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奏楽神話 〜君≠を救い出す旅路〜  作者: ぱんどいっち 
鋼牙騎士国ヴァルカス輪唱曲 第1番 
25/26

第二楽章 「氷釘の村と鋼のシチュー」

 鋼牙騎士国ヴァルカスでの第一歩は、肺の奥まで凍てつかせるような「沈黙」の風に迎えられた。


 中央大陸を二分する【星屑(スター)()背骨山脈(スパイン)】。その東麓に位置するこの国は、他国が享受する豊かな四季の巡りから切り離されている。西にそびえる山脈の向こう側――毒に満ちた未開の地から溢れ出す「穢れ」を物理的に遮断する代償として、この地には絶えず零下の圧力が降り積もっているのだ。


「……っくしゅ! ……あー、マジで、鼻がもげる。何なんすか、この急な冬設定。さっきまであんなに春っぽかったのによ」


 ミナトは、厚手のマントを鼻先まで引き上げ、現代日本なら確実に遭難レベルだと断言できる極寒に身を縮めた。先ほどまでの「接着剤事件」で精根尽き果てた彼にとって、この環境変化は過酷の一言に尽きる。一歩踏み出すたびに、凍てついた泥が軍靴の下で「ギュッ、ギュッ」と悲鳴を上げ、その振動が痺れの残る足首に響いた。


「文句を言わない。……いいかい、ミナト。この冷気こそが、西の毒を中和する『清浄の証』なんだ。もし空気が温まって、生ぬるい風が吹き始めたら、それは山脈の向こう側の毒が混じり始めたってことだよ。君が汗をかき始めたら、その時は本気で死を覚悟した方がいい。……冗談抜きでね」


 先を行くカイルの声は、どこまでも澄んでいた。黒茶の髪を風になびかせ、足取りを崩すことなく歩くその姿は、この過酷な荒野において、たった一人だけ別の静謐な時間を纏っているかのようにも見える。

 だが、カイルの視線は鋭い。彼は街道の左右に点在する、ヴァルカス特有の「防風石」の配置を逐一確認していた。それはかつて、彼が「神」として、あるいは一人の「勇者」として、この地に生きる人々の生存率を0.1%でも上げるために、その叡智を尽くして配置した護りの礎の成れの果てだった。


「勇者様、あそこに灯りが見えます」


 最後尾を守るフローラが、琥珀色の瞳を凝らし、街道脇の斜面を指差した。彼女の耳がぴくりと動き、風に混じる僅かな生活の音を捉えている。

 そこには、岩肌にしがみつくようにして建てられた、石造りの質素な村があった。村の周囲には巨大な鉄の杭が何本も打ち込まれ、そこから重厚な鎖が村全体を囲うように張り巡らされている。


「……行ってみよう。今日の野営をあの風の中でやるのは、さすがに無謀だ。君の肺が凍りつく前に、火のある場所へ行かないとね」


 カイルの言葉は相変わらず理屈っぽいが、そこにはミナトの体調を案じる響きがあった。カイルはそう言いながら、少しだけ歩調を緩め、ミナトが追いつきやすいように調整する。

 村の入り口には、古い鎧を着た老門番が立っていた。


「……巡礼者か、旅人か。よくこの『氷釘の村』まで辿り着いたものだ」

「北を目指している。今夜、暖炉の火を分けてもらえる場所を探しているんだ」


 カイルの問いかけに、老門番はカイルの瞳を一瞥した。そこにある「決して折れない意志」を感じ取ったのか、無言で鎖のゲートを押し開けた。


 村の中は、外の荒野以上に「鉄と血」の匂いが濃かった。大人たちは毛皮を重ね着し、小さな子供までもが背に重い鉄材を背負って黙々と働いている。娯楽などどこにもない。ただ、生きるために凍てついた大地と戦い続ける。それがヴァルカスの日常だった。


「……これ、現代だったら完全にブラックな環境だぜ……」


 ミナトが小声で呟くと、カイルは村の中央にある煤けた酒場を指差した。


「ミナト、これが『生きる』ということの原風景だよ。誰の救済も届かないこの場所では、誰もが自分の重さを自分で支えなきゃいけない。……でも、見てごらん」


 カイルの示す先。広場の隅で、作業の手を止めた大人たちが、小さな焚き火を囲んで何やら笑い合っていた。差し出されたのは、石のように硬いパンと、温かいスープ。そのスープから立ち上る湯気は、この灰色の世界で唯一、温かな色彩を持っているかのように輝いて見えた。


「不便で、過酷で、明日をも知れぬ命だ。だけど、彼らはそのスープの一杯に、世界をひっくり返す力以上の価値を見出しているんだ」


 カイルの瞳が、微かに揺れた。それはかつて、自分が「完璧な楽園」を作ろうとして失敗し、逆に人々から奪ってしまった「不完全ゆえの輝き」への、密かな羨望だったのかもしれない。


 酒場の扉を開けると、煤けた熱気と脂の焦げる匂いが一行を包み込んだ。

 出されたのは、ヴァルカスの伝統料理――『鋼のシチュー』。山脈で獲れた筋張った肉と、凍土で育った根菜を鉄鍋で何時間も煮込んだ素朴なものだ。

 カイルは席に着くと、木製のスプーンを手に取り、静かにスープを口に運んだ。


「…………」


 無言。だが、その喉が動くたびに、カイルの背中を覆っていた不機嫌な強張りが、少しずつ解けていくのをミナトは見逃さなかった。

 屋敷でセシリアが淹れる、あの繊細なスープとは似ても似つかない。だが、この不格好な温かさは、間違いなく「あの場所」に繋がっている。


「……カイル。これ、意外とイケるぜ。なんか、五臓六腑に染みるっていうか。あ、でもこのパン、マジで鈍器じゃねえか。前歯折れる」


「……塩気が強すぎるね。計算違いだ。……でも、今の僕には、これくらいの雑味が必要なのかもしれないな」


 カイルはそう言って、少しだけはにかむように微笑み、二口目を運んだ。その表情は年相応の少年のようでもあった。

 フローラもまた、カイルが分けた肉を幸せそうに咀嚼している。


 要塞都市アイゼンガルまで、あと八日。旅の夜は、まだ始まったばかりだった。

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