15-5
それは、彼が幸せだったころの噺――。
そして、そこから転げ落ちるまでの噺――。
宝石眼として、生を賜った双子。
彼らは、物心つく前から両親と共に、国が所有する豪華な屋敷で、なに一つ不自由ない生活を送っていた。
いや、大人たちに不自由はなかった。
子供たちにとって、その生活こそが不自由だった。
屋敷は、彼らにとって囲いであり檻。
自分たちは、放し飼いの動物となんら違いは見当たらない。
彼らは、それを無意識に不満として募らせていった。
それは、今の彼なら理解できただろう。
宝石眼といえど、相手は年端もいかぬ子供。
好奇心の塊だ。
好きに動かせば、なにか事件に巻き込まれるかもしれない。
転ばれただけでも、一大事。
そんな、危うい存在だったから。
しかし、当時の彼らにそれをわかってもらおうと思考を張り巡らすのは究極の問題だった。
そして、その日は訪れるべくして訪れた――。
先に、彼がその糸を切らしたのだ。
家族、妹にすら気づかれないように夜更けで静まり返った屋敷を、その小さき身を最大限活用し、脱走してみせたのだ。
彼の眼は見開かれた――。
初めてみる道路。
初めてみる市場。
初めてみる街並み。
初めてみる〝世界〟に――。
浮かれていた。
だから、辿り着いた場がどこかもよく知らなかった。
そう。
彼は、神に愛された宝石眼であったのに、その存在を信仰する場所に最も似つかわしい『教会』すら、あの大きな収容所に入って以降、初めて実物を見たのだ。
あまりに、本末転倒。
当時の環境の息苦しさは、それほど重い錨だったのだ。
心魅かれた。
それは、彼が宝石眼だったからか。
それとも、感じ取ったのだろうか。
なかにいる人物を――。
彼は、ターコイズの宝石眼の性質だったからか、その身軽な動きで、何人もの自分付の侍女を困らせていた。
それを生かし、軽やかな動作で、風通しのため鍵を開放していた窓ガラスから侵入を図った。
そして、見つけてしまったのだ――。
中央の祭壇で絵を描く人間の子供を。
彼が生きる世界で、子供は妹のみだった。
それ以外の存在に対面するのすら初めての経験。
だから、気を抜いた。
その瞬間、窓の軋みが音を立てた。
上を向かれ、相手は目を見開いた。
しかし、彼のそれは比ではなかった。
自分以外で美しい瞳を持つ子供は、妹である〝ガーネットの宝石眼〟のみだと教師陣より伝え聞いていた。
それが、今、偽りだったと知った。
闇に映る圧倒的な光。
自分よりも下で輝きを放つ『月』を彼は初めて拝んだ。
下から見上げる、その少年の穢れなき真白な瞳に――。
その者こそ、彼の人生を変えていく存在。
これは、神の悪戯だったのだろうか。
宝石眼に行った人間たちの罪を懲らしめるための。
愛し子を、お前たちの庇護下に置いていいと誰が言った。
自由に生きることこそが、その宝石を輝かせる最も早い近道なのに。
少年が立ち上がる。
彼は、息苦しい己を感じた。
あの大きな屋敷でいくらでも感じてきたはずの、その馴染みの感覚が、今日は異なりを見せた。
こんな激しい動悸は、来なかった。
見つめられるだけで、こんなに歓喜する己自身を。
それに、気づかぬ相手が問う。
「僕を迎えに来たの?」
そう言って、柔らかく微笑んだ。
その微笑みがいけなかった。
二度と抜け出せない。
もう、あの箱庭の変わらぬ視覚から見える月など比べ物にならない。
こんなに表情を変える魅力的な月。
欲しい――。
なんでも、欲しい物は手に入れてきた神の愛し子。
〝自由〟以外のなんでも。
その彼が、今までにない渇望をした存在。
それに彼が選ばれたのだ――。
ゆっくり、彼の前へ降り立つ。
正面から相対せば、いくら幼き少年でも気づく。
彼が死者を導く神ではないことを。
それ以上に、尊い存在であることを――。
持っていた大事な画用紙集が無残に地面に落ちる。
自分がこの場所に置き去りにされた時。
唯一〝共〟にいてくれた、唯一つの〝友〟だったのに――。
それすら、優先はできなかった。
目の前のありえない邂逅に。
一歩近づく。
相手も一歩下がる。
それに、彼は眉を顰める。
どうして、自分から離れようとする?
その収まりきらない執着心を抑えきれなくて。
「下がるな!」
「――っ!」
怒りを込めたその詞に、相手はただ従う。
それに満足し、一気に距離を詰める。
正面に相対すると、背丈はそう変わらなかった。
きっと同年代のはずなのに。
態度には、大きな差異が生じてしまっていた。
それすら、お互いの生まれ、生き方の違いが表現されていた。
「名前は?」
彼は、初めて出逢った人間に対する礼儀すら、よく学んでこなかった。
その必要もないと思っていた。
自分より偉い人間などほとんどいないと教えられてきたから。
相手は、逡巡してから答える。
「……ゼーレ」
弱弱しい、けれど決して耳に嫌な残り方はしなかった。
「上の名前は?」
それに、更に気をよくした彼が上機嫌で訊ねる。
しかし、その問いにゼーレと名乗った少年は俯く。
「……ないです」
「ん?なんでないんだ?」
子供ならではの、愚かな疑問。
それを口にすることすら厭わない。
それが、相手にとってどれだけ残酷であろうと。
ゼーレは、唇を噛んで下を向く。
その行動すら、彼には意図が読めなかった。
相手の心情が――。
家名がないという意味を。
本当なら、教会の名がそのまま付けられるはずも。
放置されていた子供には、その優しささえ恵まれなかったことを。
「……僕、一人なんだ」
そのはぐらかした回答に、彼は納得しなかった。
「一人?」
その永遠にも続くかと思われた問いに終止符を打つため、ゼーレは己自身の口から宣言するには、あまりに惨い真実を告げる。
「……す、捨て子だから……」
「――!?」
絞り出されたような、その回答に詞を失う。
自分の訊ねた疑問。
それが、悪いことなのだと、経験を以ってして、今初めて身に染みることができた。
何事も経験しないと、その真意に気付けない。
どうして火に触っては危ないの?
どうして夜中に外に出てはいけないの?
そんなこと、言われるだけじゃわからない。
実際、どうなるのか知らないから。
〝無知は罪なり〟
本当にそうだね。
だって、こんなに罪悪感を得るんだもの。
その時、なぜ神はそう仕向けたのだろうか。
訊いた彼は、〝愛し子〟だった。
答えた彼は、〝捨て子〟だった。
あまりに落差がある。
その二人を引き合わせたその意向とは――。
それだけは、長き生の果てになった今この時でさえ、掴めないでいる。




