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第五章 舞い散る火花⑨

 それからしばらくの間、フリントは何もしなかった。

 否、何もできなかった。

 自室のベッドに横になったまま、ただ天井を見つめる時間だけが過ぎていく。朝になっても、昼になっても、夜になっても、その姿勢はほとんど変わらなかった。目を閉じれば眠れるはずなのに、意識は浅く浮いたまま沈まず、かといって完全に覚醒しているわけでもない。どこにも属さない曖昧な状態のまま、時間だけが滑っていく。

 何日経ったのか、もう分からない。

 食事のことも、考えなかった。腹が減っているという感覚はどこか遠くにあって、それが自分のものだという実感がない。喉が渇いたときだけ、水を口にする。それだけで十分だと、身体が勝手に判断していた。

 鏡を見ることもなくなったが、頬の肉がわずかに削げていることは、自分でも分かる。身体は軽くなっているはずなのに、動こうとするとひどく重い。指先に力が入らず、握りしめようとしても空を掴むだけだった。

 何もしていない。その事実だけが頭のどこかに残っている。


「(……何か、しないと)」


 その思考が何度も浮かぶ。

 だが続かない。何をすればいいのかが分からないのだから。

 それでも考えようとするたびに別の声がそれを打ち消す。


「(……何をしても、無駄だ)」


 冷たい、確信に近い否定。

 これまで何度もやってきた。調べて、動いて、戦って、それでも結果は変わらなかった。形は変わる。犯人も変わる。場所も変わる。

 それでも——。


「(……結局、死ぬ)」


 その結論に戻る。

 ならば何をしても同じだ。その思考が全てを止めた。


「(……いや、でも)」


 何かしなければいけない。

 そうしなければまた同じことが繰り返される。


「(……でも、どうやって?)」


 方法が分からない。

 分からないまま考えることをやめる。そうしてやめれば少しだけ気が楽になった。

 だが、その“楽”は長く続かない。

 何もしていない自分がすぐに意識の表に浮かび上がる。

 それを見たくなくてまた思考を止める。その繰り返しだった。

 何かしなければ、と。何をしても無駄だ、と。二つの考えが、頭の中でずっとぶつかり続けている。

 どちらも正しいようで、どちらも間違っているようで、どちらにも進めない。

 ただそこで止まって時間だけが過ぎていく。



 ふと、目を開けたとき。

 部屋の中がやけに静かなことに気付いた。いつもと同じはずなのに何かが違う。

 ゆっくりと上体を起こし、視線を巡らせる。

 机の上。床。棚。

 何もない。

 水の入っていた容器も空になっている。


「(……なくなったか)」


 妙に冷静な思考だった。

 喉がわずかに渇いている。それでようやく自分がここ数日ほとんど何も口にしていないことを思い出す。


「(……行くか)」


 小さく息を吐く。

 立ち上がる動作がやけに重く、足に力が入らない。だが歩けないほどではなかった。

 扉に手をかけて一瞬だけ止まる。

 外に出るのが久しぶりすぎたからだ。何が変わっているのかも分からない。ただ、それでも開けるしかなかった。

 ゆっくりと扉を開く。廊下は暗かった。

 夜だ。人気はない。灯りは最低限で、長く伸びた影が床に落ちている。

 足音を立てないように歩くが、静かすぎる空間が逆に落ち着かない。


「(……こんなだったか)」


 記憶の中の廊下と少し違って見える。それが時間のせいなのか、自分の状態のせいなのかは分からない。ただ、どこか現実感が薄い。

 そのまま、歩く。

 水を取りに行くだけ。それだけのはずだった。

 だが角を曲がったその先で影が動いた。

 フリントの足が止まる。

 視線が自然とそちらへ向く。そこは月明かりが窓から差し込んでいた。

 その光の中に一人の少女が立っている。

 群青の髪が淡く光を反射する。

 細い身体。静かな佇まい。

 ——シエラクロス。

 彼女は何も変わらない姿でそこにいた。

 金髪の少年の呼吸がわずかに止まる。

 時間が止まったように感じられた。

 廊下に音はなくフリントが足を止めたままシエラを見ている。シエラもまた動かずにこちらを見ていた。

 距離は数歩。

 それだけなのに妙に遠く感じる。

 何も言わない。何も動かない。ただ、互いの存在だけがそこにある。

 時間が引き延ばされているようだった。


「(……なんで、ここにいる?)」


 意味のない問いが浮かぶ。

 彼女はここにいるだけだ。ただそれだけのこと。

 なのに。


「(……見れねえ)」


 直視できない。

 目の前にいるのは、“今の彼女”だと分かっている。まだ何も起きていない。何も知らないままのシエラクロス。

 それでも脳裏に焼き付いているのは別の姿だ。

 血に濡れて、倒れた身体。自分の前で崩れ落ちたあの瞬間。


「(……やめろ)」


 思考を切る。

 ここにいるのはあの時の彼女じゃない。そう分かっているのに感覚がついてこない。

 胸の奥がじわりと締め付けられる。


「(……無理だ)」


 このまま立っているのは耐えられない。

 フリントはゆっくりと視線を逸らす。何も言わないまま足を動かしてシエラの隣を横切る。

 ただ、それだけのつもりだった。

 関わらない。いや、そんな気力すらない。部屋から出るので精一杯な彼には今は余計な接触すら億劫である。だから今回は何もしない。

 そう決めたはずだった。


「——待って」


 声がかかった。

 その瞬間、足が止まる。無意識に。


「(……え?)」


 頭の中で違和感が弾ける。


 今のは——。


 ゆっくりと振り返る。

 シエラがこちらを見ていたが、何故かその目がほんの少しだけ揺れていた。

 いつもと違う。


「(……なんだ、それ)」


 理解が追いつかない。

 彼女はそんな風に声をかけるタイプじゃない筈だ。誰かを引き止めることもほとんどない。

 それなのに。


「……元気、なさそう」


 小さな声だった。

 確かめるような、迷うような言い方。

 その言葉が、やけに引っかかる。


「(……は?)」


 少年は、無意識に眉を寄せる。

 心配? 今、こいつは——自分を?


「(……どういう事だ?)」


 胸の奥で嫌な感覚が広がる。

 違う。違うだろ。おかしい。


「……そうでもねえよ」


 反射的に言葉を返す。

 短く、切るように。

 だがシエラは引かない。


「うそ……何かあったの?」


 一歩、近づくわけでもない。だが、その言葉だけで距離が詰まる。

 普段ならここで終わるはずだ。それ以上は踏み込まない。それがシエラクロスという人間だった。

 なのに。


「(……なんで食い下がる?)」


 違和感が強くなる。

 意味の分からなさにじわじわと、苛立ちが募ってくる。


「……お前には、関係ねえだろ」


 声が冷たくなった。

 突き放す。それで終わるはずだと、彼は思っている。

 だがシエラは、視線を逸らさない。

 少しだけ眉が寄る。何かを考えているような、迷っているような表情。


「(……なんだよ、その顔)」


 胸の奥がざわつく。

 嫌な予感がする。

 これまでの周回ですら全くなかった明らかに違う動き。

 関わらないようにしているのに。向こうから踏み込んでくる。


「(……やめろよ)」


 思考の奥で警鐘が鳴る。

 このまま進めば、また何かが起こる。またあんな悲劇に繋がる可能性がある。

 それなのに目の前のシエラは止まらない。


「……関係、なくはない」


 小さく、そう言った。

 その一言でフリントの中の何かが切れる。


「(……何がだよ)」


 苛立ちが一気に膨れ上がる。

 理由は分からない。ただこの状況そのものが気に食わない。

 関わるなと決めたのに、離れようとしているのに。それを邪魔される。

 しかも。


「(なんでお前が、そんなこと言うんだよ)」


 シエラクロスが。

 あの誰とも距離を取っていたはずの彼女がそんな言葉を、投げてくる。


「(……ふざけんな)」


 腹の奥がじわりと熱くなる。

 これは怒りとも違う。苛立ちとも違う。もっと形の定まらない感情。それが確実に膨らんでいく。

 フリントはシエラを見た。その目はさっきよりもはっきりと冷えていた。

 関わらない。

 その意思だけを無理やり押し出すように。

 それでもなお、この状況は確実に“いつもと違う”方向へと動き始めていた。


「……何がどう関係あるんだよ?」


 金髪の少年の声は抑えたつもりでもどこか棘を含んでいた。

 シエラはすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げる。


「……このまま何もしなかったら、あなたは代表戦に出られない」


 静かな言い方だった。

 だがその言葉は妙に具体的で、フリントの中で引っかかる。


「(……は?)」


 意味がいまいち繋がらない。

 代表戦。その単語自体は何度も聞いてきたし、そこに至るまでの流れも分かっている。だが今の彼にとって、それはもう別の意味を持っていた。

 最初は待ち侘びた日のような期待と希望に膨らんだものであったが——。


「(……タイムリミットだろ)」


 決勝前。その直前。

 シエラが死ぬまでの残された時間。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 勝つとか、負けるとか、そんな次元の話じゃない。そもそも勝てない。何度やっても届かない。積み上げても、追いつかない。


「(……必要ねえだろ)」


 そんなもの。

 今の自分にとって代表戦なんて。道標だった筈のものは、もはやただの“終わりの目印”でしかなかまとた。

 フリントはゆっくりと息を吐く。


「……出る気ねえよ」


 本音を吐露する。

 それで終わるはずだった。

 関わらない。そう決めた通りに。

 なのにシエラの反応は違った。


「……」


 一瞬、言葉が途切れる。

 そして。


「……強くなるんじゃ……」


 震えた声だった。

 かすかに。だがはっきりと。


「最強になるんじゃなかった……の?」


 その問いはあまりにも予想外だった。

 少年の思考が一瞬だけ止まる。


「(……何の冗談だ?)」


 そんな言葉。彼女の口から出るとは思っていなかった。

 しかもその言い方。

 どこか縋るような、確かめるような。普段のシエラにはない弱さを含んだ声音。


「(……なんだよ、それ)」


 少年の心がわずかに揺れる。

 ほんの一瞬だけ、昔の自分を思い出す。田舎で、何も知らずに、ただ上を見ていた頃の。

 だが、その揺れはすぐに別の感情に飲み込まれる。

 苛立ち。抑えきれない濁ったもの。


「(……やめろよ))」


 そんな顔をするな。そんな言い方をするな。今さら、今さらそんなものを持ち出すな。

 フリントはゆっくりと顔を上げる。

 その目は完全に冷えていた。


「……最強?」


 口にした瞬間自分でも分かる。

 声に感情が乗っている。

 止める気はなかった。


「なれる訳ねえだろ? 俺なんかが。馬鹿じゃねえの?」


 はっきりと言い切る。

 逃げも濁しもない。真正面から叩きつける。

 その言いようにシエラの肩がわずかに揺れる。


「ッ……」


 息を呑む音。

 だが金髪の少年は止まらない。

 止める理由が、もうない。


「田舎で王様気取りで浮かれて目指した先にあったのはただの現実だ」


 言葉が止まらない。溜め込んでいたものがそのまま溢れ出る。


「どれだけ頑張っても届かない。敵わなくて叶わない。頑張る意味なんか最初からなかった」


 吐き捨てるように。

 自分に対してなのか、目の前の相手に対してなのかすらもう分からない。

 ただ感情が出る。

 止まらない。

 シエラは何も言わない。俯いたまま動かない。その姿が、さらに苛立ちを煽る。


「(……ふざけんな)」


 その反応。その沈黙。

 全部が気に食わない。

 フリントは一歩踏み込み、距離を詰めて俯いたままのシエラの目の前に立つ。


「……いいよな、お前は」


 低く、言う。


「目指す先があって、近付けるんだから」


 その言葉はほとんど皮肉だった。

 いや、皮肉ですらない。ただの、歪んだ本音。

 その瞬間だった。

 シエラの腕が動く。予備動作はなかった。

 片手で。フリントの胸元を、押す。


「——っ」


 思っていた以上に力が強く、踏ん張れないままバランスを崩して尻餅をつく。床に叩きつけられる感覚が遅れて伝わったが、一瞬何が起きたのか理解できなかった。

 顔を上げる。

 シエラはもうこちらを見ていなかった。

 背を向けてそのまま歩き出している。

 止まらず、振り返らず、何も言わない。ただ去っていく足音だけが静かな廊下に響く。

 やがてその音も消え、残されたのは、フリント一人。

 尻餅をついたまましばらく動けない。


「……は?」


 かなり遅れて間の抜けた声が漏れる。

 状況が追いつかない。

 さっきまでの会話も、今の行動も。全部が繋がらない。


「……訳分かんねえ」


 小さくぼやく。

 それ以上の言葉が出てこなかった。

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