第2話 破れぬ誓い
お待たせしました。2話です。
「断る。今すぐ元の世界に還せ」
プリマゲーラの目をまっすぐ見据えながら放たれた言葉。それは昨今の日本人らしくない明確な拒絶の言葉。それが龍二の出したプリマゲーラの願いへの答えだった。まさに取り付く島もなく即答で返した龍二はそれが当然であるかのように、プリマゲーラが何らかの方法で龍二を元の世界に還すのを待つ体勢に入った。
それに対して、プリマゲーラはその口元に妖艶な笑みを浮かべたかと思うと一瞬で消し去り、龍二が気付かない内に悲しいようなそれでいて困ったような表情を浮かべて目を伏せながら、龍二にとって絶望的な事実を口にする。
「勝手にお呼びだてしておいて真に申し訳ないのですが、私には貴方を元の世界に還すことが出来ません」
「……どういうことだ?」
「貴方を異世界より呼び出したのが私の管理する世界に住む人間だからです。その人間は貴方を呼び出すのに召喚魔法と呼ばれる方法を使っております。魔法とはかつて世界を魔王の手から救った勇者が創り出した世界の法の一つで、神の身である私にも容易に干渉することは出来ません。その上、今回貴方を呼び寄せた召喚魔法はその魔法に秀でた複数の人間が協力して儀式を行うことで発動するもので、魔法の難易度としては最上級のものです。そのため外部からの干渉に対する抵抗力も強く、こうして神界に留めておくのがやっとで、とても貴方を元の世界に戻すような余裕は無いのです」
「……なら、俺が元の世界に戻るための魔法はないのか?」
「送還魔法というものがあります。条件により特定した座標に任意のものを転送させる魔法です。しかし、この魔法は勇者が魔王を討伐した後に起こった乱世で失伝してしまいまして、現在では使える者はおりません」
「……」
龍二は心が折れそうになるのを何とか踏みとどまり、内心で数千の呪詛を今回の元凶である異世界人たちに唱えながら頭を抱える。
いきなり呼び出された挙句、目の前にいる美女は女神と名乗る上に世界を救ってくれと頼まれる。しかも、その願いを叶える如何に関わらず既に自分の世界に還る方法は無い。
常人なら現実逃避するか発狂でもしそうな状況であるが、龍二は決して諦めない。絶望に飲まれそうになる龍二が思い出すのは最愛にして唯一の家族である妹の空と交わした約束……
――絶対に独りにはしない
約束を交わしたときの情景を思い出いながら龍二の視線は自らの左手首に向けられる。そこにあるのは腕と直行するように走る一本の傷跡、かつて自らが犯した最大の過ちであり、残りの人生を妹に捧げると誓った決意の証だ。
+
それは龍二が異世界人の発動した召喚魔法に巻き込まれた事件から八年前のこと、龍二の両親が事故で死んでから一年が経った頃のことだった。当時龍二は七歳、妹の空は四歳のときにその出来事は起きた。
両親が交通事故で死んでからの一年間はとても忙しかった。事故の捜査や裁判に始まり、両親の葬儀や遺産の相続、未成年であるため保護者となる親戚を探すか施設にお世話になるか、各関係書類の提出など気の休まる時間は一時もなかった。
妹や遺産を守るため保護者から独立して元の家で暮らし始めて数日が経った。幼稚園から帰った妹が昼寝を始めたとき、おやつの果物を切ったフルーツナイフが龍二の目にふっと止まった。
忙しかった一年を乗り越え気の緩んでいた龍二は気が付けば、自分の左手首をそのフルーツナイフで切っていた。
意識したことにより急激に痛みが襲ってくる。抑えても溢れ出る血液が事故で血を流す両親の姿をフラッシュバックさせた。
痛みと失血によって意識が朦朧とする中で明確にイメージされる“死”が龍二に強烈な恐怖を与え不安を煽る。
どのくらい時間が経ったか分からない。流れ出る血の量と反比例して龍二の命は目減りしていく。刻々と確実に近づいてくる死の気配に龍二は抗う気持ちすら削られていく。
自分の周りが急に騒がしくなったことでいつの間にか閉じていた目を開くと、そこにはかつて事故現場で見たような救急隊員が慌ただしく動き回っているのが見えた。そしてその奥には最愛の妹である空の姿もあった。
その顔は涙で濡れていた。
このとき龍二は激しく動揺した。妹はこの一年間、一度も涙を見せなかったのだ。厳つい顔の警察官に事故の様子を聞かれても、出歯亀のマスコミに囲まれても決して泣かなかった妹が今不安そうな顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。
この時になって龍二は自分がとんでもないことをしたのだとようやく理解した。
結局、龍二は現実から逃げ出したかったのだ。両親が死に、頼れる親戚もおらず、連日続いた警察との聴取や裁判にマスコミの対応と、本人ですら気づかない内にその精神は疲弊していた。
そこで生まれた心の隙間に入り込んだ死という逃げ道への誘惑に龍二は抗うことができなかった。いや、抗おうともしなかった。
だが、それは間違った道だった。人としても、兄としても……
龍二が死ねば、空は今度こそ天涯孤独の身となってしまう。親戚を頼ろうにも四歳という幼さで自らに手を差し伸べる大人が、身内を心配する善意の大人か、両親の遺産を付け狙う化け物の皮を被った大人かを見極めるのは難しい。
これまでは龍二がそれらの善意も悪意も遮る防波堤となっていたが、もし龍二が死ねば善悪入り混じった人間の感情という波に空が晒されることになる。そうなってしまえば、空のこれからの人生がどんな結果を迎えるかは火を見るより明らかだろう。
龍二は激しい後悔と自己嫌悪に陥りながらも、迫りくる死に対して抗い、初めて生への執着を見せた。
だが、龍二の命を狩ろうと振り上げられた死神の鎌は大きくそれでいて強かった。龍二はそれでも生きることを諦めず、自らの名前を呼びながら泣きわめく妹から決して目を離さないまま意識を失った。
結果として、龍二は生き残った。
発見こそ遅れていたが子供の力だったためナイフがそれほど深くまで入っていなかったらしく、見た目程出血量が多くなかったことが幸いしたようだ。
龍二は病室で対面した空に涙を流しながら謝罪を繰り返した。何度も何度も頭を下げ、互いの涙で汚れることも厭わずに空を強く抱きしめた。そして、己の中に決して破れぬ誓いを立てたのだった。
――自分の人生全てをかけて妹を幸せにする
+
この誓いは異世界に召喚されようとも龍二の心から無くなることはなかった。
神を自称する存在ですら元の世界に戻すことができないならその方法は諦めるしかない。勿論目の前にいる女神が自分の世界を救ってもらうために嘘を言っている可能性も十分にある。しかし、戻す気がないのならそれは戻せないのと一緒のことだ。
「世界を救ってくれと言っていたが具体的にはどうすればいい?」
龍二が異世界に行くことを前向きに考え始めたのを感じ取ったプリマゲーラは、心底安堵した様子を装いながら具体的な説明を始めることにした。
「現在、下界では新たな魔王が出現する兆候が見られます。貴方にはその魔王の出現を阻止、あるいは出現してしまった場合は魔王を滅ぼしてほしいのです。その件が終わりましたら自由にしていただいて構いません。強さを求めるでも女を求めるでも、帰還の方法を探るでもお好きなように残りの人生をお過ごしください」
龍二は従来の方法で元の世界に還ることは諦めた。しかし、それは元の世界に還ること自体を諦めたわけではなかった。そんな内心を読まれていたことを不快に感じつつも龍二の中では既に腹積もりは決まっていた。
「分かった。お前の世界とやらに行ってやる」
これ以上相手に自分の弱みを見せないために、始めに言葉を交わしたときのように横柄な態度で答えてみせる。
「ありがとうございます!」
その答えにプリマゲーラはまさに花が咲いたような笑みを浮かべ手を打って喜んだ。
「それでは世界を救ってもらうためにいくつか貴方に力を与えましょう」
龍二が異世界行きを承諾したことによって、二人の間に漂っていた重苦しい雰囲気は払拭された。そこからはまるでマニュアルがあるかのように淡々と説明が続けられた。
説明の内容を要約すると、神界に入るためには肉体を捨てて魂の器である精神体でなければならない。そのため下界に下りるときに新たな肉体を、それも元の世界で使っていたものよりも性能のいい肉体が与えられる。また、現在は精神体であるために魂に適性があれば好きなスキルを取得することができる。その上、祝福と呼ばれる下界の人間は極稀にしか持って生まれない特別な能力も一つだけ選定して与える。
肉体のことを黙っていたことでひと悶着あったものの、概ね問題なく準備が進められる中で、最後に龍二に与える祝福を選定中に問題が起こった。
「……与えられる祝福がない?」
「はい。正しくは貴方に合った祝福が選定できなかっただけですので、無理やり他の祝福を与えることも出来なくはないのですが、そうなると魂と祝福の間に不和が生じてしまい、最悪の場合は祝福が剥がれる衝撃で魂が壊れてしまうかもしれません」
「……そんな危なっかしいものはいらない。俺は元の世界に還る。その前に死ぬわけにはいかない」
あまりの事態に思わず言葉を失った龍二だったが、すぐに正気を取り戻して自らが死ぬ可能性が高い選択肢を拒否した。
「ですが、貴方がこれから行く世界は元いた世界よりも危険が多く、いつ死ぬかもわからないようなところです。私としても世界を救ってもらわなければいけないので、すぐに死んでしまっても困るのです。祝福やこれまでの強化はそのための保険でもあるのですよ」
「なら、その分は他で補ってくれ」
龍二はあくまで危険な力を受けるとつもりは無いようだ。そのことにプリマゲーラは少し困ったような表情を浮かべたが、こちらもすぐに気持ちを切り替えたのか、別の提案をしてくのだった。
「でしたら、その分肉体の強化を上げておきましょう。気休め程度かもしれませんが、いきなり実力者と対面しても逃げ切れるくらいにはしておきます。あとは戦闘系のスキルを取得しやすくしておきましょう。それでよろしいでしょうか?」
「ああ。構わない」
「それではそのように取り計らっておきます。祝福を与えられなかったお詫びと言うわけではありませんが、何か一つだけ貴方の願いを叶えましょう。勿論、帰還以外で」
唐突に提案された願いを叶えるというチャンスに龍二は考えを巡らせた。無論最大の願いは元の世界に還ることだ。しかし、それは提示する前に却下されている。
ならば次点は魔王に関することか。出現場所や時期に関する情報や弱点などを知ることができれば、帰還の方法を探すことに集中できるかもしれない。しかし、これも当然却下されるだろう。自分の世界を救ってもらうために誘拐紛いのことまで容認しているのにそれに関する情報を開示しないということは元々持っていないということだろう。それに神が下界に干渉できないことも説明されていた。持っていない情報を今から探ることも出来ないだろう。
なら、純粋に自らの欲望を叶えるか。プリマゲーラは心象こそ最悪なものではあるが、その容姿はまさに神懸かって優れている。龍二も男だ。昔事故にあったとはいえ、男性機能に異常はない。勿論、一般的な情欲も持ち合わせている。何でも願いを叶えてくれると言う美女が目の前にいるのだ。ましてや、これから命を懸けた魔王討伐に赴こうとしている。その前に滾った己を鎮める手伝いくらい頼んでも罰は当たらないだろう。そこまで考えたところで龍二の頭に最愛の妹の姿が過った。その顔は満面の笑みにもかかわらず見たものを凄ませる妙な迫力を携えていた。
乱れた思考を整えるため頭を振っていると、ふっとある考えが浮かんできた。それは元の世界で読んだ本の内容だった。
その本の内容を思い出してから願いはすぐに決まり、龍二は迷うことなくその願いを口にした。
「召喚される場所を変更してくれ」
真意を量りかねたプリマゲーラからその理由を尋ねられた龍二だったが、なんとかプリマゲーラに本心を隠したままその願いを叶えることを承諾させたのだった。
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