0. プロローグ (3)
「私をイシュマエルと呼べ。(Call me Ishmael.)」
ガタガタと揺れる旧式ディーゼルエンジンの音を突き抜けて、唐突な古典小説の冒頭一文が流れ出した。後部座席では研修医がアンジェリカの破れた肺胞を焼き処置する際の、血の臭い混じりの悲鳴が響いていた。しかし端末をトントン叩くアベルの声音は、身の毛がよだつほど平静だった。
まるで血の溜まった穴の真ん中で、ひとりとぼけてページをめくる幽霊のように。
「……イシュマエル?」
「ああ、最近『白鯨』を面白く読んでいて。でも少し長いですよね。」
それが何だよオタクめ、と叫びたいのをやっとこらえたスパイクはため息をついて、助手席の引き出しを探った。せめて拳銃の一つでもないかと思って。
「アベル(Abel)と呼んでください。それでも何度か調整しましたから、私は常連だと思っていたのですが。名前をよく覚えられないんですか?」
「あ、そんな頭が良ければ俺がこんなことをなんでするんだ。」
「まあそうですね。私も昨日の昼飯に何を食べたかよく覚えていないですし。」
後ろでは破れた肺の応急治療が佳境で悲鳴が聞こえるのに、アベルはまったく気にしていないようだった。ひどく慣れているように。
「前に警察、警察がいるじゃないか!」
スパイクは顔をしかめてドアの上の取っ手をぎゅっと握りしめた。スパイクの強化された腕のせいで取っ手が悲鳴を上げたが、アベルは特に気にしない様子で端末を操作しながらハンドルを維持した。
「おい!警察を避けろって!」
「あ、お前たちが警察を呼んでおいて今どこに行けって言うんだ。これが最善だ。」
「このくそ!みんなしっかり掴まれ!」
「まったく……人は信用がないな。殺伐とした世の中だよ、本当に。」
アベルはため息をついて端末に浮かんだ赤い領域をタッチした。すると荷台にある荷物からモーターが回る音が聞こえ始めた。
「重機関銃?あれじゃ話にならないって!あそこにあるの見えないか!?装甲車じゃないか!」
装甲技術がひどく発展して、一般的な警察車両だとしても車を押して転覆させたり突破したりすることは不可能になって久しいのに。アベルはまったく気にかけない様子で前進し続けていた。
「おい、くそ止まれって!このままじゃ全員死ぬぞ!」
結局スパイクはアベルに飛びかかってハンドルを奪おうとしたが……
〔ドン!〕
アベルは右手でスパイクの顔を短く叩き落とすことで対応を終えた。
「重機関銃とは誰も言っていない。落ち着いて。
おい後ろ!揺れるぞ!」
〔ドン!ドン!〕
車がガタガタと二度揺れた。トラックの荷台にある何かが車体を揺らしているようで、すぐに目に見える変化はなかった。
「停止!停止!止まらなければ発砲……」
車の外では警察が突進するトラックに拡声器を向けて止まれと叫んでいたが……
〔シュバッ!〕
すかさず煙幕が展開されて警察兵力を完全に包んだ。ただの白い煙幕ではなく、濃いオレンジに近い煙幕だった。しかも微妙な温度を持っていて、熱映像装備を妨害した。
〔ジジジジン!〕
さらに続いて、コイルを巻いた鉄の塊が落ちた。着弾地点の周辺に強力なEMP反応が生じる。
警官たちの頭に埋め込まれたチップから始まって全ての通信と電子機器が無力化され、視界まで封鎖された警察兵力は……右往左往しながらアベルのトラックを把握することもできず、ただ通してしまった。
「突破完了。あとは医者に行けばいいんですか?」
アベルは端末を操作してトラックの荷台に再びシートをかけた。
「くそ、なんで天使がアスフォデル(Asphodel)まで来たんだ?」
涙が出るほど安堵したスパイクが感情を抑えられずに罵声を吐いた。車の窓の外に見える大型広告板にはこう書いてあった。
〔米国東部の宝石、アスフォデルへようこそ(Welcome to Asphodel, the jewel of the eastern United States!)!〕
「地獄にしてはぬるいじゃないですか。」
アベルはアクセルペダルから足を離さず言った。
「副長、昨日何かあったんですか?」
勤務時間の午前10時にコーヒーを持ってちょっと一息ついていたら、後ろから部下の社員が声をかけた。
「え?いや。たいしたことじゃない。」
副長は努めて無関心を装いながら振り返り、大したことではないと答えた。しかしコーヒーカップを握る指先は、オーバーヒートしたロボットのように微かに震えていた。
昨夜指先に触れたアンジェリカの湿った血と冷えていく体温が、事務所の蛍光灯の下で生臭い匂いを漂わせているようで——彼は結局そっと手を背中の後ろへと隠した。
「おい、スパイク。俺がお前のことが嫌いでそうしたわけじゃなくて……」
医者が緊急手術の準備をする最中、アンジェリカはスパイクばかり呼び続けた。仕方なく落ち着かせようと手を握ってやったら、あんなことを言い始めた。
「好きなのを態度に出したくなかっただけよ。」
脈が消えていくアンジェリカの体は恐ろしいほど軽かった。金属の混じった手が彼女の鮮血でじっとりと濡れていく間、スパイクのDNIは過負荷のかかった人工知能のように白く点滅するだけだった。いかなる慰めも、いかなる防衛コードも機能しなかった。
ただ、固まっていく手をぎゅっと握りしめること以外には。
「これ私の家の住所だ。私に何かあったら代わりに妹のことを頼む。私に似てるから、少しでも私のことを思い出してくれれば。」
アンジェリカはDNIで通信しながら自分の住所を残した。
「え、突然なんで……」
「好きだって言ったんだよ、このバカ。」
「え?俺を?なんで?」
「好きな人を自分で決められるか?交通事故みたいに気持ちが動くものでしょ。」
「それはどういう……」
「ずっと突っかかって悪かったよ、このバカ。でも、お前はこうでもしないと、私に興味も持たないじゃない?」
「え?」
頭では理解したのに、何を言っているのかさっぱり分からなくて、ぼんやりした顔で聞き返すだけだった。
「お前のあの頼りない命中率を補正しようと、専用の火器管制を入れて他の銃が使えなくなったんだよ。他の銃も使いたかったけど、そうするとDNIまで変えなきゃいけないから値段が高くなりすぎて。」
「なんでそこまで……」
「好きだから。」
「いや、だからなんで?」
「理由は適当に当てはめてみて。私も分からないから。」
「だから、理由も分からないのに俺のために……」
「それが愛ってものじゃない。お前はまだやったことがないから分からないんでしょ。」
その言葉を言い終えたアンジェリカは医者がかけてくれるマスクを着けて、どうしていいか分からないスパイクをそのままにして深呼吸をした。
「……」
スパイクは血がついて力の抜けていく手をぎゅっと握っていた。何か言わなければならなかったが、言葉が浮かばなくて何も言えなかった。その様子を見ながらアンジェリカはかすかに笑って、麻酔に落ちていった。
「税金がまた上がりました。正社員で週6日コンピューターの前に座って打ち続けても、一日一食食べれば財布が空になりますよ。私も夜に走れる仕事でも探してみなければ。」
後輩の素朴な絶望を聞きながら副長は机の上の決裁書類の山を見た。この華やかで無機質なオフィスから漂うコピー機の匂いと同じくらい、夜の街に散らばる血の臭いもアスフォデルでは酷く日常的な光景に過ぎなかった。
コーヒーを飲んでいた副長はため息をつくだけで何も言わなかった。
「先輩。もしかして良い仕事はありませんか?」
「……仕事でもちゃんとやれ、このバカ。お前今月の実績が悪くて上が悩んでいるようだぞ。」
「えっ!私がですか!?」
「不法なことはできるだけ時間をかけずにやれ。お前、今二年目だったか?」
「そうです……」
「その頃に家族の支援が切れて、先が見えなくなり始める時期だ。よく考えろ。ある面では会社に就職するよりずっと大変だぞ。」
副長はシャツのポケットから慣れた手つきでタバコを取り出して口にくわえた。
「でも私は正社員として週6日働いているのに、なんで最低限の生活をするためにこんなことを探さなきゃいけないんですか?社会がおかしいんじゃないですか?」
不満を言う後輩を見る副長は遠い目をした。社会人になって今年で6年目。数多くの危機を乗り越えてきて、結局不法なことにも手を出すようになった。しかもこれはもう特別なことではなく、社会人なら誰もが一歩は踏み込む通過儀礼に近いものへと変わっていた。
だから副長も同じ質問を先輩にしたことがあった。あの時に聞いた答えがひどいものだった。
「責任を問えるような問題なのか?俺たちが生まれたことが間違いではないと誰が保証してくれるんだ?」
そしてその言葉を同じように後輩に投げかける副長は——今この言葉に隠れた意味が分かるような気がした。
「間違いと関係なく、俺たちは生き残らなければならない。」
馬鹿げた倫理と道徳は飯を食わせてくれないのだから。
「俺たちはアスフォデル(Asphodel)に住んでいるんだよ。米国東部で最高の犯罪率を持つ都市に。」
誰が作った都市か知らないが、頭のおかしいネーミングセンスだよ。都市の名前をエジプト神話に出てくる黄泉の国に咲く花の名前から取った。地獄に花が咲く場所なんて地獄しかないじゃないか。
「ここは地獄だ。ここで生き残らなければならない。手段と方法を選ばずに。」
生きている者の倫理と道徳を冥府に求めることほど無駄なことはないだろうから。
「でも、ここが地獄だとしても、生きていくことが間違いではないはずだ。」
先輩は飲み終わったコーヒーをゴミ箱に投げ込んで立ち上がった。
「え?どこへ行くんですか?そちらは建物外部のエレベーター……」
「早退。」
エレベーターに乗った先輩は晴れ晴れとした笑みを浮かべながらそう言った。
「えっ?」
「見舞いに行くんだ。」
「いや、今仕事が山積みで……」
「嫌なら切れと言え。お前が言ったように最低限の生活もできない仕事なんて……」
「先輩!」
苦々しく笑いながらエレベーターの閉じるボタンを押した。喉元を締め付けていた社会人の証、ぴしっとアイロンのかかったネクタイが床に落ちた。
彼はネクタイを外した。そして愛を見つけた。




