。しばらくすると、ルタが足早に部屋までやってきた。
「奥様、旦那様はどちらですか? 執務室にいらっしゃらないんです」
「ああ、マイルズは歯ブラシを買い忘れたと言って、買い物に出かけたわ。ついでに職場の人に、明日、王都を離れると挨拶してくるんですって」
ミリアの話を聞いて、ルタは慌てていた。
「それは長くかかるんでしょうか?」
「まぁ、何かあるの?」
「先程、財務大臣のお付きの方が先ぶれに来られたんです。話したいことがあるから、昼過ぎにでもフォレス子爵夫妻に時間を取って欲しいと言われました。奥様、財務大臣といえばセリーナ様のお父様でいらっしゃいますよね」
「ええ、スティングレー侯爵閣下よ。おじさまは何の用でいらっしゃるのかしら? セリーナは一緒に来ると言っていたの?」
「いいえ、同行者については何もおっしゃいませんでした……でもご友人の親として訪ねて来られるのなら、侯爵家からの先ぶれを使われるでしょう?」
「そうね。とにかくガルムにマイルズを探させてちょうだい。たぶん昼食までには戻ってくるつもりだと思うんだけど」
「わかりました」
ルタが部屋から出ていくのを眺めながら、ミリアは財務大臣が私たちに何の話があるのかしらと考えていた。
子爵家の財政報告に不備でも見つかったとか?
でもそんなことを大臣が直接、屋敷に訪ねてきてまで話すかしら?
昼過ぎに訪ねてきたスティングレー侯爵は、ミリアの顔を見るとすぐにハグをしてくれた。そして思っていたより元気そうな顔をしていると言って、ひどく喜んでくれた。
「安心したよ。毎日、セリーナの愚痴を聞いていたら、ミリアが不憫でたまらなくなってね。あの時、陛下に遠慮なんかしないで、うちの息子の嫁にもらっておくんだったと後悔していたんだ。あ、いや、君のことをどうこう言うつもりはないんだけどね。失礼した、フォレス子爵」
「い、いえ」
挨拶が済んで応接室に落ち着くと、スティングレー侯爵は持ってきた資料を机の上に順番に並べ、マイルズによく見えるようにした。
「君たちも旅に出る前の忙しい時だから、簡潔に説明するよ。実はね、ミリアが婚約破棄されたことで、多額の賠償金が王家からすでにペンデュラム公爵家に支払われている。ただ、最近の酷い噂のことを考えると、前回の賠償金だけでは少なすぎるのではないかという声が、あちこちからあがっている」
「え? でも、噂はだいぶ落ち着いてきたと思うんですが」
「そうですね、職場でも最後の頃にはそんなに気の毒がられなくなりました」
ミリアたちの呑気な受け止め方に、侯爵は笑いながら頭を振った。
「君たちは心が広いねぇ。あんなに悪しざまにされて、散々な目に遭ったのに。でも今の二人の様子をセリーナに話してやったら喜ぶよ。ゴホン、とにかく王家としてはミリアに手厚く償いをしたというポーズが必要なわけだ。ここは黙って受け取ってやってほしい」
「はぁ」
「金銭での支払いというのは、すぐ忘れられるからね。今回は、ミリアの婚家へ領地を与えようという話になった。実際、ミリアがリチャード王子と結婚していたら、新公爵領として下げ渡す予定だった土地なんだよ。ここからは南西方面になるが、フォレス子爵領の近くに港町があるだろ?」
「え? まさか、王領にあるポートファリオですか?!」
マイルズはすぐに分かったらしい。酷く驚いていた。
ミリアは地理で習ったマルベラン王国の地図を頭の中に浮かべていた。
うちの公爵家の領地からはだいぶ南の方ね。
確か、海産物を王都に運ぶために、公爵家でも工事費を供出して街道を整備しなければならないんだと、いつかお父様がおっしゃっていたことがあったわ。
王都の経済発展のためというのが、その街道整備のお題目だった。けれど実際は、軍港にもなる港へ、王都から向かう軍隊をいかに早く移動させるかという、隠れた目的があったように思う。
そんな重要な拠点である港町を、フォレス子爵家へ譲渡するというのだろうか?
「二人とも、この意味がよくわかっているようだね。譲渡される領地は、あの飛び地になっている南の王領の三分の一になる。ただポートファリオが含まれるというのは大きい。上手くやると海外貿易でも儲けられるからね。フォレス子爵領は、以前の南部災害で大打撃を負った。農業だけではなく、漁業や交易からも収益が見込めるということは、安定的な領地経営につながる。それは子爵家だけではなく領民にとっても望ましいことだろ」
「……はい」
「これは、ペンデュラム公爵が王家、いや国から勝ち取った、君たちへの餞なんだよ」
侯爵は、これからの領地経営のやり方いかんによっては、三年後には伯爵位への陞爵もありうるというようなことも話し続けていたが、ミリアはそんなことは聞いていなかった。
お父様は、ここまで考えて私の結婚相手を見つけてくれたのね。
『すまん、ミリア。父の見る目がないばかりに、お前に辛い人生を強いてしまうことになった』
滅多と口にしない、父親からの弱気な謝罪の言葉。
あの時、どんな思いで娘の婚約破棄を受け止めたのだろう。
こんな経験をしたからこそわかる、父親の深い愛情。
婚約破棄……約束されていた確実な未来からの拒絶。
誰もがミリアを不幸な女性と言うだろう。
けれどあのままリチャードと結婚していたら、優しくて照れ屋で真面目なマイルズには出会えなかった。
賑やかでお茶目なタバサや、寡黙で器用なガルムとも知り合うことがなかった。
変わらぬセリーナたちの友情や、今も助けてくれているルタの忠心にも、ここまで感謝することはなかっただろう。
こんな短い間に経験したことなのに、ミリアにとってはどの場面もかけがえのない宝物になっている。
人は不幸に陥った時にこそ、得られるものも大きいのかもしれない。
たくさんの気づきを与えてくれたこの経験を、ミリアはこれからの人生に生かしていこうと思った。
夏の入道雲が南の空に立ちのぼっている。
「今日は暑くなりそうね」
「ああ、だけど君と一緒に旅に出るのは、なんだかワクワクするな」
ミリアとマイルズは荷馬車の御者台で微笑み合った。
大きな幌をかけている不格好な荷馬車に、まさか子爵夫妻が乗っているとは誰も思わないだろう。
ゴトゴトと鳴る車輪の音が、二人を新たな未来へと運んで行った。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。