16-3
その女性は、サファイアの前に来ると、胸を押さえ、息を吐いた。
一般庶民だったサファイアとは異なり、生粋の貴族な彼女には辛い運動だったようだ。
たとえそれが、汗ひとつ掻くことがない距離だとしても――。
「……アンネ様、ごきげんよう」
一応、サファイアは淑女の挨拶をする。
まだ、どこかむず痒さが残るその行為に戸惑うことも多いが。
「ごきげんよう、サファイア様。サファイア様もこの噴水が目的で?」
「……えぇ。本当に素敵な場所ですから」
サファイアは控えめに告げた。
できれば、このまま会話は終了したい。
そんな希望も込めて。
だいたい、そういった希望は叶わない――。
アンネは、その詞に嬉しそうに声を上げる。
「まぁ!私たちもですのよ。よろしければご一緒しませんか?」
両手を合わせて、可憐に喜びを表す令嬢。
男なら、その魅惑の誘いを断れないだろう。
むしろ幸運の女神に微笑まれた心地がするだろう。
実際、サファイアとて、こんな美少女に声を掛けられて厭な気持ちにはならない。
(昨夜の一件がなければね……)
サファイアは警戒していた。
しかし、アンネ以上に後ろの令嬢たちが、ざわついているのがわかる。
彼女たちは、いきなりサファイアの宝石眼に親しげに接する友人に驚愕しているようだった。
サファイアは逡巡した。
できれば、避けたい。
しかし、その上手い手段が思いつかない。
すると、急に、眼の前に大きな影ができた。
「大変申し訳ありません、ハッセン男爵令嬢様。サファイアの宝石眼様は、ここに立ち寄ってすぐに、クヴェレ公爵夫人の元へご訪問の予定がございますので――」
グラオが、笑顔で宣言する。
それに、アンネたちも面食らっっていたが、サファイアはその比ではなかった。
(えっ!?私、そんな予定聞いてない……もしかして、助けてくれた?)
サファイアは声に出さずに、そう判断していた。
アンネは一瞬怯んだが、相手が執事ということもあり、強気に出た。
「あら、執事が出過ぎではなくて?」
「申し訳ございません。――主に忠実なもので」
そういって、一度頭を下げてからの視線を真後ろにいたサファイアは、とうとう拝むことはできなかった。
ただ、はっきりと令嬢の息を呑む音だけが、噴水の水音とは別に静かに聞き取れた。
アンネが、一歩後退する。
慄いている。
それが、よくわかる。
貴族の淑女が、一執事に気圧される。
本来、ありえないこと。
アンネは、それでも淑女の意地で笑顔を崩さず、サファイアに告げた。
「それは、残念です。しかし、公爵夫人のお誘いを私の所為で駄目にするわけには参りません」
――サファイア様、次は必ずご一緒させて下さいませ、とアンネは最後に諦めずにそう告げる。
そして、後ろの令嬢を引き連れて退散していった。
なにか後ろの令嬢が話しかけるのが伝わってくるが、アンネは執事風情に敗北を喫したことを悔しがっているようで、無視してどんどん進んでいった。
サファイアは、それを唖然と見つめていた。
(二度も助けられてしまったわ……)
ただ、段々と異なる疑問も湧いてきた。
サファイアは、おずおずとグラオに声を掛けた。
「あ、あの、ありがとうございました。……でも、どうしてわかったんですか?私が、困ってることを」
サファイアは、賢明にそうとは気づかれぬように表情を作って、アンネに対応していた。
それには、厳しい師匠がいたのだ。
自分でも自信があった。
いや、むしろあの時もそうだ。
どうして、あの葡萄酒が誰か喜ばれるとわかったのだろうか。
タッキーは、動物としてここにいる。
その彼が飲酒するとは思考しないだろうし、クルスもあの外見では酒豪には見られにくい。
実際、彼自身、食欲は旺盛であっても、酒は嗜む程度だと言っていた。
(まぁ、クルス様の嗜む程度って、普通の人の量と同等かはわからないけど……)
サファイアは、不審げにこの出来過ぎた執事を改めて視る。
疑問は一度生まれると際限がない。
グラオは、ゆっくりと振り返る。
一瞬、その顔に表情が無くなった気がした。
すぐに光の反射の関係だろうと思い直したが――。
そして、少々首を傾げながら執事は回答する。
「……困っていらしたのですか?」
「……えっ?」
予想外の答にサファイアも訊き返す。
「あれ、お聴きしておりませんか?噴水をご見学の後、夫人のお茶会にも、本当に出席して頂くのですが?」
「……」
後ろをバッと振り返って己の侍女を見つめる。
そこにいるは、己の味方であるはずの存在。
「お嬢様。公爵夫人のお茶会。興味ありますね」
無邪気な壮齢の女性の笑みほど、恐ろしいものはない。
自分の欲望に忠実すぎる。
都合の悪い部分を綺麗に隠蔽する能力にも長けている。
それは、主人に尽くす侍女にとって必要不可欠な能力かもしれないが。
今回は、その主人に対して、それを使用してしまったようだ。
(態とだ!それを聴いたら、私が行きたがらないのを見越して!)
こんな間際では、訪問を拒否すれば不敬に当たる。
そんな人間事情を、なぜ非人間である彼女が熟知しているかは謎だが。
そこまでの聡明さは、今この時、望んではいない。
「お嬢様?大丈夫ですか?」
グラオが不安げに訊ねる。
「は、はい……」
それに、サファイアは頷くことしかできなかった。
若干俯いてしまったのは、自分を二度も守ってくれた人を訝しんだ己が恥ずかしかったからだ。
少し、神経を尖らせ過ぎているかもしれない。
やはり、心のどこかで犯人を――。
悪呪師を焙り出そうと躍起になっている自分がいる。
それで、なんの罪もない人をいちいち疑うのは、自分自身が疲れるし厭な気分にしかならない。
(やっぱり、今回は諦めるべきなの?)
そんな方向へ思考が傾くのを感じる。
サファイアは、落ち込み、一瞬これからのことを忘却していた。
それは、正真正銘、現実逃避に他ならなかった。
ただ、生きてる限り、自分に起きる総てが現実である。
つまり、すぐにそこへ引き戻されるのだ。
「良かった。――それでは参りましょうか?」
「――え?」
虚を突かれた。
それを気にせず、再度グラオは告げる。
「――もちろん、夫人の元へ」
ただ、執事はそういって、観光名所の案内人から夫人部屋への案内役に早変わりした。
サファイアは、今度こそ固まった。
なぜ、もっと早く気付けなかったのだろう。
最初出逢った時に、彼を上位の執事だと確信していたのに。
本来ならこんな大がかりな舞踏会の中日。
その身は、いくつあっても足りない程、忙しさの中にあるはずなのに。
こんな同じ敷地内の名所案内。
たとえサファイアの宝石眼といえど、彼自らその役を買って出る余裕はない。
現に、クルスは一人で颯爽と姿を消せた。
しかしそれが、己が生涯使えようと決心した主の命令であった場合。
それは例外となる。
なにを放棄しようとそれを優先させる。
それこそが、執事の鏡に相応しい精神。
夫人も己の配下で、最も任務の遂行が信頼できる者を託したのだろう。
必ず、サファイアを自分のお茶会に参加させるために。
(もしかして、こっちの方が厄介事?)
タッキーの詞が倍になってサファイアに襲い掛かってくるのを感じた。
しかし、今のサファイアは前へ進むことしかできない。
ねぇ?
夫人のお茶会って、確か夫人から口づけを施された者のみが参加資格があるんでしょう?
あの夫人に好かれるなんて、相当酔狂な人間しか集まってないんじゃない?
恐ろしや、恐ろしや。
そのお茶会への参加資格を得られない者たちが、噂する。
好奇心と妬みが籠る、その好奇の視線。
(私、生きて帰れるかしら?)
あながち、表現が大袈裟すぎないと思わせる、その茶会に。
今、参加する――。




