01 社畜、死す
田中勉は29歳で死んだ。
死因は過労死である。
田中勉が勤めていた会社は、典型的なブラック企業であった。
その会社で、田中勉はそれなりに有能な人物と評価されていた。
それゆえに、逃げられなかった。
怒鳴るだけが自分の仕事だと思い込んでいる上司と日々目の光が失われていく部下の尻ぬぐいをし続ける毎日。
体の不調を自覚しない日はなかった。
それでも、田中勉は働き続けた。
他人に迷惑をかけたくなかった。
このままではいけない、と思いつつも、環境を変えるだけの才覚と勇気を持ち合わせておらず、細々したトラブルを独力で解決することにすべての精力を注いだ。
29歳――体に無理が効かなくなる年齢だ。
最近、特に疲れが取れないな、と思っている矢先、視界が真っ暗になった。
闇の中、女子社員の悲鳴が聞こえたような気がした。
「――さん」
ツトムが意識を取り戻したとき、うっすらと声が聞こえた。
「――勉さん」
気のせいではない。
確かに、自分の名を誰かが呼んでいる。
「田中勉さん」
優しい女性の声だ。
そこで、ツトムは不思議に思った。
(この声は誰だろう)
無論、会社には女子社員がそれなりに在籍している。
しかし、彼女たちは日々の激務でスレており、こんな優しい声色は出せないはずだ。
ツトムはゆっくりと瞼を開いた。
目の前に、神々しいまでに美しい女性が立っていた。
否、浮かんでいた。
周囲は真っ暗なのに、なぜか女性の姿ははっきりと見える。
彼女の両足は床から数10センチメートルも離れていた。
印象的な金髪をしている。腰まで伸びた金髪は軽くウェーブしているのだが、一流の美容室で丹念にパーマを当てたところで、ああはなるまい。非現実的な形なのに、人工的な印象がまるでない。瞳は碧眼で宝石のような輝きだ。
圧巻なのは、顔立ちそのものだ。なんというか完璧だった。欠点一つない。ギリシャ彫刻のようでもあり、AIが作り出した全人類の平均顔のような気もする。
彼女が着ているのは真っ白な昔の服だ。ギリシャ神話に登場する神が来ている服――キトンであった。
その神っぽい容姿の女性が、摩訶不思議な空間に浮かんでいる。
「……僕は死んだのか……?」
「はい。残念ながら」
神々しい女性はツトムの質問に答えた。
幻ではない。
「ここはどこ?」
「どこでもありません。強いて言うなら、世界と世界の狭間です」
「どうやって帰ればいい? 今日中に見積書を送らないといけないし、報告書も仕上げてないんだ」
「田中勉さん。貴方は命を落としてしまわれました。もう会社に帰る必要はありません」
「そうか……僕は死んでしまったのか……早く会社に帰らないと……」
「だから、死んでいるので帰れません」
「ええ……上司に叱られるし、みんなに迷惑がかかってしまう」
「死んでいるので、気にしても無駄です」
「そうなんですか、わかりました。それで、いつ会社に帰れますか?」
「田中勉さん……神の声を聞きなさい……」
「どうしよう……報告書を上げないと、またねちねちと説教を食らってしまう。夕方には取引先とのアポイントがあるし……あの取引先クレームは本人より先に会社にするって、引き継がれてるんだよな……」
「ツトムさん……神の声、というか、人の話を聞きなさい……」
「どうしてくれるんだ! 責任取れんのか! さっさと会社に戻せぇ!」
パァン!
けたたましい破裂音が響いたと同時に、ツトムの首が90度回転した。
ジンジンと頬が痛んでようやく、ツトムはビンタされたのだと気づいた。
「いい加減にしないと、神の裁きを下しますよ?」
「すでに下されたような気が……」
「この程度では、神の裁きとは言えません。天災クラスの絶望が伴ってようやく『神の裁き』です」
「怖い……」
「神の声を聴く気になりましたか?」
「はい……どんなカルト宗教の教義より納得できないけど……」
「なにか言いました?」
再び手を振りかぶる女神さま。
「取り乱して、誠に申し訳ございませんでした」
ツトムは長年の社畜生活で培った、直角90°の礼をした。
「急に、礼儀正しい……切り替えが速すぎて、むしろ失礼な気がしますが……話を戻します。ごほん! あなたはオフィスで倒れ、命を落としたのです。いわゆる過労死というやつです」
「ええ……別に激務じゃなかったですよ。たまたま残業が1日6時間が続いて、25連勤になっちゃっただけで」
「田中勉さん……それを世間では過重労働と呼ぶのです。本題に入ります。神々の世界では報われない死を迎えた魂に救済をもたらすことに決まりました」
「最近、神の業界は業績が悪いんですか? だから、慌てて新しい保障を追加したんですか?」
「そういうことではありません。神々の世界は無謬ということになっているのです……表向きは」
「表向きかあ……」
「諸説あるという言い方もできます。とにかくあなたは報われずに命を落としたので、今回特別に異世界での第二の人生が贈られることになりました」
「報われずに……? お給料はちゃんともらっていましたが」
「田中勉さん……サービス残業はどれほどしていましたか……? 仕事に忙しいせいで、休日友人や恋人に会っていましたか……? あなたは報われてなどおりません」
「ひどい、そんなはっきり否定しなくても」
「ひどいのはあなたのキャリア形成です。それで、異世界に転生するにあたって、貴方には特別な力が授けられます。どのような力が良いか考えてください」
「ええっと、いきなりそんなことを言われても、どんな力にすればいいかわかりません。どんな力なら、異世界でキャリア形成し直せるのか……」
「剣と魔法の世界なので、夢と希望に満ちた人生、とか言ってほしいです」
「剣と魔法の世界? 自信ないな……俺、仕事しかしてこなかったから」
「貴方がもっとも欲する力を言ってくれれば良いのです。これは苦痛に満ちた一生を終えた貴方へのご褒美なのですから」
「そんな直接苦痛に満ちた一生とか言われると落ち込むんですが……」
「気にしないでください。さあ、どんな力です? 強大な魔力ですか? 時間停止ですか? 透明人間化ですか? エッチな能力ですか?」
「おすすめは何でしょうか?」
「エッチな能力です」
「ええ……?」
芸術品のような顔面で、なんてことを言うのだろうか、この女神さまは。
「産めよ、増やせよ、この世に満ちよ。が、わたくしのモットーですから。異世界で、子供100人目指しましょうよ」
「うーん……嫌です」
「なぜ?」
「月の残業が100時間を超えたあたりから、下半身に血が集まらなくなってまして……」
「……それはもう種として、自殺しているようなものでは……?」
「経営者や権力者に言ってやってください」
「もう日本の腐敗については置いておきましょう。さあ、あなたの望みを言うのです!」
「えーと……」
「さあさあ! 時間無いですよ! あと、10秒!」
「突然、急かす……うーんと……」
「あと3秒!」
急かされたツトムは自分でも気づかなった願望を口にしていた。
「充実した福利厚生……?」
「そういうんじゃなくてですね……」
困った顔で、言いよどむ女神さまだったが、ツトムが願望を言った瞬間、天が光り輝いた。
ツトムの目の前に、光り輝く一冊の本が舞い降りた。
「こ、これは……⁉」
「『神の就業規則集』⁉ なんですかこれ、わたくしも知りませんよ!」
ツトムだけでなく、女神さままで驚いている。
「ええ⁉ わたくし神様業務に従事して長いですけど、こんなの知りません! 『神々の福利厚生』が載っているんですか⁉ わたくし損してませんか⁉」
驚愕する女神さまを余所に、『神の就業規則集』はツトムの手に収まった。
それに触れた瞬間、粒子となってツトムの体に取り込まれていく。
ツトムには自由に『神の就業規則集』を出現させられるという実感があった。
「いろいろと言いたいことは多いのですが、これで力の授与を終えました。では、お元気で!」
釈然としない表情のまま、女神さまは締めくくり、手を振った。
ツトムの意識は再び失われた。
今度は闇ではなく、光に包まれて、ツトムは異世界に旅立った。




