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5 来年はもっと

「あんたさあ… 苛ついてるのは別に構わないけどさあ、あたしにあたるのはよしてよ」


 FAVはうるさそうに髪をかきあげながら言う。


「ん? イライラしてる?あたしが?」

「気付いてねえ?」


 TEARは起きぬけからぱっちりとした目で時計を見る。既に九時をまわっていた。平日でなくて良かった、と彼女は心底思う。


「…うーん… やっぱりそうだったか」

「P子さんじゃあるまいし… そんなあんた自分のことで他人事のよーな言い方しないでよっ」


 ぴょん、とFAVは立ち上がった。ふわふわとしたおさまりの悪い髪をそのへんに転がっていたバンダナで結ぶと、FAVは部屋の隅にあるキッチンに立った。蛇口から流れる水の音がステンレスの流し台に響く。


「ごめん、確かに苛立ってた」


 当初は自分が彼女を落ちつかせるはずだったのに。


「何かあったん?」


 FAVは注意深く訊ねる。


「何が、とはっきり言い表せるもんならいーんだけどね…」


 珍しい、とFAVは思った。この女がこういう言い方をするとは。


「実家から何か言ってきた?」

「いやそんなことであたしが動じる訳がない…」

「じゃあ何よ、言わなくちゃあたしにゃ判らないのよ」

「HISAKAさあ」

「HISAKA?」


 その単語が出てくるとは思いもよらなかった。FAVは目を丸くする。洗ったばかりの顔からぽとぽとと水が滴り落ちるので、慌ててまた流しの方をむく。TEARはその様子を見て、取り込んだ洗濯ものの中からタオルを一枚放ってやる。


「サンキュ」

「会社っていくらでできるかFAVさん知ってる?」

「? 知らない」


 反射的に答える。


「知るわきゃねーじゃん。でもあいつが言うんだから、そう滅茶苦茶多くはねーんじゃない?」

「最低二百万はいるんだよ、資本金って奴は」

「へ」

「株式だか有限だか、そのへんはよく知らないけれどさ、でもHISAKAとマリコさんが頭そろえて『ちゃんとした会社』っていうんだから、きっちり資本金そろえて、人揃えて、きっちり文書揃えて…そういうことするんだと思うんだ」

「はあ。そんなにかかるの」

「かかるの。以前に工場にいたひとが独立するときにこれこれこれだけかかってどーの、ってぼやいてたことを思い出してさあ」

「へえ…」


 言われてみれば、バイト先の美容院でも、独立開業にはずいぶん金がいるということはFAVも聞いていた。確かに一つ事業を起こす時にはそれなりの資金が必要なのだろう。納得がいく。


「あいつが金持ちってのは知ってるけどさ。そう簡単にぽん、と出す金額じゃねえと思わない?」

「思う。でもあいつ音楽に関しては無茶苦茶じゃん」

「ま、それはそうなんだけどさ」


 そこまでは自分もそう思うのだ。実際理屈としては納得がいく。好きなものを作るときになるべく邪魔が入りたくないから、自分でその場所を切り開く。筋は通っているのだが。

 つまりはその「だが」なのだ。どうしてそこで自分が疑問を持つのか、TEARには理由が判らないのだ。

 だがまあ、確かに、こんな朝っぱらから考える問題でもないような気もする。


「ま、別にあんたがどうHISAKAについて思ってもいいけどさ… あたしにあたるのはよせっての」

「判る? どこで?」


 にや、とTEARは笑う。視線が立ったままのFAVの腕だの脚だのに飛ぶ。


「じろじろ見るんじゃねえっ!」


 FAVはタオルを投げ返した。



 「クラブ・フィラメント」はオキシドールと並んで都内ではなかなか「闇鍋」的なライヴハウスである。

 クリスマスライヴは数々の飾り付けとサンタの衣装で結局参加バンドの中で最も目立ってしまった。

 新曲のうち、ここでは「MERRY…」と「MODERN」が発表された。


「ゆーえんちはいいけど、現代かぜはなあ…」


 MAVOがもらした。確かにまだ「MODERN」は未完成である、という認識がメンバー全員にあった。「MERRY…」はもともとかなり自由が効いたので、「とにかく楽しく」というFAVの唯一の条件が満たされていたので、それはそれでいいということになった。

 そして27日の「BAY-77」では「RED」あらため「RED ALERT」がそこに加わることになっていた。FAVは自分のお膝元でお気に入りの新曲をお目見えさせたかったが、とっておきなのよ、とのリーダーのお言葉は強かった。

 ちなみに「BAY-77」は横浜の、港の近い地域に1977年に作られたのでその名前がついている。横浜のライヴハウスとしては古株だった。したがって、このライヴハウスはこの県内のロックバンドには中央へ出る際の一つのステップとして見る者が多い。つまり、「神奈川一つ征せずに何が全国区だ」という訳である。

 とは言え、この「BAY-77」は横浜、ひいては神奈川県のバンドが出るだけではない。「関東地方」の一つにも含まれているわけなので、他県からも多々やってくる。


「へえ、いい感じだあ」

「でしょお?」


 ステージから客席を見たとき思わずTEARはそう言った。そしてそこから飛び降りる。どん、と木の床特有の音がした。


「そうそうこれこれ」


 この感触がいいんだ、とTEARは言った。


「まあだから飛び跳ね系の客だとうるさいとも言われてはいるんだけどね」

「へえ」


 そもそもここにPH7が出られるのはFAVの口ききだった。彼女が最近まで属していたF・W・Aはここでも結構人気があったバンドである。解散した時は、嘆くファンも結構居た。そのF・W・Aの人気ギタリストが加入したバンド、というふれ込みはなかなか大きかった訳である。

 対バンあり、だから作業は手際よく。皆てきぱきと作業を進めていた。


「あー疲れた… エナちゃん何か飲み物ある?」

「あ、楽屋のうちのスペースにポットが三つありますから」

「三つ?」

「一つはステージ用の冷たい奴ですから間違えないでくださいね、あとはホットコーヒーとウーロン茶ですから…」

「ああ、コーヒーもらい… ミルクとシュガーは?」

「それはここの奴を使っていいってことですから」

「ほいほい」


 ひらひらと手を振って、チューニングを終えたベースを抱えたままTEARは楽屋へ向かった。ベースを置いて、紙コップにコーヒーを入れ、適当にシュガーとミルクもいれてかき回す。そのままぶらぶらとコーヒーを持ったまま通路を抜け、裏口に出る。何となく外の空気を吸いたかった。


 と。


「PH7のひとだよね?」


 何処かで見た顔だ、とTEARはその時思った。だがいつだったか記憶にない。

 男は自分と同じかやや高い身長だった。無造作に結んだ長い髪が音楽をやっている人間であることを意思表示している。


「そうだけど?」

「FAVいます?」

「あんた誰?」


 ああ、と彼は笑った。


「イキカズノリと言います。えーと、F・W・Aでドラマーだったんですが… 覚えてませんかね」

「ああ?」


 思い返す。だが思い出せない。それはそうだ。TEARはF・W・A自体よく見には行っている。だが別にヴォーカルやベースを見に行った訳でも、ましてやドラムを見にいった訳でもない。はっきり言ってF・W・AのライヴではFAVしか目に入っていなかったのだ。


「すいませんね… 思い出せませんや」

「まあいいですけど」


 イキは苦笑する。


「それでFAVいます?」

「居ることはいるけど」


 ぷい、とTEARは彼に背を向けて中へ入っていった。あ、しまった、とそう動いてから感じた。

 何となく嫌な感じがしたのである。何となく、である。

 別に「F・W・Aのドラマー」に嫌気を感じたことはそれまでなかったのだが、彼がFAVのことを口に出した瞬間、心の隅に火を付けられたような気がしたのである。F・W・AのドラマーがFAVと昔なじみで仲がいいということ程度は聞いていた。

 だから、その「嫌な感じ」は相手、というよりも、一瞬そういったことを思い出してしまった自分自身に対するものだった。

 TEARは好きな相手の過去に関して、全く何も気にしない人ではない。ただ、気にはしても、それはそれ、と割り切る程度の冷静さは持っている。過去よりは現在であり、未来よりも現在だった。過ぎてしまったことはもう変えようがないし、予想もつかない未来のことをあれこれ思い悩んで現在が面白くなくなってしまうのは馬鹿らしい。


 とはいえ、それはそれとして、理性だけで人間は出来ている訳ではないから。


 FAVはちょうど楽屋に戻って来ていた。かなり緩めのモヘアのセーターを無造作に着て、最近コレクションが増えてしまった、という帽子の一つを頭に乗せている。ちょこんと小さいそれはピンで止められて、帽子というよりは「飾り」に近かった。

 それまで帽子を集める習慣はなかったのだが。


「FAVさん、客」

「誰?」


 FAVは訊ねる。知らね、と素気なくTEARは答えた。FAVがにらむので一言だけつけ加える。


「あんたの知り合い」


 何じゃあいつは、とFAVは思いながら言われた方へ行くと、見慣れた顔と大きな図体の持ち主がいた。


「なんだイキ、久しぶりじゃん」


 おす、とイキは片手を上げる。


「元気だった?」

「まーね。もうアパートも引き払ったし」

「…へえ… じゃ、本当に帰るんだ」

「うん。年内に何とかする、って決めてたしね。だからまあ、ご挨拶に、と。それにまだ俺、お前んとこのステージ見たことないし」

「あるじゃん、あん時」


 F・W・Aの対バンがPH7だった時のことを暗に含める。


「あん時はまだお前PH7に入ってなかったろーに! ま、とにかく今日は俺、客ね」

「へいへい、またあとで話さねえ?」

「うーん… 時間は大丈夫だけど」

「打ち上げって言うか、食事会みたいな奴やるのさ。どーせ大晦日は皆でどんちゃん騒ぎだから、今日がうちとうちのスタッフの忘年会みたいなものなの。暇だったらおいで」

「ん、じゃあお言葉に甘えて」


 イキはじゃあね、と楽屋へ引っ込んでいくFAVを眺める。と、楽屋から一人の女が出てきた。TEARだった。彼女と視線が合う。何となく挑戦的な視線を飛ばされたような気がして、イキは肩をすくめた。



 「警戒警報」はマリコさんの言葉を借りると、「変な曲」だった。

 イントロはぽろぽろと乾いたアコーステイックな音で始まる。ほとんどバラードのような曲調である。

 ところが、その部分が終わると、いきなりスネアドラムのロールが急激なクレッシェンドを掛けながら入ってくる。スピードアップ。そしていきなりお得意の「速い」曲になる。

 ただ、難しい言葉は言っていない。ややこしい言い回しもない。ドラマティックな展開の割には、複雑な歌メロも使っていない。非常にストレートなものだった。

 その急激な変わり方をマリコさんは単純に「変」と言った。エナは「何かどきどきする」と言い、マナミは「燃えるなあ」と言った。

 スタンディングの客席の、人いきれからはやや離れた場所でイキは見ていた。チケットに印刷されたサーヴィスのドリンクを時々呑みながら。あの頃は大して呑まなかったビールを。

 やっぱり綺麗になった、と彼は思う。ステージの彼女は、自分の知っているどの彼女よりも綺麗になっていた。こんなにステージ上で動く奴だったっけ?と思うくらい、くるくると光の中で左へ行き右へ行き、客を煽り声を発し、思う存分暴れていた。

 そしてそのステージに居る相手も、今までの誰よりも、彼女に似合っている、と彼は思う。

 誰にも遠慮していない。好きなように。

 それが彼女の一番綺麗な姿だ、と彼は思う。



「今誰か好きなひといるんだ?」

「…!」


 打ち上げのために移動していた時だった。「お食事会」のために予約していた場所がライヴハウスから歩いて行ける距離だったので、皆徒歩で移動していた。

 いつもより御機嫌に見えるTEARはMAVOと肩を組んでいる。マリコさんとエナは車の移動と、細々したものの整頓のために駐車場の方へ先に行った。

 そしてFAVは旧友と話していた。TEAR達は結構前を歩いているので、二人の会話は聞こえない筈である。

 その後ろを、何やら相談していたHISAKAとマナミが歩いていた。


「図星?」

「…どーして判る訳? あんたはいつも」

「何でかなあ。でも俺、だからずっとあんたの友達やってこれたんじゃなかったっけ?」

「だろうな。あんたとはどんだけ寝てようと友達だもん。どーしようもなくって」

「そりゃあね。仕方ないことが多いのが人生」

「本気で言ってる?」

「んにゃ、結構本気よ、俺。だいたいそれで、普通の奴ってのは、ある程度現実と妥協して生きてくの。妥協しないと苦しすぎることって多いじゃん。逃げるの。生きなくちゃならないから」

「大人になったんだねー、イキ君」

「でも俺はFAVにはずっとそういう意味では子供でいて欲しいよ」

「ガキで?」

「重すぎる? 俺だの何だの、妥協した奴が見る夢でいてほしいっての」

「重いね」


 FAVはつぶやくように言う。


「はっきり言って、重いと思うよ。手に職はあるんだ… そっちを選べばそこそこの暮らしはできるよね、たぶん… でもそれじゃ満足できね。どーしようもない。あの瞬間を一度味わってしまったら抜け出せない」

「判る。確かにステージに取り付かれたらそうだよな。特にPH7に客の向けるエネルギーってのは凄いものがあるからな」

「そう思う?」

「そう思うよ。F・W・Aの時なんかよりずっと、熱い客ばっかじゃねえ?」

「うん。あたしもそう思う。で、その熱い客のエネルギーってのが、まっすぐ飛び込んでくるんだ。あたしなりHISAKAなりMAVOなり、それが『好きーっ!』って」

「うんうん」

「あたしはそのエネルギーに捕らわれるのよ。いつも寒がりだったじゃん。血の巡りが悪いって。でもその瞬間は、全身に一気に血がかけめぐるんだ。冷え性なんか一気に治るくらいに」


 ぷっとイキは吹きだした。どういう例えだよ、と苦笑する。悪い?とFAVは歯をむきだしにする。


「好きな奴ってのは、お前のそういうところ、全部判ってるんじゃない?」

「どうかな」

「あの女? ベースの」

「へ? 何で」


 はっ、とFAVはとっさに反応してしまった自分にしまった、と口を押さえる。


「いや、何となく」

「何となくで判るあたりあんたねえ…」

「だって俺、FAVの一番の友人、だったんだよ」

「変態のお仲間になってしまったよーですよ、あたしも」

「ま、はっきり言って俺もショックだったけど」


 だがその割に立ち直りは早いぞ、とFAVは思う。


「でも仕方ないじゃん。お前が好きなんていうのは滅多にない」

「ん」

「んでもってそれがたまたま女だっただけだし」

「ああ何って物わかりのいい」

「…」


 べしっ、とイキはFAVの頭をはたく。


「物わかりのいい奴にさせたのは誰でしたったけね」

「はいはい、あたしです」


 FAVは苦笑し、右手を挙げる。


「そんな訳で、オレそろそろここでリタイヤね」

「へ?」


 FAVの足が止まる。

 と、背中に何かぶつかるのを感じた。


「ふ、FAVさん… 止まるなら止まるって言ってくださいよぉ…」

「あ、ごめん」


 結構大柄に見えなくもないが、それでもややFAVよりは背が低いマナミは、露骨に顔をFAVの背中付近にぶつけたようである。大丈夫? と訊ねながらHISAKAはマナミを引っ張ってFAVを追い抜いて行った。


「リタイヤって、ここで帰るっての?」

「うん」

「水くさいよ? イキ?」

「うん。でも、な」


 イキはくすっと笑う。


「…まあいーけど。時には電話だの手紙の一本でもよこせよ?」

「オレ筆不精の電話不精だから」

「よこさなかったら友達の縁を切るよ」

「はいはい」


 彼はもう一度笑った。だがその笑顔が多少引きつっていることにFAVは気付かなかった。それじゃ、と彼は手を振って、回れ右をした。FAVは少しの間それを立ち止まったまま、見ていた。


 気がついた時、ぐいん、と首に回る腕を感じた。ぎゅっとへばりつく柔らかい感触で、背中にスキンシップが好きな奴が張り付いているのが判る。


「…何してる」

「いや、もうお帰りかな、と」

「そのよーで」

「あれ、怒らないの?」

「『まだ』怒ってねーだけだよ… ええいうっとうしいっ!」


 振り解こうとする。だがTEARは解こうとはしない。黙ってじっとその体勢を崩さない。FAVは自分の首に回っている腕をぽんぽんと叩くと、行くよ、とつぶやいた。

 前方でHISAKAはMAVOとP子さんに合流した。スタッフ達はもっと前を歩いている。やや遅れてまだじっとしているFAVとTEARを見ながら、HISAKAは誰に言うでもなくつぶやいた。


「来年はもっと…」

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