「また会うかもね」
湿地帯を抜けると、肌にまとわりつくような湿気が消えた。
代わりに乾いた風が馬車の窓から流れ込み、顔を出していたアルの前髪をさらっていく。
「次の町、どんなところかな」
「さあな」
ルカンは向かいの座席に深く体を沈め、腕を組んで目を閉じたままだ。微動だにしない。
「地図には小さい町って書いてあったけど。
活気、あるかな」
「ないな」
「なんで言い切れるの」
「さあな、適当」
アルが振り返ると、相変わらず目を閉じたままで、口の端だけがわずかに上がっていた。
「……からかってるでしょ」
「どうだろうな」
「絶対からかってる」
ルカンはすぐには答えなかった。
車内に揺れる静寂がしばらく続いたあと、億劫そうに片目だけを薄く開ける。
「で、次どこへ行く?」
「え、まだ決めてなかったの?」
不意の提案にアルが聞き返すと、ルカンは視線を窓の外へ投げたまま続けた。
「お前が決めるんだよ」
「なんで?」
「図鑑。持ってるやつが決めるもんだろ、普通」
言われて、アルはしばらく窓の外を眺めた。
無意識に鞄の留め金に指をかけ、祖母の走り書きを思い出す。
「……南」
ポツリと、呟いた。
「うん、南に行く。決めた」
視線を上げてはっきり告げると、ルカンは短く「そうか」とだけ応じ、それ以上何も言わず、再び目を閉じた。
◇
セルノは、静かな町だった。
一本の石畳を挟んで店と家が慎ましく並び、広場では数人の住人がのどかに立ち話をしている。
王都の喧騒とは比べるべくもない、穏やかな場所だ。
「いいじゃん、こういうところ」
馬車を降りるなり、アルは大きく息を吸った。湿地帯の匂いとも王都の匂いとも違う。
草と土と、どこかでパンを焼く香ばしい匂いがした。
「宿、先な」
「うん——あ、待って」
「行くぞ」
「ちょっとだけ、あの路地の隅の……」
「いいから」
ルカンがアルの襟首をひょいと掴んで、引き戻した。
一瞬だけ路地の奥へ視線をやったが、何も言わず、そのまま歩き出す。
アルは低木をもう一度振り返り、それから目を離した。
「明日には枯れてるかもしれないのに…」
「宿が埋まったら、探すの面倒になる」
「この町の人口に対して宿の数が余りすぎてるでしょ」
「うるさい。行くぞ」
宿に荷物を置いたあとも、二人の攻防は続いた。
アルが薬草店を覗き込んでは首根っこを掴まれ、路地裏へ消えようとしてはルカンが即座に呼び止める。
石畳の隙間に顔を近づけ指をさしても、ルカンは「行くぞ」の一言で切り捨てた。
そんなやり取りを繰り返しているうちに、気づけば半刻が過ぎていた。
「お前な……」
「なに?」
「目が足りてないんじゃないかと思ってな」
「失礼な。ちゃんと二つあるよ」
「いや、多すぎるのか。
あちこち余計なものを見過ぎなんだよ」
そんな皮肉を、アルは慣れた手つきで受け流した。
「ねえ、次どこ行く?」
「南だろ」
「その前に、ここで何か手がかりが探せるかな。おばあちゃんの足取りとか、南の遺跡のこととか」
「さあな。……まあ、聞いて回ってみるか」
「じゃあ決まり。行こう」
「お前が聞けよ。俺はついてくだけだ」
「え、なんで。
二人で聞いたほうが効率いいでしょ」
「面倒なんだよ」
「…理由、それだけ?」
「それだけ」
アルはあからさまなため息をついた。
当のルカンはといえば、緊張感のない欠伸を一つ。
他人事のような顔をして、通りの先を眺めていた。
◇
聞き込みは不発だった。
住人たちは皆、二人に親切に接してくれたけれど、祖母や幻の薬草のこと、南の遺跡について、詳しい者は一人もいなかったのだ。
遺跡については「行ったことはないが遠い」「昔、旅人が通ったのを見た」
——得られたのは、その程度の話だけ。
核心に触れるような情報は、何一つとして集まらなかった。
「まあ、こんなもんだろ」
「……そうだね」
アルは少し肩を落として、広場の方へ向かった。
ルカンはその隣を、急かすことも慰めることもせず、ただ同じ歩幅で歩いていく。
広場の入り口に差し掛かったとき、アルが不意に足を止めた。
中央に、一人の青年がいる。
落ち着いた色合いの外套を纏ったその青年は、アルより少し年上に見えた。
彼は石畳の上に複雑な魔法陣を展開し、その中心に小型の金属製の道具を置いていた。
片手に持った羊皮紙と照らし合わせ、静かに、けれど明らかに苦戦しつつ、封印の工程を一つずつ丁寧に組み立てていく。
「……何をしてるんだろう」
「魔法道具の処理だな」
ルカンが眠そうな目で、青年の手元を眺めた。
「封印の術式が、うまく噛み合ってない」
「止められないのかな?」
「見てりゃわかるだろ」
青年は術式を一段組み上げるたびに、道具がわずかに反発し、術式の一部が脆く崩れる……という状況を繰り返していた。
けれど、彼に焦った様子はない。
表情一つ変えず、淡々と崩れた箇所を修復しては、また次の段へと進もうとする。
その徒労に近い繰り返しを三度、見守った。
「……なんだか、大変そう」
「だろうな」
「ルカン、手伝えないの?」
「俺が受けてる依頼じゃないし」
アルはしばらくその光景を見つめていた。
術式を組み直す。そして、また崩れる。
四度目の修復に取り掛かろうとしたところで、そっと立ち上がり、広場へ踏み出した。
「ちょ、——おい」
制止するルカンの声が届くより早く、アルは青年の隣にひょいとしゃがみ込み、中心にある道具を覗き込んでいた。
「これ、触ってもいい?」
不意に声をかけられ、青年は顔を上げる。
間近で見ると、整った顔立ちにはうっすらと疲労の色が滲んでいた。
「……触るな。危険だ」
「そうなの?」
「そうだ。暴走しかけている」
アルは言われた通りに手を止め、道具をじっと見る。
金属製の小さな筒のような形で、表面には細かい紋様が刻まれている。
よく見ると、その紋様の一部が歪んでいた。
「この歪んでいるところ。
ここから反発してる気がするんだけど」
「……素人に、そこまで正確に見えるとは思えないが」
「なんとなくだけど」
青年は一瞬だけアルを凝視し、それから、すぐに道具へと視線を戻す。
「いいから、触るな」
「うん。わかった」
アルはひとまず素直に引き、青年の作業を眺めることにした。
青年は再び術式の組み立てに戻ったが、やはり一節を終える前に、パリンと乾いた音を立てて術式が崩壊した。
「……やっぱり、一回だけ触っていい?」
「だめだ」
「ちょっとだけ」
「だめだと言っている」
「一秒だけだから」
「だめ——」
青年の制止を待たず、アルの指先がその金属の表面に触れた。
青年が短く息を呑む。
その瞬間、魔道具が嘘のように静まり返った。
反発していた術式が吸い込まれるように噛み合い、歪んでいた紋様がゆっくりと元の形へ収まっていく。
青年の展開していた魔法陣が、初めて完全な円となって静かに閉じた。
しん、と広場が静まり返る。
「…………」
青年は魔法陣が消えたあとも、しばらく動かなかった。
「……できた?」
アルが顔を覗き込むと「……できた」と短く応じる。
「よかった。なんか大変そうだったから」
青年はゆっくりと顔を上げて、アルを見た。
何かを言いかけて言葉を飲み込み、手元の道具へ目を落としてから、もう一度アルへ向き直る。
「……何をした」
「触っただけだよ」
「それだけか」
「うん、そうだけど」
青年の眉が、僅かに寄せられる。
少し遅れて、ルカンが気だるげな足取りで広場に入ってきた。
魔道具を手にした青年と、その隣で何事もなかったかのようにけろりとしているアル。
その対照的な二人を見て、ルカンはわずかに目を細める。
「終わったのか」
「うん。なんか、触ったら止まったよ」
「ふーん…」
ルカンの目が、一瞬だけ青年の手元の道具に落ちた。
けれど深追いすることなく、すぐに興味なさそうに視線を外す。
「名前、なんていうの?」
アルの問いに、青年は道具を外套の内側へ慎重にしまいながら、短く答えた。
「……エルリック。
依頼を受けて、この町に来ていた」
「私はアルナラ。アルでいいよ。
薬草師をやってるんだ」
「薬草師が、なぜ魔道具に触れた」
「大変そうだったから。それだけだよ」
「……そうか」
エルリックの視線が、通りの入り口に立っているルカンに移った。
「こっちはルカン。魔法使いなんだ」
アルがルカンを見たが、特に興味なさそうに、通りを眺めている。
「さっきの干渉は、お前がやったのか」
「俺じゃない。そいつが勝手に触ったんだ」
エルリックは再びアルを見て「そうか」とだけ呟いた。
当のアルは、石畳の隙間に生えた見慣れない草が気になって、すでにその場にしゃがみ込みかけている。
ルカンはそれを一瞥した。
「アル、今はお前の話をしてるんだぞ」
「あ、ごめん。この草、さっきの路地のやつと同じかなって思って」
「後にしろって」
「わかったよ」
アルは名残惜しそうに立ち上がると、視線をエルリックに戻した。
「エルリックは、一人で旅してるの?」
「ああ」
「どこから来たの?」
「北だ」
「北! あの雪山がある方?
行ったことないな。どんなところ?」
「寒いだけだ」
アルが次の質問を畳みかけようとした瞬間、それまで黙っていたルカンが低い声で口を挟んだ。
「お前、依頼でここに来たって言ったな。
次はどこへ行くんだ」
「南だ。さらに奥の集落へ行く」
「ふーん」
ルカンとエルリックの視線が、静かに交錯した。
沈黙が落ちる。
先に視線を外したのはエルリックだった。
「助かった。礼を言う」
「俺に言うなよ」
「アルナラに言っている」
「あ、全然いいよ。
なんとなくやっただけだから、気にしないで」
「……そうか」
エルリックはもう一度だけアルを見てから、迷いのない動作で踵を返した。
遠ざかっていくその背中に向かって、アルが声をかける。
「また会うかもね、エルリック!」
エルリックは振り返らなかった。
けれどその歩みがほんのわずかだけ、遅くなった気がした。
そのまま彼の背中は、通りの向こうに消えていった。
エルリックが去ったあとの広場で、アルはしばらくその場に立ち、彼がいた空間を眺めていた。
「真面目な人だったね」
「まあな」
「一人で旅をしてるって、寂しくないのかな」
「1人が楽なやつもいるだろ」
ルカンは特に興味なさそうに、通りの先へ目を向けた。
「飯にするぞ」
「あ、その前にさっきの草、やっぱり——」
「飯が先だ」
「でも」
「飯」
アルはあからさまな溜息をついた。
渋々と広場の石畳を踏みながら、ルカンの待つ通りの方へと歩き出す。
夕暮れが町を橙色に染め始めている。
どこかの家から、香ばしい食事の匂いが漂ってくる。
「ねえ、エルリックも南に行くって言ってたね」
「ああ」
「また会うかな」
「どうだかな」
ルカンはそれ以上何も言わなかった。
明日には、この町を出る。
南へ。
図鑑に残された、あのかすかな手がかりを追って。
二人の旅は、続いていく。




