第八十九話 正しさを担保する者
ナホルシア・ソール・オリエンスには、朝の習慣がある。
ベッドの上、日が昇るのと同時に目を覚ました彼女は、用意させた冷たい水で顔を洗う。それから、服を着替え、向かうのは、とある部屋だった。
普段、外部の者の目に触れることのない、その部屋の壁には、歴代のオリエンス家の当主たちの肖像画が掲げられている。
大公の肖像画が一枚、そして、それ以前の十数代分の『辺境伯』の肖像画だ。
その一枚、一枚の前でナホルシアは足を止める。
祖霊を拝むのは、彼らの中央正教会にはない思想だ。ゆえに、歴代の当主たちを拝んだりはしない。ただ、その姿を目に焼き付けることで、オリエンスの名を継ぐ者に相応しく生きることを己に誓う、これはナホルシア個人の儀式であった。
部屋の端、初代辺境伯の前でナホルシアは立ち止まった。
ナホルシアと同じ名を持つ初代、ナホルシア・オリエンスは女性の辺境伯であった。
サンクランド国境、辺境を守る誇り高き王の縁戚、オリエンス家。
彼らの一族が『大公』家となったのは、ごく最近のこと、ナホルシアの父の時代のことであった。
もともと、オリエンス辺境伯家には二つの役割が与えられていた。
一つは言うまでもなく、栄光あるサンクランドの国境を守ること。
そして、もう一つは、暴虐なる悪王が立った時に、諸侯と協力し、それを討ち果たすこと。
掲げる正義の正当性を確保するための自浄のための仕組み。オリエンス辺境伯家は、サンクランドの守り手にして、「サンクランドの正しさ」を保つための一族であった。
王の権威の強く表れる土地である王都ソル・サリエンテから最も離れた場所にある辺境に、彼らの領地があるのは、そのためだった。
王都から逃れてきた諸侯を糾合しやすいよう、そして、ヴェールガその他の国からの助けを得やすいように、と。
初代サンクランド国王は、英明な人だった。
彼は、神の選びを得た王であったとしても、人であれば罪を犯すということを、きちんと神聖典から読み解いていた。
ゆえに、国の腐敗を防ぐために、オリエンス辺境伯家を国境に配したのだ。
そんな、王家の盾にして、王家の清さを保つための一族、オリエンス辺境伯家に、先代の御世、大きな変化の時が訪れた。
時の第二王子が婿入りしたのだ。
辺境伯は大公となり、血は濃くなり、王家とオリエンス家は近しくなった。
――愚かなことを……。
入り婿にして、家督を継ぐことになった大公の肖像画の前で、ナホルシアは静かに息を吐く。
――王家に対して、一定の距離を取り、ただ冷静にその有様を見つめ、その正義を問いながら、必要な時には剣を取る。それこそが我らに求められることであったというのに。
ナホルシアは『辺境伯』という爵位に誇りを持っていた。大公よりも遥かに、それは誇り高きものだったはずだった。
課された務めにも、オリエンス家が果たしてきた役割にも、祖先の尽力によって保たれてきた王の正義にも、揺るぎなき誇りと自負を持っていた。
――神に選ばれし王は、過ちを犯さない。されど万が一、王が過ちを犯した際には、他国の介入を経ることなく、正すことができる。自浄の象徴たる我らオリエンス家が、王家と慣れ合うなど愚かなことだというのに……。
ナホルシアは静かに父の肖像画を見上げる。
先代オリエンス大公、優しく、朗らかな父だった。
ナホルシアにも弟たちにも、無償の愛を与え、慈しんでくれた人だった。
王家と辺境伯家が親しくなり、サンクランドは一層の繁栄をすると……。みなが仲良く生きられれば良いと、そう信じた父だった。
人間的には善良で、領主としても水準の人であったのだろうが、惜しむらくは、統治者としての知恵には欠ける人だった。
オリエンス家がこの地に封じられた事情を、理解しきれなかった。
――何者の策謀であったのかはわからないけれど、今や、オリエンス大公家は、王家と一体のものと見做されている。分立すべきものであった二つのものが、一つとなってしまった。この先、王の不正を正すことは、もはや、オリエンス家にはできない。変質し、取り込まれてしまったのであれば、逆に、王家への影響力を増すしかない。
ロタリアを王妃とし、シオンを掣肘する。
自浄ではなく、最初から過たぬよう……裏からサンクランドの正しさを確保すること。それが、ナホルシアの願いであった。
――王位継承権一位のシオン坊が、王を継ぐ者に相応しくないことを言い出した。ならば、それを正さなければならない。それこそが、我らオリエンスに課された務め。
神に選ばれし正しき王が統べる国、サンクランド王国。その伝統を守り維持することこそが、辺境伯の末裔たる自身の仕事である、と、ナホルシアは捉えているのだ。
「しかし……帝国のミーア姫はなにをしに来るのかしらね……」
パーティーであった、のほほんとした顔の皇女を思い出す。
相手は帝国の叡智と呼ばれる存在だ。ランプロン伯はもちろん、あのエイブラムが認めたほどの、知力の持ち主である。
「ただ、パライナ祭の視察だけではないでしょうし。温室の情報がいち早くほしかったというわけでもないでしょうけど……」
この時期に、なぜ来るのか……なんのために来るのか……。
「いずれにせよ、警戒するに越したことはない」
そうして、先祖の間で祈りを捧げた後、ナホルシアは部屋を後にするのであった。
書いてるうちにナホルシアのイメージが少し変わってきまして、こんな感じになりました。
それでは、また再来週お会いできれば幸いです。