1 帰って来た女
東京の桜がアスファルトの路面を染め始めた四月上旬、あの女が帰って来た。我が社を退社してインドに行った佐倉響子帰国の噂が本当だったことを、上司が教えてくれたのは月曜日のことだった。その日の社内は佐倉色に染まった。僕はすでに佐倉色に染まっていたので改めて歓喜することはなかった。むしろその逆だった。同期で中途入社した僕には何の相談もなく、会社を辞めておいて帰って来ても連絡さえなかった。しかも横浜の店に勤めているとはどういう了見だろうか。僕は非常に不愉快だった。その週の水曜日に会社に来ることも、僕ではなく上司と約束をしていた。僕は完全に無視されていた。とは言えこちらから連絡をする手立てもなく文句を言うことさえできなかった。僕は水曜日に佐倉がやって来たら必ず文句を言ってやろうと決意した。
水曜日の昼休みに彼女はやって来た。僕は上司のチーフに声をかけた。
「佐倉がショールームに来ているみたいですよ」
「食事中だから遠慮するよ」とチーフは答えた。人気者の登場にあまり関心がなさそうなチーフだった。僕は急いでエレベーターホールに向かった。ところがエレベーターホールは社員で溢れかえっていたので非常階段で下りることにした。こちらも人が多かったがエレベーターよりはましだった。ショールームに到着するとすでに大勢の社員が集まっていた。同じ時期に入社した佐倉の人気は大したものだった。佐倉は四方八方から声をかけられていた。文句を言ってやるつもりだったが声をかけるのも難しかった。佐倉は受付のコに何か言うとショールームの中心に立って両手で歓声を制止した。
「皆の衆、お元気そうでなにより!」佐倉は相変わらずブッ飛んでいた。
「おっ!お出ましですね。チーフに呼ばれたんですからいてくれなきゃ困りますよ」と言ってチーフに手を振った。手を振られたチーフは困ると言われて困った顔をした。
「おーい、みんなチーフが通れないよ」佐倉が言うとチーフと佐倉の間にいた社員たちの群れが割れて道が出来た。チーフは群衆の間を抜けて佐倉の側まで行った。僕は群れの後方からそれを眺めていた。佐倉に気づかれもしない自分が情けなくなった。