1 負けヒロイン麻利亜
「麻利亜。海を、見に行かないか」
高校からの帰り道、蓮は何を思ったか、私を海に誘った。
「何? 同情? 別に私に気なんか使わなくていいから」
己の心とは裏腹に、私はそんな憎まれ口を返す。かわいくない私。ほんとはちょっとうれしいんだ。でも……。
廊下をすれ違う同級生たちに視線を向ける。
みんな私を大きく避けて足早に去っていく。私のほうをうかがいながらこそこそ話をしていた女子が、あわててトイレに身を引っ込める。たまたま通りがかった一年生と目が合う。すると彼女はとたんに怯えた表情になって、一目散に逃げだした。
「こんな私と一緒にいると、あんたまで嫌われるよ」
別に恐ろしい風貌をしているわけじゃない。最上級生ではあるけれど、ただの女子高生だ。見た目だってごく普通。いや、ちょっと美人の部類に入るかもしれないと、自分では思っている。
そんな私が学校の皆から畏怖され、避けられているのは、まあ、私にまつわるいろんな噂や悪評のせいだ。
先生を退任に追い込んだとか。私との口げんかに負けた生徒が不登校になったとか。気に入らない人物は徹底的にいじめられるとか。裏で闇の組織を率いているとか。新入生が二名消されたとか。黒魔法を使うとか……。
ばかばかしいと思った。実家がお金もちで、気の強い性格なのは確かだけど、闇の組織とか魔法とか、私をなんだと思ってるんだ。しかしそれをほおっておくうちに、噂はますますエスカレートして、手の付けようがないほどになっていった。今はもういちいち否定するのにも疲れて、言われるがままにしている。
「悪役令嬢」
それが、今の私にひそかにつけられたあだ名だ。
いいじゃないか、悪役令嬢で。私はそれを否定しない。噂のほとんどはでたらめだけど、私が悪人というのは本当だから。
「相談があるんだ」
切実な蓮の声が、過去の回想に浸りそうになる私の意識を引き戻した。
真剣な彼の目と目が合う、と同時に腕をつかまれて強引に引っ張られた。
◯
海はそんなに遠くはない。学校近くの大通りからバスに乗って十分ほど。そこから徒歩五分。
停留所でバスから降りると、なんとなく潮の香りがした。小さな海辺の町は閑散としていて、静かだ。街を歩いているとどこからともなく潮騒が流れてくる。その昔、ある作家は、『海と港の旅情を求めてこの地を訪れたところ、そのあまりの寂しさに愕然とした』……というようなことを書いたらしい。私もお勧めはしない。しかしこんなふうに穏やかな日、この静けさのなかを歩くとき、ここもそんなに悪いものじゃないと、最近の私は思う。
海に近づくにつれ、潮騒が大きくなる。蓮との会話はあまりない。する必要がなかった。会話なんかしなくても、彼の隣にいるだけで安らかな、くつろいだ気持ちでいられたから。相手もそうだということが、空気で感じ取ることができたから。彼と一緒にいるときだけは、私は悪役令嬢から解放される。無邪気な、幼いころの自分に立ち返ることができた。
大友蓮と私は幼馴染だ。お互いの家が近所で、幼い頃からよく一緒に遊んでいた。小中高と同じ学校で同じクラス。どんなに私の評判が悪くとも、私の肩を持ってくれた、彼は数少ない人だ。私が道を踏み外したあとも気にかけてくれた。
ああ、好きだなあ。
何の気負いもなく、ごくごく自然に、私は思う。
小さな時から一緒にいた人への気持ち。ずっと心の何処かに持っていて、でも当たり前すぎて素通りしてしまっていた気持ち。私はこの人のことが、好きなのだという、この気持ち。
いつの間にか私たちの影は長くなり、空に浮かぶ雲は燈色に染まっていた。海浜公園に沿って少し歩いたところで私と蓮は足を止めた。どちらかがそうしようと言ったわけではなく、ほぼ同時に、お互い申し合せたようにそうなったのだ。なんとなく振り返り、公園の人魚像の向こうに広がる海を眺める。海は凪いでいて、春の暮れゆく陽の下に、黄色いきらめきを漂わせていた。
そうだ。蓮に告白しよう。
海を眺めながら、潮騒に押されるように、唐突に私は思った。
知り合ってから十数年。彼がいるのが当たり前すぎてなんとなくしないでいた。そんなことわかっていると思っていた。いまさらこんなこと言うのはちょっと恥ずかしい。だからずっと迷っていた。でも、大事な人だから。やっぱりちゃんと伝えておいたほうがいい。
「あの……」
「ねえ、麻利亜」
勇気を振り絞って声を出したその時、蓮もまた思い切ったという風に呼びかけてきて、私は出しかけた言葉を飲み込んだ。
「なあに蓮。どうしたの?」
私は余裕ぶって蓮に先を促した。予感がしたから。蓮もきっと、私と同じことを考えている。海に誘ってくれたのは、このことのためだったのに違いない。
蓮は海に向けていた視線を私に向ける。そのブラウンの澄んだ瞳で私を見つめ、私の手を取る。
私の胸の鼓動が急に高まる。膨らむ予感とともに、心の中の私が忙しくまくしたてる。ほらやっぱり、蓮のほうから告白してくれるんだ。さすが幼馴染、同じことを考えていたのね。以心伝心とはまさにこのこと。これはもはや熟年の夫婦の域に達していると言っても過言ではあるまい。結婚しよう、今、すぐに。
「俺、陽奈のことが好きなんだ。告白しようと思っているんだけど……」
その言葉が蓮の口から放たれた瞬間、その意味を理解することができなかった。
陽奈のことが好きなんだ。
陽奈のことが好きなんだ。
陽奈のことが……!?
私の鼓動が止まった。息も止まっていたかもしれない。開いた口を閉じるのも忘れて、阿保みたいに目をぱちくりさせながら、私はただ蓮の顔を見上げていた。
「俺一人じゃ心もとない。女子に告白するなんて初めてだし。どうか協力してくれないか、麻利亜」
思考が状況に追いつかないまま、私は気の抜けた人形みたいにうなずいていた。どうしてそうしてしまったのかわからない。頭の中は真っ白だった。
陽奈のことが。
よりにもよって、あの、陽奈!
私の思考はそればかりを繰り返した。
ぼやける視界の中で、蓮がにっこり笑いながら私に手を振っていた。