第七章 決戦の火花①
あれから少年は、来る日も来る日も修練を怠らなかった。朝焼けが空を薄く染める頃には既に修練場に立ち、誰よりも早く身体を動かし始める。
まだ空気に冷たさが残る時間帯。吐く息が白くなる中でフリントは何度も同じ動きを繰り返していた。
踏み込み。捻り。打撃。一連の動作を細かく分解し、繋ぎ直し、無駄を削ぎ落とす。
ただ力任せに振るうのではない。拳の角度、重心の移動、接地の感覚、そのすべてを一つ一つ確かめるようにまるで自分の身体を再構築するかのように動き続ける。
昼になれば模擬戦形式での反復。
相手がいなくとも仮想の敵を前に想定し、間合いを測り、攻防を組み立てる。見えない相手と戦いながら己の癖を潰し、選択肢を増やしていく。
夜になれば疲労で軋む身体を無理やり動かしながらの反復練習。一度でも止まれば積み上げてきた何かが零れ落ちてしまう気がした。だから止まらない。止まれない。
そうして一日が終わり、また次の日が来る。
その繰り返し。
ただその“繰り返し”の意味を、フリントは誰よりも知っていた。
同じ日など存在しない。
同じ時間など、戻らない。
だからこそこの一回を積み上げるしかない。
そうして迎えた選抜戦前日。
金髪の少年は一度動きを止める。
静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。胸いっぱいに空気を取り込み、ゆっくりと吐き出す。
独特な呼吸法。意識を一点に集約し、余計な思考を排除するための儀式のようなもの。
肺の奥まで満たされた空気が少しずつ抜けていく。
それと同時に、内側のざわつきも押し流していく。
「(……明日か)」
選抜戦はもう明日。
今さら気にしたところで仕方のない段階まで来ている。
だがそれでも——。
「(……今回は、何も起きてねえ)」
ほんのわずかに安堵があった。
これまでのような“ズレ”がない。
本来の流れを外れた時に起きていたあの不自然な変化。
シエラクロスに何かが起きる兆し。
それが今のところは見えない。
あれだけ言われた。
初心に戻れと。
余計なことをするなと。
その通りに動いている。だからこそ、今は“正常”だ。
だが——。
「(……結局、同じじゃねえんだよな)」
どこまで行っても。自分はあの最初のフリントライズではない。
何も知らずにただ前だけを見ていた少年ではない。
知ってしまっている。
失敗を。死を。別れを。
その記憶を抱えたままの時点で完全に同じにはなれない。
そうだとしても——。
「……っ!」
少年は拳を前に突き出す。
空気を裂く音が響く。衝撃が遅れて腕に返ってくる。その感触が現実を強く引き戻す。
「(……すげえよな)」
ふと、思う。
シエラクロス。オルタディナ。
あの二人の存在を。
もし。もしもあの二人が自分と同じようにやり直しを繰り返していたとしたら。もっと上手くやるだろう。
もっと賢く。もっと効率的に。無駄な遠回りなんてせずに正解に辿り着くはずだ。
そう思えてしまうほどにあの二人は“出来ている”。
「(……俺は違う)」
だからこそ余計なことはしない。気負わない。ただ真っ直ぐに進む。
そう決めたはずだった。
なのに。
——お前には勝てない。
不意に、声がした。
頭の奥から。
まるでもう一人の自分が語りかけてくるように。
——お前は超えられない。
あの時の外套の人物の言葉とぴたりと重なる。
違うはずなのに。違うと分かっているのに。同じ響きで心を抉ってくる。
「(……うるせえよ)」
心の中で吐き捨てる。
しかしその声は消えない。
——何回負けた?
——何回届かなかった?
——何回、同じことを繰り返した?
「ああ……」
分かっている。嫌というほど分かっている。
何回も失敗した。何回も間違えた。
今さら何を言っていると、そう思う。
思うのに。
「(……怖えな)」
ぽつりと、本音が零れる。
怖い。またあの結末を見るのが。
怖い。シエラクロスが死ぬのが。
怖い。オルタディナと別れるのが。
そして——また負けるのが。
全部怖い。知ってしまったからこそ、経験してしまったからこそ、その恐怖は以前よりもずっと鮮明で、ずっと重い。
「(……距離、空いてくな)」
ふとそんな感覚が浮かぶ。
周囲の人間たち。
レオンも。オルタディナも。シエラも。
同じ場所にいるのに、同じ時間を過ごしているはずなのに、どこか遠い。自分だけが別の時間を歩いているような、手を伸ばせば届く距離のはずなのにどうしても届かない場所へ行ってしまったような感覚。
「(ダメだな)」
そんなことを考えている時点でもう弱い。
分かっている。
しかし弱い自分は確かにここにいて消えてはくれない。何度やり直しても、何度立ち上がっても、その影はずっと付きまとってくる。
それでも。それでもフリントは拳を握る。
逃げないと決めた。
———
選抜戦代表トーナメント。
その日朝の空気は妙に澄んでいた。
シエラクロスとの準決勝を目前に控えた時間帯。会場周辺には既に人の気配が満ち始めているが、まだ本格的な喧騒には至っていない。張り詰める直前の静けさ。嵐の前の凪のような、そんな曖昧な時間だった。
フリントライズはその中をゆっくりと歩いている。
ここまでの道のりはあまりにも順調だった。順当に勝ち上がり、予定通りの位置に立っている。どの試合も危なげはなく、むしろ拍子抜けするほどに圧倒してきた。
身体の調子は問題ない。動きは軽い。感覚も研ぎ澄まされている。これまで積み重ねてきたものが確かに形になっているのを実感できる。
なのに——。
「(……なんだ、この感じ?)」
胸の奥に引っかかるものがある。
小さく、だが無視できない違和感。
何かを忘れているような、何かを見落としているような、そんな拭いきれない感覚。
それがずっと消えない。
原因は分からない。ただそれがあることだけははっきりしていた。
「結局、あんたはあっさりと勝ち上がったわね?」
不意に、声が掛かる。
思考が途切れ、少年は顔を上げた。
そこにいたのは——。
「オルタディナ……」
赤い短髪を揺らしながら、ベンチに腰掛けている少女。
いつも通りのどこか気だるげで、だが隙のない佇まい。
「勘違いしないで。あんたが余裕そうだから油断してないか見にきたのよ」
手をひらひらとさせながら相変わらずの調子。
「ま、油断はしてなさそうね? 少し緊張はしてそうだけど」
言葉の端々に棘を含ませながらも、その視線はしっかりとこちらを見ている。
ただの揶揄いではない。その奥にあるものが僅かに透けて見える。
「(……またか)」
フリントは心の中で呟く。
これも見覚えのない展開。新しいパターンだ。
特別なことをした覚えはない。未来を大きく変えたつもりもない。だが明らかに“ズレ”は生じている。
思い当たることがあるとすれば——。
「(……今回は、頼ってねえな)」
このやり直しでは彼女に教えを乞うことはなかった。
助言も受けていない。ただひたすらに自分と向き合い、自分のやり方で積み上げてきた。
だからこそ——。
彼女にとっては物足りなかったのかもしれない。
あるいは別の理由でここにいるのか。
「(……分かんねえな)」
思考はまとまらない。
少年はしばらく何も言わずに彼女を見ていた。
その視線に彼女が眉をひそめる。
「……は? 何よ? 黙って見てきて。私の顔に何かついてる?」
「いや、そうじゃねえ」
短く返す。それ以上の言葉が出てこない。
胸の奥の引っかかりがより強くなる。
「(……今しかねえのか?)」
もしこれが“本来の流れ”なのだとしたら。この違和感の正体を掴めるのはこの瞬間しかないのかもしれない。
——しれないが。
「(……いや、待て)」
思い留まる。
これまでの失敗が脳裏を過る。
余計なことをした結果。
歪んだ未来。
早まる死。
「(……また同じことやる気か?)」
自問する。分からない。何が正解かなど結局は誰にも分からない。
この感情に従っていいのか。それとも無視すべきなのか。
答えは出ない。
しかし——。
「(……やめとけ)」
一つだけ、確かなことがある。
"歪める要素”は、極力排除すべきだ。
あの時、彼女が言っていた通りに。
余計なことはしない。
初心に戻る。
それが最も確実な道。
ならば——。
「(……やることは一つだ)」
シエラクロスに勝つ。
それだけでいい。
それで、未来は変わるはずだ。
それで——終わるはずだ。
「(……それだけで、いいはずなのに)」
それでも胸の奥の違和感は消えない。
本能か何かが訴えかけてくる。
何かを言えと。何かを残せと。
そんな風に内側から突き上げてくる。
「(……クソ)」
思考よりも先に口が動いた。
「——なあ?」
赤短髪の少女がわずかに目を細める。
その仕草に少年は柔らかい表情を浮かべながら——。
「お前さ。次から頑張れよ」
「は?」
予想外の言葉に彼女は露骨に眉をひそめた。
「何急に……」
「勿体ないじゃねえか?」
フリントは視線を逸らさずに言う。
「強いお前と戦えねえなんてさ」
その一言はどこか軽くて、だが確かに本音だった。
少年の言葉にオルタディナは一瞬何を言われたのか理解が追いつかなかった。
目を瞬かせ、間の抜けたような表情のまま、わずかに口が開いた状態で固まる。
完全に意表を突かれた反応だった。
無理もない。これから準決勝に挑むというタイミングで目の前の相手ではなく、自分の話を持ち出されるなど想定していなかったのだろう。
「ぇ……はぁ?」
遅れて戸惑いの声が漏れる。
「てか私、持病だし」
言い訳のような、突き放すような、いつもの調子で言い返す。
しかしその声音にはわずかに揺らぎがあった。
それをフリントは見逃さない。
「持病だったとしても、お前がスゲェ奴ってのには変わりねえんだよ」
即答だった。
一切の迷いも、躊躇もない。
ただそれが当たり前だとでも言うように、その言葉には誇張も飾りもなかった。
そうだから——重い。
彼女は言葉を失う。
反論しようとしたはずの口がうまく動かない。
——何よ、それ。
内心でそう思っていた。
そんな簡単に、そんな風に言い切れることじゃないはずなのに。
彼の中でのオルタディナは違う。それは紛れもない事実だった。
戦えばシエラクロスより強い。
それだけじゃない。
どれだけ傷付いても、どれだけ歪んでも、それでも誰かのために動ける強さを持っている。
優しさと、気高さと、そして臆病さすら抱えたまま、それでも前に進もうとする意志。
そのすべてをフリントは知っている。
「(……見てきたからな)」
どれだけ背中を押されたか。
どれだけ助けられたか。
どれだけ、救われたか。
だからこそ今度は自分の番だ。
結果は出す。それは大前提だ。
しかしそれとは別に。
「(……これくらい、いいだろ)」
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
彼女に返してやりたかった。
未来を知る者として。
先に進んでしまった者として。
ほんのわずかな、“先輩”の真似事を。
「あんたに……私の何が……」
言葉が途切れる。
問いかけの形を取りながらも、それは半分以上独り言に近かった。
理解できないというよりも。理解したくないという響きが混じっている。
「分かったなんて言わねえよ」
金髪の少年は短く答える。
「ただそれでも、だ」
それ以上の説明はしない。する必要もない。分かってもらおうとしているわけじゃない。ただ自分がそう思っているだけだ。
フリントは一歩前に出る。
オルタディナとの距離を詰める。
そして彼女の前に差し出す。
それは手ではなく、握られた拳。迷いなく真っ直ぐに突き出されたそれ。
少女は思わずその拳を見つめる。
意味を測りかねるように。
次にゆっくりと視線を上げる。
そこには変わらず真っ直ぐな金色の瞳。逃げも誤魔化しもない視線。
その戸惑いを含んだ表情に向けてフリントは静かに口を開いた。
「約束しようぜ?」
彼は差し出した拳をそのままに迷いなく言った。
「俺はシエラに勝つ。だからオルタディナ——お前も追いかけてこい」
「——ッ!?」
その言葉はあまりにも予想外だった。
オルタディナの瞳が見開かれる。
ほんの一瞬、言葉の意味を理解するまでに間が生まれる。
それほどまでにその台詞は“らしくなかった”。
少なくとも以前のフリントライズなら決して口にしなかった言葉だ。
自分の勝利を前提に語ることも、他人の未来を勝手に決めつけることも。そして何より——誰かを“引き上げる側”に立つことも。
「……何か変わったわね?」
そう思うだろう。
いや変わったなどという言葉では足りない。
"進んだ”のだ。
誰にも見えない場所で、誰にも理解されない時間の中で、それでも確かに。
それが分かるからこそ胸の奥がわずかにざわつく。
だが同時に少年は知っている。
これが自分にとって不利に働く可能性があることを。余計な要素を加えることで未来が歪むかもしれないことを。
だとしても——。
「(……関係ねえ)」
そんなものはどうでもいい。
ただ勝つだけ、原点に戻るだけ。それだけで終わるならそれは“乗り越えた”とは言えない。
ここまで来た意味がない。
あの時間も、あの言葉も、あの涙も。
全部、無駄になってしまう。
「(……ふざけんな)」
だからフリントはそれを捨てなかった。
抱えたまま、進む。「あの時のオルタディナ」を置いていかないために。
一緒にここまで来たものとして、その想いごと背負っていく。
「だから、先にいくぜ?」
軽く言う。だがその言葉の奥にあるものは軽くない。
道は示した。
後は——選ぶだけだ。
それを受け取るか、それとも無視するか。
決めるのは、彼女自身だ。
空振りでもいい。それでもこの言葉は無意味にはならない。
何故なら——。
「……勝手ね」
オルタディナがようやく口を開いた。
呆れたように、だがどこか楽しげに。
「何も知らないし、もうシエラクロスに勝った気でいるし、まるで私を信じ切ってるから言ってる節あるし、偉そうだし、偉そうだし」
「……偉そう多くねえか?」
思わず返す。
しかしそのやり取りすらどこか軽やかだ。
「うるさいバカ。全部あんたの思い通りになるわけないでしょ」
その言葉にフリントは言葉を詰まらせる。
ぐうの音も出ない。
言っていることは全部正しい。思い通りにならないことなど嫌というほど知っている。
それでも、言った。
それでも、踏み込んだ。
その結果が、これだ。
「……っ」
困ったように金髪の少年は空いた手で頭を掻く。
どう返すべきか、言葉を探す。
その様子を見て少女は思わず吹き出した。
「あはは」
「なんだよ。怒ったり笑ったりしやがって」
呆れ半分、安堵半分。そんな声音。
「(……ほんと、忙しいやつだな)」
フリントは内心で苦笑する。
泣いた顔も見ている。
壊れかけた姿も見ている。
それなのに今はこうして笑っている。
感情が豊かすぎる。ついて来いとは言ったが、むしろ自分の方が振り回されている気すらした。
「あんたが困るのは、何か小気味いいわ」
「くそっ! 言って損したぜ」
「そう? 損はしないわよ?」
「あ? どういう——」
言い終える前に。
小さな音が、間に挟まる。
コン、と。
フリントの拳にオルタディナの拳が触れた。
強くもなく、叩きつけるでもなく、ただ優しく包み込むように。
その感触は思った以上に温かかった。
彼女はわずかに目を細める。
そして、微笑んだ。
「勝てば……あんたを追いかけてあげる」
「お前……」
その言葉の意味を彼はすぐに理解する。
「言っとくけど、私はすぐ追いつくわよ?」
わずかに顎を上げ、挑発するような上目遣い。
「シエラに勝って慢心しないことね?」
その言葉は約束だった。
同時に——覚悟でもあった。
「(……ああ)」
フリントは口元を緩める。
ようやく。ようやく繋がった気がした。
「ああ、任せろ」
迷いなく言い切る。
それで十分だった。それ以上はいらない。
これで、過去に置いてきた“あの彼女”への想いも少しは報われただろう。
完全ではない。どうであれ、あの時の彼女はあの時だけなのだ。
だがそれでも確かに前に進んだ。無駄にはしない。
後は——勝つだけだ。
それ以外何もいらない。
フリントライズはゆっくりと背を向け、そのまま会場へと歩き出す。
もう振り返らない。振り返る理由がない。
「ふふ、期待しているわ」
少年には聞こえない程度の声量でオルタディナは細やかなエールを送る。
そんな彼女が見た彼の背中はこれまでよりもほんの少しだけ大きく見えていた。




