序章「自分のものではない炎」
炎が、夜を焼いていた。
赤く染まった空の下で、黒い煙が幾筋も立ち昇っている。
燃えているのは森ではない。
魔物の巣でも、戦場でもない。
ゼラスが生まれ、育った村だった。
「……なんだよ、これ」
喉から漏れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
熱風が頬を叩く。
炎に呑まれた家々が軋み、梁の崩れる音が響いた。
道には壊れた荷車が倒れ、見慣れた村人たちが動かなくなっている。
つい先ほどまで、ここには日常があった。
夕食の支度をする匂いがあり、井戸端で交わされる声があり、家路を急ぐ者たちの足音があった。
そのすべてが、炎の向こうへ消えていた。
ゼラスは走った。
どこへ向かっているのか、考える必要などなかった。
村の中央。
石造りの、他より少しだけ大きな家。
村を預かる者として父が使い、ゼラスが家族と暮らしていた場所。
屋根の半分はすでに崩れていた。
入り口を塞いでいた燃えた柱を魔力で弾き飛ばし、ゼラスは家の中へ踏み込んだ。
「父さん!」
返事はない。
「母さん!」
火の粉が舞う。
煙が視界を奪い、息を吸うたびに胸が焼けた。
それでも足を止めなかった。
ゼラスにとって炎は、恐れるものではなかった。
幼い頃から炎の魔法を扱えた。
大人たちが驚くほどの魔力を持ち、その制御を覚えるために誰よりも鍛えてきた。
炎がどう流れ、何を燃やし、どうすれば消せるのか。
知っているはずだった。
だが、今この場所を満たしている炎は、ゼラスの知るものとは違っていた。
荒々しく、無秩序で、ただ奪うためだけに燃えている。
奥の部屋へ続く壁が崩れていた。
その下に、父の姿があった。
身体には剣で斬られた跡が残っている。
村を守るために戦ったのだろう。
すぐそばには、母が倒れていた。
母は父へ手を伸ばしたまま、動かなくなっていた。
「……嘘だ」
ゼラスの膝から力が抜けた。
床へ手をつく。
熱せられた石の痛みすら、ほとんど感じなかった。
「起きろよ」
父の肩へ手を伸ばす。
返事はない。
「まだ、何も教わってない」
もう一度、揺らす。
「村のことも、外のことも……俺は、まだ……」
言葉が続かなかった。
視界が滲んだ。
煙のせいではなかった。
母の手に触れる。
冷たかった。
炎に囲まれているはずなのに、その手だけがひどく冷たく感じられた。
「母さん」
どれほど呼んでも、目を開けることはない。
外から足音が聞こえた。
重い鎧が地面を踏む音。
複数。
人間たちの声も混じっている。
「生き残りがいるぞ!」
「魔族だ! まだ子供だが、油断するな!」
ゼラスは顔を上げた。
崩れた壁の向こうに、武装した兵士たちが立っていた。
剣には血が付着している。
鎧には、ゼラスの知らない国の紋章が刻まれていた。
彼らの背後でも、村は燃えていた。
兵士の一人が剣を構える。
「抵抗するなら斬れ!」
その声を聞いた瞬間、ゼラスの中で何かが切れた。
悲しみが消えたわけではない。
恐怖がなくなったわけでもない。
ただ、それらすべてを呑み込むほどの怒りが、身体の奥から湧き上がった。
魔力が溢れた。
床に亀裂が走る。
周囲の炎が大きく揺らぎ、一斉にゼラスから離れるように傾いた。
兵士たちが息を呑む。
「なんだ、この魔力は……」
ゼラスはゆっくりと立ち上がった。
炎に照らされた瞳が、兵士たちを捉える。
「お前たちが……」
声は震えていた。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
「お前たちが、やったのか」
答えの代わりに、兵士が踏み込んだ。
振り下ろされた剣を、ゼラスは片手で受け止めた。
刃ではない。
剣を包む魔力そのものを掴み、動きを止めた。
兵士の顔が引きつる。
ゼラスは腕を振るった。
剣が砕け、兵士の身体が壁の外まで吹き飛んだ。
残る兵士たちが武器を向ける。
術式が展開され、幾つもの火球が生まれた。
それを見たゼラスの表情が歪んだ。
炎。
村を焼いたものと同じ色。
父と母を奪ったものと同じ熱。
だが、それはゼラスの炎ではない。
迫る火球へ手を向ける。
魔力を解き放った。
兵士たちの放った炎が空中で静止する。
次の瞬間、そのすべてが形を失い、赤い光の粒となって散った。
炎の向こうで、兵士たちが後ずさる。
「化け物……」
誰かが呟いた。
ゼラスは何も答えなかった。
化け物と呼ばれたことなど、どうでもよかった。
ただ、足元に横たわる両親と、炎に包まれた村を見つめた。
自分には力があった。
生まれつき多くの魔力を持ち、誰よりも努力してきた。
それなのに、何一つ守れなかった。
強いと思っていた。
いつか父の後を継ぎ、村を守れる存在になるのだと信じていた。
だが、間に合わなかった。
炎は燃え続けている。
兵士たちは逃げ始めていた。
追いかけることはできた。
全員を倒すことも、おそらくできた。
それでも、ゼラスの足は動かなかった。
誰を倒したところで、父も母も戻ってこない。
村人たちの声が、再び聞こえることもない。
ゼラスはその場に立ち尽くした。
やがて天井が崩れ始める。
父と母の身体を炎から遠ざけ、ゼラスは二人を抱き上げた。
家の外へ出る。
夜は明けていない。
けれど、村を包む炎が周囲を昼のように照らしていた。
ゼラスは燃える村を振り返る。
胸の奥で、炎とは別の何かが燻っていた。
怒りなのか。
憎しみなのか。
それとも、誰も守れなかった自分への失望なのか。
まだ分からなかった。
分かっていることは、一つだけだった。
この炎は、自分のものではない。
自分が望み、生み出した炎ではない。
それでも、この夜の炎は消えることなく、ゼラスの中に残り続ける。
この先、どれほどの時が流れても。
どれほど強くなっても。
決して忘れることのできない、最初の敗北として。
後に魔族の歴史へ名を刻むことになる少年は、その夜、たった一人で故郷を失った。




