16-5
「それでね、私が舞踏会に飽き飽きして一人庭へ散策に出た時のことなんだけどね」
「もう、その話は耳にタコだよ」
「カッツェは、そうでもサファイアの宝石眼は初めてだもの。あなたは厭なら聴かなければ良いでしょう?」
二人の女性が言い争う中央で震えながら、紅茶を飲む国の宝。
(お嬢さまは、産まれたての小鹿によく似ています)
傍に控えていた優秀な彼女の侍女が悪気なくそう見えるほど、サファイアはあたふたしていた。
(どうして、こんな豪華な二人の間に私が入るの?さっきみたいに夫人が中央に君臨して、それを周りが囲むんじゃないの……)
サファイアは顔がどんどん下降していった。
「それでね、サファイアの宝石眼」
「は、はい?」
「そこで、私は運命の出会いをしましたのよ」
チェルシーが少女のように顔を綻ばせた。
大輪の華が後ろに咲いているように錯覚する。
「運命の出会い?」
「えぇ。私はそこで、レーゲンと出逢いましたのよ!」
「――!」
サファイアは、虚を突かれた。
密かにずっと知りたいと思っていた、クヴェレ公爵とこの夫人の馴初め。
まさか、こんなところでその機会に恵まれるとは。
色恋には疎くとも、そこは女。
興味や関心は隠せない。
普段、タッキーと暮らす館では無縁に等しい会話の題目。
サファイアは思わず前屈みになり話を傾聴した。
「ど、どんな出会いだったのですか?」
「まぁ、やっぱり興味を持ってくれるのね?」
チェルシーが、両手を合わせて歓喜する。
その横で、カッツェは頭を抱えてやれやれという顔をした。
「サファイアの宝石眼様。……忠告はしたからね」
「えっ?」
サファイアは、首を傾げたが、すぐにその意味を理解する。
『全く、どうして貴族は、あんな薄っぺらい会話しかできないのかしら。〝高尚〟って単語を母親の胎内に忘れてきたに違いないわ』
当時、侯爵令嬢として、独身貴族の注目の的だったチェルシーは、毎回出逢えば囀られる、愛の詞に嫌気が差していた。
そうして今日も、父親の目を盗んで、こうして招待された公爵家を抜け出し、庭の散策に出ていた。
『私は、絶対結婚なんかしないわ。男ほど、愚かな生き物はいないもの。絶対修道女として余生を過ごしてやるわ』
もう、何度心に念じたかわからないその決意を今日も口にする。
カサッ――。
その時、葉が僅かに擦れる音がした。
チェルシーは驚き、その方角へ目を向けた。
(もう、お父様に気付かれて、誰か迎えを寄越したのかしら?)
しかし、そこに人影はなかった。
チェルシーは、恐る恐る音の鳴る方へ進む。
やがて一本の大木が姿を現し、その前に一人の男が立っていた。
角度を変えて、顔を確認する。
すぐに誰かわかった。
本日の舞踏会の主催者。
クヴェレ公爵家長男のシュタオエン侯爵、その人だと。
(……なにをしてるのかしら?)
チェルシーは目を凝らして彼を観察した。
こんな時にここにいるチェルシーが言えたことではないが、主催者が舞踏会の会場から離れるなど、言語道断である。
そこまでして、ここにいる意味に興味があったのだ。
また、一歩近づいたところで、侯爵が見ているモノがなにかわかった。
(蜘蛛の巣……?)
その大木には蜘蛛の巣が、張り巡らされた。
よく見ると、蜘蛛の巣に一羽の蝶が囚われの身となっていた。
(なるほど。あの蝶を助けようとしてるわけね)
シュタオエン侯爵の噂は、かねがね両親から何度も何度もまるで刷り込みのように話して聞かされたものだ。
次期公爵として、あれほど民に慕われた〝温厚〟な侯爵はいない。
彼の妻に選ばれる幸運な女性は、生涯幸せになれるだろう、と――。
(馬鹿馬鹿しい。)
チェルシーは心中で思いっきりそう吐き捨てた。
この国の三大公爵家当主に必要な条件。
それに温厚なんて生温い類のものは含まれない。
あんな、次期公爵の妻になんてなったらお先真っ暗。
(領民に騙されるのがオチよ)
目の前の者総てに優しさを見せる。
一見、それはとても素晴らしいことに感じられる。
でも、それじゃあ領民は守れない。
導けもしない。
遅れを取った民を助けていては、きちんと納税する民から不満が出る。
そうして、最後には誰も彼のために働かなくなる。
だって、働かなくても助けてくれるんでしょう?
その温厚な性格で温情を見せて――。
ガブッ!!
『――ひっ!?』
チェルシーは、悲鳴をなんとか己の両手で口を押えて耐えた。
蜘蛛は容赦なく、まだ息のある蝶に齧り付いたのだ。
無残なその光景。
なのに――。
侯爵は、微動だにせずそれを眺めていた。
(嘘……。どうして……)
チェルシーは、そのまま事の成り行きを見守った。
そして、蝶は、跡形もなく蜘蛛の腹に収まった。
蜘蛛が、満足気にまた獲物が来るのを待とうとした刹那。
グサッ!!
『――っ!!?』
今度は、その蜘蛛の背中を一刺しにした者がいた。
シュタオエン侯爵本人だった。
彼は、隠し持っていた刃をその蜘蛛の背中に一突きした。
わけもわからず、手足を必死にバタつかせるそれを、彼は変わらず無表情に見つめる。
そして、やがて蜘蛛もその命を終えた。
息ができなかった。
だって、音を立てれば、次は自分の番。
まるで刑の執行官か断罪者。
一歩後退した。
しかし、今度ははっきり靴音を出してしまった。
ガササッ。
『『!』』
二人が同時に、それに気づき視線が合う。
チェルシーは声にならない叫びを挙げる。
侯爵はゆっくり、蜘蛛の背から刃を引き抜く。
まさか――。
(次は私……?)
一瞬、そんな妄想まで過る。
しかし、彼はその殺人鬼のような出で立ちと対照的に微笑む。
その温厚さを醸し出した表情で……。
『これは、ファルター侯爵令嬢様。お見苦しいところをお見せ致しました』
何事もなかったかのように、振る舞われた。
その姿に恐怖しているのに。
どうしてだろう。
どうせ、殺されるなら彼の記憶に残って死にたいと、その時想ったのだ。
『……どうして、蝶と蜘蛛。両方死なせましたの?これは自然の摂理。人間の手出しをする範疇ではありませんわ』
チェルシーの恐れ知らずな発言に侯爵が少々面食らう。
噂は、男たちの間で何度も交わした。
令嬢として上位に位置し、その美貌から多くの独身貴族に結婚相手として望まれながら、本人は男を嫌悪している、と。
侯爵は、苦笑を漏らす。
それは、チェルシーの癇に障った。
『なにがおかしくて?』
『いや、失礼。簡単な話ですよ。――ここが我が公爵家の屋敷内だからです』
『……意味が解らないのですが?』
チェルシーは訝しげに訊ねた。
侯爵は、持っていた手巾で丁寧に刃に付着した汚れを拭き取る。
『ここは、我が屋敷内。そこに無断で侵入した者には、それが何物であっても死を。――それも、最も悲惨な死を与えたいのですよ』
『――!?』
チェルシーは、また口を手で覆った。
蝶は、屋敷内に燦然と咲き誇る花の蜜を無断で強奪した咎がある。
その身を、己と比べ物にならないような汚い生き物に食い散らかされて絶命する。
その美しい羽を抑制されて最期を迎える。
これほど、屈辱的な死はない。
蜘蛛は、屋敷内で覆い茂った見事な大木に無断で己の住居を構え食料を捕獲しようとした咎がある。
獲物を捕え、それを平らげた瞬間。
その幸福な一瞬にその命を散らされる。
自分を殺した者の顔もわからず、手足を無様に動かし続けて最期を迎える。
これほど、屈辱的な死はない。
チェルシーは、恐ろしい侯爵の持論に指先が凍るのを感じた。
こんなに温かい気候が自分になんの作用もしなかった。
それでも、彼女には意地があった。
なにがあっても〝男〟にだけは敗北したくないという強固な想いが。
『……どうして蜘蛛が蝶を食べ終わるまで待っていらしたの?近づいたところで、両方突き刺して殺してしまえばよかったのに』
チェルシーの問いが意外だったのか、彼は少し思案してから答える。
『それも、そうだけどね。だって、それじゃあ蝶には〝救い〟になってしまうかもしれない。一度、蜘蛛の巣に絡んで体力を奪われたその身はもう長くはない。どうせ死ぬなら、あんな生き物に食い散らかされるより、刃で一突きの方が、幸せだろう。しかも、目の前で己の憎き相手も死ぬのを見れるかもしれない。蝶は、それで本望と思うかもしれない』
――それは、赦せないんだ、と彼は冷酷な目でチェルシーは見つめる。
チェルシーは、今度こそ視線を逸らした。
恐ろしい。
公爵家当主に相応しい人材が、必ず直系に生まれるなんて、綺麗事。
そう、中傷していた。
しかし、侯爵家出身の自分でも近づけない、本当の貴族。
それを、今日、垣間見てしまった。
己の敗北は明白。
でも、どうせ負けるなら、捨て台詞くらい吐いてやろう。
チェルシーは、今度は意志が籠った視線で侯爵を見返した。
『それでも、あなたは愚かだわ。だって、蜘蛛が蝶を食べ切るまで舞踏会を放置して待ちぼうけをするなんて。あなたが一番損をしているもの。それに、どう考えても蝶の方が重い罰を与えられている。あなたは、平等さにも欠けているわ!』
チェルシーは、言い切った。
負け犬の遠吠えでも、これくらいはしておかないと。
彼女もまた、生粋の貴族なのだから。
しかし、彼女のどの詞が彼に刺さったのかはわからない。
それでも、確かに彼女の目標は達成された。
侯爵にとって、初めて記憶に残った女性。
チェルシーは、その女性になれたのだ。
侯爵がゆっくり一歩前へ出る。
チェルシーは慄きながら、もう一歩も下がらなかった。
次の瞬間――。
『アハハハ!君の言う通りだ。本当だね。私は、どうやら愚かだったらしい。私の後ろ姿はさぞかし、滑稽だったろうね!』
刃を持ったまま笑い転げる男。
これほど、異様な光景はないだろう。
そして、唖然とする彼女に落ち着きを取り戻した彼が言う。
『君の言う通り。私は舞踏会に戻らねばなりませんね。どうでしょう?戻った暁には、私と一曲踊っては戴けないでしょうか?』
『えっ?――構いませんわよ』
脈絡のない会話。
それなのに、チェルシーは侯爵の手を取った。
そして、二人で歩き出した。
しかし、三歩程歩みを進めたところで、彼が一度立ち止まる。
『そうだ、さっきの答』
『?』
チェルシーは、己が興奮しすぎてなにを問うたかもすぐに想起できなかった。
彼は、横目で彼女を少し見下ろすように伝える。
『どうして、蝶の方に重い罰を与えたのかです。……私は美しいモノほど、嫌いなんですよ。――だから、あの舞踏会に出席する女性のなかで、あなたが一番嫌いでしたよ』
『!!』
『……ここで、出会うまでは、ですけどね』
微笑みながら、一方的に言いたいことを告げてまた歩み始めた彼に、チェルシーは、自分がどうやってそれに付いて行ったか覚えてない。
ただ、顔を朱色に染めてその日を過ごしたことだけは気づいていた。
その日からの彼女の目標は、修道院に行き、いかに独身を貫くかではなくなっていた。
いかに、策を弄してシュタオエン侯爵の妻の座を射止めるかだった――。




